Monthly Web Magazine June 2020
■ 阿蘇の水源巡り 瀧山幸伸
南阿蘇村の白川水源は有名になりすぎて、土産物店、看板と幟、人の動きと声など、いわゆる人工的なものが多くてざわざわと落ち着かず、心静かに過ごせなくなってしまった。
白川水源と同じ南阿蘇村には数多くの水源があるが、まだあまり知られておらず訪問者が少ないので、水源本来のアンビエンスを味わいたいなら、車ではなく徒歩か自転車での水源巡りをおすすめしたい。
車がだめな理由は、道が狭くわかりづらいこと、駐車スペースがほとんどないこと、車の騒音と走行自体が環境音と景観のアンビエンスを損なうことだ。
逆に、徒歩か自転車で巡れば、目の前に広がる田園と農村の風景、清らかな川と水音、背後の阿蘇山と外輪山の山並など、美しい風景と音に癒される。徒歩で一日かけて、地元の蕎麦やスイーツなども味わい、農家の方々と話しながらのんびり巡るのが最もおすすめだ。
明神池名水公園、小池水源、水源付近の農村風景
阿蘇の周囲には各地に多くの水源がある。産山村の池山水源や山吹水源もお気に入りの場所だった。だが、最近いわゆるフォトジェニック系のネットで評判になったようで、撮影目的で訪れる若い方々が多くなってきた。騒々しいのはやむを得ないので人がいなくなるのを待つしかないのだが、飲み水に使っている水源に足を入れたりとかマナーを疑う行動も見受けられ、癒しの水源が好きな者としては残念な状態になりつつある。
池山水源、山吹水源
■ 未投稿(?)写真家から(2) 大野木康夫
先月はハードディスク内をあさって直近3年間の未投稿写真を振り返りましたが、本サイトでお世話になり始めた2010年10月頃の写真を見てみると、多くの未投稿写真が見つかりました。
当時は、ストックとして取っておいて、取材できないときに投稿しようと思っていたものですが、機材の進化とともに投稿できるレベルの質を備えなくなり、今ではデッドストックになってしまいました。
供養を兼ねて少し紹介しようと思います。
2010年10月
天皇神社、小野神社、琵琶湖疏水、明通寺、地主神社、明王院、京都市動物園、園城寺
2010年11月
浄瑠璃寺、千日墓地、長尾共同墓地、泉橋寺、相楽神社、川湯温泉
毘沙門堂、詩仙堂、崇道神社、赤山禅院、瑠璃光院、蓮華寺、曼殊院
正法寺、常寂光寺、落柿舎、清凉寺、日吉大社、西教寺
2010年12月
宇治上神社、宇治神社、興聖寺、賀茂御祖神社
水無瀬神宮、長岡京、南真経寺、北真経寺、冬ほたる
源氏物語ミュージアム、蟹満寺、松尾神社、神童寺、春日神社、椿井大塚山古墳、聖ヨゼフ門の家
2011年1月
梅小路機関庫、圓通寺、毘沙門堂、石山寺、日吉大社、龍谷大学、豊国神社、日吉東照宮
この後の2011年2月と3月は未投稿が非常に多い(2月…61箇所中42箇所が未投稿、3月…45箇所中32箇所が未投稿)ためここまでとします。
4月以降はおおむね投稿しているようでした。
最近は、取材後、直ちに現像して投稿作業に入るようにしていますが、当時はけっこう日を置いてから現像していたので、時機を逸したりして未投稿になったものも多いと思います。
最近、ようやく京都市内の取材を再開することができました。
新緑の季節を迎え、いつもであれば多くの人でにぎわう有名寺社なども、遠方からの訪問者が少ないため、ひっそりとしています。
■ 鏝絵(コテ絵)について 中山辰夫
過日、郊外を散策中、旧家の屋敷でコテ絵を見ました。久しぶりです。
今は手直しできる職人も居なくなったので成り行きに任せるままと話されていました。
5~6年前、友達あてにまとめた資料がありましたので載せました。全くの寄せ集めです。取りやめになった催しも含まれています。
鏝絵とは、漆喰(しっくい)の壁に左官コテで漆喰を塗り上げ、レリーフを描くように浮彫りの模様を描く左官の技術。
左官職人がコテ(左官ごて)で仕上げていくことから名がついたとされます。
古くは高松塚古墳、法隆寺の金堂の壁画にあるように超古いものも残っています。
現在に残るコテ絵の題材は福を招く物語や花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現されており、財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いられたからともいえます。
コテ絵の作品はなかなか見ることができません。が時代区分を別にすると全国で約3000件、その内大分県には約1000件残っているようです。
数年前NHKで放映された大河ドラマ「真田丸」の題字とオープニング壁画は、現代の左官である『挟土秀平』氏の作で、コテ字と僅かなコテ絵がタイトルでした。
日本における左官という職業の始まりについて確たる定説はないようです。
仏教伝来の時にもたらされた諸技術の中に含まれていたとされ、寺院の造営などで壁画や白い平面の壁の必要性が高まり、土壁の上に上塗りをする本格的な左官の仕事が生まれたとされます。
平安時代には寝殿造りの居室や屋敷まわりの塀を白く塗った土壁が多く取り入れられました。
中世では白壁は屋根瓦と同様に、耐火と権威の象徴として、需要が一層高まってゆきました。
戦国時代から江戸時代初期の城郭造りに、左官の仕事が急増し、藩ではお抱えの左官を生むようにもなったようです。白壁の美しさが歓迎されました。
例-姫路城 ( 国宝 ) 南北朝時代
左官の技術面では茶室造りが新しい壁を呼び、白壁以外に色壁を広げたようです。
西本願寺飛雲閣の茶室(国宝) 茶室の壁は高貴な色とされた赤が使われています。 桃山
徳川300年の時代は、職人文化にも興隆をもたらしました。職人間でも技術を競う風潮が起こり名工の誕生につながりました。
また、江戸近郊にあった良質の石灰産地が旺盛な需要に応じたