Monthly Web Magazine Sep. 2016
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■■■■■ 新規に公開したEdited Movie Download YouTube
前号マガジン以降に公開した動画です。
YouTubeのJapan Geographic Channelで視聴できます。
広島県廿日市市 宮島 Miyajima、Hatsukaichi city,Hiroshima |
和歌山県高野町 Koyasan,Koya town,Wakayama |
福島県下郷町 観音沼 Kannon numa,Shimogo town,Fukushima |
宮城県蔵王町 蔵王 Zao,Zao town,Miyagi |
静岡県西伊豆町 堂ヶ島 Dogashima,Nishi Izu town,Shizuoka
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静岡県島田市 川根 Kawane,Shimada city,Shizuoka
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北海道札幌市厚別区 北海道開拓の村 Hokkaido Kaitakunomura,Atsubetsuku,Sapporo city,Hokkaido |
北海道雨竜町 雨竜沼湿原 Uryunuma wetland Uryu town,Hokkaido |
北海道網走市 網走監獄 Abashiri Prison Museum,Abashiri City,Hokkaido |
■■■■■ Topics by Reporters
■ アメリカ人から見た日本 瀧山幸伸
8月末の10日間ほど、米国の友人家族を連れて西日本を廻ってきました。
8月の新着情報の最後の部分、富士山に始まって京都までの各地がその軌跡です。
先方夫婦の息子が大学に入ったので、家族最後の記念旅行だそうです。
当初は、バスツアーでも予約して、観光ガイドブックの定番、東京の築地市場、富士山、京都大阪、広島に行ってみたいといっていましたが、自然が好きな家族なので、「神秘的な候補地もあるけどどう?」と知らせました。
そうしたら、「こんないいところがあるならぜひ行きたい。任せるから行程づくりと宿の予約と運転お願いね」ということになりました。
夫は、「すべて任せるから」、とはいうものの、夫人は好奇心旺盛です。
川や海で泳ぎたい、船に乗りたい、サイクリングしたい、山登りしたい。寺の勤行に参加したい、お茶会に出たい、などなど盛りだくさんです。
事前作業は思っていたよりも大変で、あれこれ調整して、先方指定の富士山と広島原爆関連(息子にぜひ見せたかった)を含め、紀伊半島、奈良、高野山、四国、広島、山陰経由京都の旅の予定が出来上がりました。
宿は毎日変わり、毎日長時間車に乗るので大変です。
まあ、毎朝早く活動開始すれば大丈夫かな、と思いきや、旅が始まってみると、「朝はゆっくりさせてねー」
忙しい旅でしたが、天候には恵まれて周遊できたのは幸いです。
今回の旅で思ったのは、やはり文化の違いでした。文化を創り出す地理の違いと言っても良いでしょう。
アメリカ人だからということではなく、日本人があまり興味を持たないものを素晴らしいと思うようです。
例えば、単なる緑の山や川が素晴らしいと言います。
紀伊半島の険しい山に植林された木々は、とんでもなく素晴らしいそうです。段々畑や棚田、小さな滝にも感動します。
なにせ彼らが住んでいる南カリフォルニアは大干ばつが何年も続いていますから無理からぬことです。
もちろん私が推薦した霊地関連は目玉が飛び出るほど感動していました。
高野山の奥ノ院や宿坊、三徳山投入堂も非日常の世界なのでいたく気に入っていました。
日本酒好きの夫は酒蔵見学に大喜びでした。
スケートボード好きの息子は、せっかく持参したボードを使えるようななめらかな舗装が少なく、残念がっていました。
宿と食事に関しては、あちらでも日本ブームのようで、和食大好き、温泉大好きです。
でも、高級旅館で白いご飯に醤油をぶっかけて食べるのはやめてほしかったかな。
「正式な席では絶対やるなよ!」と毎回言ったのに、醤油かけごはんをやめませんでした。そんなにおいしいのかなあ?
最後の夕食は英語を話せる舞妓さんを呼んで一緒にわいわい。目線やしぐさが素晴らしいと、誉めまくりです。先方も当方も、ご婦人方が特に喜んでいました。
7月30日13時37分にJR新宮駅に着いた。カンカン照りで人通りが少なく、あっけらかんとした町である。ブロック塀やコンクリート打放しの建物が黒カビ(黒苔?)で真っ黒に汚れている。ちなみにこれは新宮市庁舎第4別館で、商工観光課、人権啓発課などがある。この黒い汚れは宮崎市で見たのと同じである。瀬戸内海では見られないから、外洋(太平洋)に曝されているためか。
ホテルにキャリーバッグ本体を預けて、小型リュックに三脚と一眼レフを詰めて、神倉神社に向かった。割と近くで徒歩10分くらい。ここには厳しい五百数十段の石段があるので、気楽にぶらぶらとは登れない。石段の途中で動画も撮りたいので、三脚に一眼レフを取り付け、担いで登り始めた。
最初から胸を突くようなきつい勾配である。しかも、加工していない天然石を積み上げているので、歩きにくい。頼朝が奉納したとの言い伝えがある。三脚を担いで体を前に倒すと危ないので、まっすぐに立って登っていく。岩の斜面を登る要領である。上から降りてくる女性が一歩一歩確かめるようにそろそろ歩いている。その写真を撮っている私を意識する余裕はなさそう。
かなり登ってから石段の勾配が緩くなったら、急に楽になった。後から考えると、本当にきついのは最初の三分の一くらいか。
神倉神社は原始宗教の聖地でご神体はゴトビキ岩である。最初ここに熊野権現が降臨された。その後、麓に新しい社殿として熊野速玉大社が建てられたので新宮の名が生まれた。ゴトビキ岩は巨大な陽物に見えるが、その足元は陰部の様だ。上からの眺望はなかなか良い。
今回の旅の主目的は神倉神社だったから、石段を降りて麓に戻るとホッとした。その後、最寄りのコンビニでビールを飲んでチューハイを飲んで、酔った勢いに助けられて熊野速玉大社へ行った。ここらで印象に残ったのは、川原屋である。釘を使わず組み立て・解体が簡単にできる木造プレハブ住宅である。熊野川川原に並んでいた店で、洪水になると直ぐにたたんで避難場所(上り屋)に運んだという。江戸から昭和初期まであったそうだ。
自然に逆らわぬというのが偉い。また、簡便可動という点から京都の河合神社で見た長明の方丈を思いだした。夕食はホテルに帰る途中で、めはり寿司とざるそばのセットをたべた。めはり寿司は塩漬けの高菜でおにぎりを包んだものでここらの名物とやら。
酔いが回ってホテルに帰り、バタンキューと眠り込んだら、7月31日の朝が来た。晴天である。この日は午前9時59分発の八木新宮特急バスで帰るだけである。最前席に座りたいので、30分前に行ったが、誰も並んでいない。お土産にみかんかオレンジでも買うつもりだったが、日曜日で店が開いていないという。日曜日に店を閉める観光地かよ!結局、新宮から乗り込んだ乗客は私とオバさんの二人だけだった。
バスは北に向かい、新宮城跡から大きくUターンして熊野速玉神社前で南転した。熊野川からドンドン離れて、昨夜泊まったホテルの近くや神倉神社前を通るので、どこから熊野川沿いの168号線に入るのと思ったら、新越路トンネルを抜けて熊野川に出た。
熊野川沿いの168号線を少し行くと、対岸に滝が見えた。飛雪の滝、高さ30m幅12mである。その後、再び対岸に滝が見えた。石張り仕上げアーチ型コンクリート橋の向こうの岩盤を伝う細い滝である。しばらくして、山の少し上にまた滝が見えた。目が離せない。ずっと対岸の山を見続けた。あっ崩落跡が。
いったんバスは168号線を離れて支流の四村川から大塔川沿いを進む。水遊びの家族が見えるなと思っていたら、川に温泉が湧き出ている。川湯温泉である。そして、トンネルを越えて、くねくね走って湯の峯温泉を通過、バス停に独り旅の白人女性がいた。
さらに山道を登って下ると、本宮大社前に出た。温泉を巡る大回り道だった。
熊野川沿いの168号線に戻り、ずんずん北上する。県境を越えて、七色高架道を進むと、左手直ぐに細いが見事な滝の下部が見えた。十二滝である。
おしまい
9月1日、国土交通省(滋賀県、水資源開発公団共同)が実施している水質調査の水質調査船「湖水守(コスモ)」に乗船する機会があった。
琵琶湖の南にある南郷から最北端付近間を8時間で往復した。今月と来月の2回に分けて船上から見えるレポートします。
琵琶湖から唯一流れ出る自然河川(人工河川としては琵琶湖疎水がある)の瀬田川の洗堰上流にある桟橋から乗船した。
桟橋に係留されている「湖水守」
桟橋から見る洗堰
手前側に一部残っているのが明治期に建造された南郷洗堰、奥にあるのが昭和40年代に改築された新堰(瀬田川洗堰)
桟橋を出て瀬田川を遡上し琵琶湖の南湖に向かう。
琵琶湖は琵琶湖大橋のある位置より北側を北湖と呼び南側を南湖と呼んでいる。北湖は両岸の幅が広く、水深が深く琵琶湖の大半の面積を占める。一方、南湖は幅も狭く水深が浅い。
しかし、速度が上がらない。
洗堰より上流の瀬田川は、「われは〜うみのこ、さすらいの・・」で始まる『琵琶湖周航歌』で有名な京都大学漕艇部など多くの関西の大学の漕艇部が連日利用しているため、動力船規制があって7ノット(時速13キロ)以下で巡行しなければならないためである。
波を抑えつつゆっくりと進む。そのため、僅か7キロの行程を45分かけて南湖に向かう。
瀬田川の風景と大学漕艇部のボート
右がJR東海道本線、左が名神高速道路の各橋梁
操舵室からの眺め(前方は瀬田の唐橋)
左舷から瀬田川上流(手前が一般国道1号、奥がJR東海道本線の各橋梁)と下流(瀬田の唐橋)
JR東海道本線瀬田川橋梁
瀬田川と別れていよいよ琵琶湖(南湖)へ入る。
瀬田川上流端付近
南湖より瀬田川を望む
近江大橋付近
南湖
所々でバス釣りの舟が散在する
後方の山は比叡山系
大津市街地
浮見堂 とその周辺
琵琶湖大橋を通過、いよいよ北湖へ・・。速度を上げる
航路は琵琶湖の流心を走りながら北を目指す。そのため岸からかなり離れる
遠方より沖島
沖島は東西2.5キロ、南北1キロ、周囲約7キロで、琵琶湖で最大の島。
淡水湖の島に人が住む例は世界的にもめずらしく、戸数約140戸、人口約は450人。小学校があり、児童数は7名(平成18年度)。
中学生は船で島外の学校に通う。
北湖
遠方より多景島
復路では時間の関係から多景島に接岸はできないものの接近する予定である。
北湖深層水の採取
水深40mからの琵琶湖の水を採取。水温は9℃。
採取した水を未処理のまま清水の舞台から飛び降りたつもりで飲んでみた。
特別に美味とは言えないものの普通に美味しく飲むことができる。
この水を飲みながらコンビニ弁当の昼食を食べた。
《次回に続く》
今年の夏の暑さは異常を通り越していた感じでした。一服の"涼"を求めて高雄に行きました。
色付きを待つ紅葉と清瀧の流れがあふれる涼感を呼びこむ下で、しばしの癒しの時間を過ごしました。気温は4〜5度低かったようです。
その後久しぶりに神護寺へ行きました。ところが楼門に行くまでの石段でフラフラ。仁王さんに励まされて境内へ、鎧坂で再度へたばり。
境内の伽藍はなんら変わらず以前のままでしたが、これまで経験しなかった苦しい参拝となりました。単に暑さだけの理由ではなさそうです。
帰路、約350段の石段道、カメラにまで気が回らない程疲労困憊して、必死でバス停に辿りつきました。ショックでした。
喜寿を祝って頂く年になると全ての面に制約が付きまとい、世間が狭くなる気がします。そのためか喜怒哀楽にも縁遠くなるのは私だけでしょうか。
そうした日々の中での喜びは、日本経済新聞の最終ページの「文化」面を読むことです。長年かけて蓄積された調査・研究成果が紹介されています。
労苦の程は勿論、初めて知る個々の世界の奥深さに驚き、感銘を受けております。
時として、地元に関連する事項にぶつかると大変感激します。何せ全国版ですから・・・。以下は一例です。
『異形の狛犬詣で獅子奮迅』が記載されました。普段訪れる社寺で何気なく目をやる程度の狛犬、その道一筋に調査されている方々の多いことを知りました。
狛犬の歴史にも触れることも出来ました。
わが国にもたらされた奈良・南都頃の獰猛な獣性をもった狛犬−薬師寺の一対(国重文) 岡山・高野神社像(国重文)
↓
獰猛さは影をひそめ、穏やかな表情−和様に移って行った狛犬(平安時代)−滋賀野洲の『御上神社像』(国重文)
↓
この和様を捨て去った全く新しい鎌倉時代の獅子像−滋賀栗東の『大宝神社像』(国重文)
大宝神社像はフアンから「スリムかつマッチョ(力強くて男っぽい)な姿がかっこいい」との評価を受けているようです。
平安時代に完成した和様の狛犬は、どう猛な獣性をさけた微妙な美的世界を狙ったものですが、鎌倉時代に湛慶が創出した様式は、獣性を秘めながら温和な表現にまとめたもので、以降の狛犬の流れの源流となったようです。
↓
日光東照宮の陽明門裏の狛犬−大宝神社像のコピーといわれています。
日光東照宮への狛犬設置をきっかけとして、社寺の参道に大挙して狛犬が置かれるようになりました。
↓
昭和に入ってからは大宝神社像を真似た(岡崎古代型・古代型狛犬・大宝神社型石造品)と呼ばれるタイプが誕生して全国に広まり、靖国神社やすべての護国神社はこのタイプのようです。
社寺に行けば必ずぶつかる狛犬です。上記の「正統派」とは別に、江戸時代に奉納ブームが起こった際に地方の石工がつくったものが多くあります。
よく見ると種類も多く、形・サイズ・表情・材質・など多様性に富んで現在につながっています。(岡崎型狛犬・ほか)
重要文化財の木像狛犬の大半は京都国立博物館に寄託されており、博物館では適宜公開展示が行われます。重文クラスが地方に分散してあるようです。
おおざっぱですが、こんな感じに知って喜んでおります。
「何でもあり」の繰り返しで来ました。今更何かに絞ることの時間もありません。動きもままならぬ時がすぐそこまで近づきつつあります。
人さまの情報をベースに、知る喜びを少しでも長く続けられればと思っております。
9月7日の日経夕刊 1P「あすへの話題」に、キャスタ−の国谷裕子さんが「琵琶湖の異変−蓮」について触れて頂きました。チッポケな喜びです。
参考文献≪画像は京都国立博物館資料・栗東の宗教文化・巽彫刻HPより複写≫
■石塔は… 大野木康夫
重要文化財(建造物)にはいろいろな石塔が含まれています。
信仰の対象となるため、一部の石塔は、撮影はおろか目にすることもかないません。
(泉涌寺の開山塔と無縫塔、三宝院宝篋印塔、室生寺納経塔など)
また、建築物より目立たないので、見つけるのが困難なものもあります。
東大寺五輪塔(奈良市)
東大寺の北側、三笠霊園の中ほどにある重源上人の供養塔です。
笠部が三角形なのが印象的です。
覚勝院宝篋印塔(京都市右京区)
覚勝院は大覚寺の塔頭ですが、宝篋印塔がある覚勝院の墓地は嵯峨釈迦堂清凉寺の北側です。
圓成寺五輪塔(奈良市)
境内を探しても見当たらないので、お寺の奥さんに尋ねたら、国道を渡ったところに墓地があってその上の方ということでした。
山口薬師堂宝篋印塔(奈良県吉野町)
薬師堂は地元は集会所と認識しているので、聞いてもわからず、探すのに時間がかかりました。
元宝寿院宝篋印塔(滋賀県大津市)
国指定文化財等データベースでは比叡山の無動寺谷にあるとされていますが、実際は山麓の南善坊にあります。
元は津島神社の神宮寺のものですが、神仏分離から転々としたようで、最終的にここに落ち着いたのならいいのですが。
以下は、石塔の中でも好みのものを集めてみました。
石塔寺三重塔(滋賀県東近江市)
為因寺宝篋印塔(京都市右京区)
当麻北共同墓地五輪塔(奈良県葛城市)
廃少菩提寺多宝塔(滋賀県湖南市)
島八幡神社宝塔(滋賀県竜王町)
航海記念塔(京都府八幡市)
石塔は地味ですが、直接年代が刻まれているものもあり、時代を感じさせる文化財です。
群馬の笠塔婆や今治の五輪塔群、大分の宝塔など、今後ぜひ撮影したいと思います。
着物アドバイザーの仕事をしているが、最近はめっきり仕事が少なくなった。
この仕事を始めるときに先輩アドバイザーから、直に日本地図を家に貼って、手に入れた帯、着物の産地に印をつけるようになるよ、と言われていた。
さすがにそこまでには至れないが、やはり、日本全国様々な産地があり、ついついPCでも見入ってしまう。
昔は雪で家を出られない間とか、出荷できないものを使って等事情により地域のみで作られていたものが、作る人もいなくなり、材料もなくなり、めっきり少なくなってしまった。
その分過少価値が上がり、とんでもない金額になっているものもある。
芸術品になってしまい、なかなか着て回ることもなくなり、ますますどこかのガラスの中にしまわれ、本来何度も洗い張りを行い風合いがよくなるものでもその風合いを知ることはできない。
以前、博多の織物工場を見学させてもらった。
ガッチャン、ガッチャンと心地よい音、絹の香り、職人の優しい顔、ほっとできる空間だった。
暑い夏は昼間はあまり動けず運動不足気味で、せめてもと毎朝起き掛けに近くに3つある溜池の公園を巡回する散歩を行っている。
散歩しながら野鳥の観察や雲の観察もしっかり行っているがこれがいい。
夏の時期野鳥で面白いのは孵った若鳥が増えるあたりだろう。
今年は8月の初めに直ぐ近くの溜池にかなりフレッシュな感じのするチュウサギが4羽位来てうち2羽だけが居残ってしばらくいた。
チュウサギは渡り鳥で準絶滅危惧種だから一応珍しいことになるが普通はサギか、で済まされてしまう。
近くで巣立った若鳥のようだ。若鳥やヒナはほかの生き物に狙われやすくて、4羽が現れたその日に散歩道の途中で死んだ若いサギをついばむカラスに出くわした。
恐らくは木の上にいて襲われ落下したところを食べられているのだろう。襲ったのはやはりカラスとみるのが順当だ。カラスは時として他の鳥を襲う。これまでもハトを襲っているところや食べているところを見たことがある。
若鳥が狙われそうなのは多くのレストランにおいしいとされる若鳥料理がメニューにあるのをみてもさもあらんと思える。
居残った2羽はそのうち1羽になり最後の1羽も無事育って今週には見えなくなった、そろそろ渡りのシーズンかもしれない、秋が少しづつ近づいているようだ。
アオサギの若鳥も姿を見せる。普段は大きくて悪食でイメージが今一つよくないアオサギも若鳥は小さくて控えめで頑張れと言いたくなる。若鳥はいちいち面白い。
8月はほとんど雨が無く連日35度を超える猛暑が続いた。
溜池は水位が下がり濁って苦しそうな姿となっていた。
カワセミのつがいをよく見る溜池もこうなるとカワセミの姿はない。
しかし面白いことに雨が降って水位が上がり透明度が少しは回復するとすぐに現われ始める。
7月の終わりころに姿を見せたカワセミはくちばしの先端に白いところがあって若鳥の特徴を見せていたが、9月のはじめとなった今週久し振りに現われた姿は素早い動きで、若々しいが立派な大人の雰囲気を見せている。どこかで修行してきたのだろう。
バンが7月の終わりころ溜池のヨシの茂みでヒナを2羽孵した。
うまくほかの生物からの攻撃を逃げおおせたようで近ごろはしっかりした若鳥になってきたが、それでも常にヒナのようなか細い鳴き声を出し続けていてあたかも親に無事をいつも伝えている風だ。
ちょっと過保護な雰囲気だが生き残る知恵なのかもしれない。
溜池は小さな鳥だけがスイレンの葉の上を渡り歩いたりもできて外敵から身を守るにはいい場所のようでもある。
風強く吹いた翌日はおやという鳥が現れる。
先週の荒れた天気の翌日は久し振りにカササギが現れた。
ここらでは西の糸島のほうがねぐらのはずだが西風が強いと何かの拍子で来てしまう。
カササギは海外では普通に見かける鳥でギリシャではパルテノン神殿の壁の上に列をなして止まったりもしていた。
日本では佐賀県に集中していて隣接する福岡の西部にも姿を現すが日本のほかの地域にはまずいない。
秀吉の朝鮮戦役で連れてこられたのがいついたといわれるが他に広がらないというのも不思議だ。たまに出くわすとうれしくなる。
こんな風にして毎日の朝が始まる。さて9月はどうなっていくだろうか。
重要伝統的建造物群保存地区(は全国で110箇所が指定されていますが、関東一都六県には六ヶ所存在します。
石川県のように一県で八か所も登録されている県もありますれど、七都県で六ヶ所はいささか寂しい状況です。
しかも江戸時代以降、現在まで長く国の中心である首都があり続けたことを考えると不思議な気さえがします。
これも戦争の影響でしょうか。
その六ヶ所は
1、群馬県桐生市桐生新町
2、群馬県中之条町六合赤岩(未訪問のため画像なし)
3、栃木県栃木市嘉右衛門町
4、埼玉県川越市川越
5、茨城県桜川市真壁
6、千葉県香取市佐原
この内、中之条町六合赤岩を除く五ヶ所に私は撮影に出かけています。
さらにJapan Geographicへの投稿開始前の川越訪問を加えると全て複数回訪問しています。
特に、真壁と佐原は住まいから近いこともあり、東日本大震災以前、震災被害の激しい時、被害からの復興プロセスといろいろなタイミングで撮影にでかけていて、そのせいもあって私には愛着の強い重要伝統的建造物群保存地区です。
真壁 震災前 再建工事中 現在
佐原 震災前 再建工事中 現在
こうなると「重要伝統的建造物群保存地区」好きの私としては中之条町六合赤岩に出かけたいと思ってしまいます。
以前同じ中之条町の冨沢家住宅を訪れており、訪問のチャンスがあったのに逃しています。
Japan GeographicのGenaral Ratingが六合赤岩が'2'に対し、他の重要伝統的建造物群保存地区は'3'又は'4'となっていて若干訪問を躊躇させる要因がないわけではありませんが、関東の重要伝統的建造物群保存地区全て制覇を出来る限り早く達成したいと考えているこの頃です。
所在地:埼玉県深谷市の深谷駅内
『いちねんぢゅう』?あれ?『ぢ』を使う?『じ』じゃないの?はたしてどちらなの?
駅構内の写真を一枚。
帰宅して『じ』と『ぢ』の違いを調べようとパソコンを打とうとしたら、『ぢ』を打ち出したいのに、どこを押すかがわからない。
YAHOO検索窓に『ちに濁点付けるにはどうしたらいい?』と入力をして教えてもらうことに。
知恵袋が出て、ベストアンサーとして『「D」のあと「I」をおせば「ぢ」になりますよ』と簡潔明瞭な回答。
ベストアンサー以外もいくつか羅列されていて、ちょっとふざけたものは『ヒサヤ大黒堂に訊いてください』ってものも。
お叱りの回答も。『だぢづでど=DA DI DU DE DO じゃん。小学校で習うでしょ? なんでこんなこともわからないの??』というのもあります。
そうだった済みませんねと独り言ちて『ぢ』が打てるようになったので前に進みます。
『いちねんじゅう』と『いちねんぢゅう』はどちらが正しいかと知りたいので検索窓に『じとぢの違いは?』と入れます。
出てきた回答。国語に関する原稿執筆を仕事とされている方からの回答なので信じることにして、要約をすると下記のようになります。
*-*-*-*-*-*
国が内閣告示・訓令で定めた「現代仮名遣い」(昭和61年)では、「ぢ」「づ」を使うのは、①同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」で、例えば「ちぢむ(縮む)」「つづく(続く)「つづみ(鼓)」②二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」で、例えば「はなぢ(鼻+血)」「そこぢから(底+ちから)」「たけづつ(竹+筒)「みちづれ(道+連れ)」の二つの場合に限る。上記以外は原則としてすべて「じ」「ず」を使うこと。
なお、次のような語は「二語の連合」ではあるけれども、「現代語の意識では二語に分解しにくく、元々の言葉を想起しづらい」という理由で、昭和21年の内閣告示・訓令では「じ」「ず」と書くことになっていました。例えば「世界中(せかいじゅう)」「稲妻(いなずま)」などです。しかし「現代語の意識では二語に分解しにくい」という理由が主観的すぎるなどの批判があってか、昭和61年の内閣告示・訓令では、上記のような語について、『じ』『ず』を用いて書くことを本則とし、『せかいぢゅう』『いなづま』のように『ぢ』『づ』を用いて書くこともできる、と、規範が緩められました。
*-*-*-*-*-*
規範が緩められて『ぢ』でもOKとのこと。そうだったんですか。
看板は目を引くために意図的に『ぢ』と書かれたのでなければ、昭和61年以降に設置された看板で、例外の中の使い方での『ぢ』を使用していて正しいことになります。
違和感を覚えた私が間違いであったということです。
老いてなお賢くなりたいけれど、難しいなぁと思うこの頃ですが、『ぢ』の打ち方はD+IであるというYAHOO知恵袋の回答の中に、「えっそうなんだ!初めて知りましたぁ!ありがとうございました!」というのがあり、やたら!(ビックリマーク)の多様にはビックリだけど、ご同輩出現には少しホッとしました。
■ おばちゃんカメラマンが行く 事務局
高野山一乗院と城崎西村屋
庭付きお宿体験
普段は旅館でもホテルでも窓からの景色で、オーシャンビューとか渓流側とか選ぶのだが、今回 庭園(庭)付きの宿に泊まる事ができた。
高野山一乗院(いちじょういん)の宿坊
歴史的な詳細は不明だが、平安時代前期に 善化上人が開基した。
その後時を経て、高野山の「明治の大火」で類焼し焼失 。
今ある建物は1888年に再建されたものである。
(蛇足だが高野山には117の寺があり宿坊として半数が一般人を受け入れている)
1500坪もある境内の中央に庭はあり、典型的な回遊式庭園で、中央部分は金亀、その左手には蓬莱、方丈、瀛洲、壷梁の四神島(蓬莱島)がある。
流れる水の音と手入れの行き届いた深緑の植栽が宿泊客を癒してくれる。
さすが寺院の庭園だけのことはあり、造りに凛とした雰囲気が漂う。夜になれば、静寂な境内と思いきや、大ガエルの大合唱だ。
いつの間にか鈴虫的鳴き声も加わり賑やかだ。これもまた好し。
寺で酒を飲みながら庭を拝観することは叶わないが、宿坊ならば許してもらえるだろう。いい気分にさせてくれる。
150年の歴史を持つ純和風旅館で、庭を囲むようにある客室からの眺めは部屋によりそれぞれ趣がある。
一乗院とは異なり旅館なので客は庭を浴衣と下駄で散策したり、片隅にある神社をお参りすることもできる。
私の部屋は池に大きく張り出しており真下に鯉が泳いでいる。
庭を上から眺めたり、散策して同じ目線で見たりと楽しみ方もいろいろだ。
本格的な浴衣と帯で夜の温泉街をそぞろ歩くのもまた楽しい。
日本人に生まれて良かったとつくづく思う。
幼いころ縁側に座って庭を眺めながらスイカを食べたりお月見をしたり猫をかまったりと、いろいろな事がついこのあいだのように感じられる。
旅先から帰るとあっという間に現実に戻ってしまう。
こんなうつろいは、カメラではなく人の心で撮ってそっとしまっておきたいと少し悟りの境地である。
どこにでもあった庭は悲しいかな非日常になりつつあるのだ。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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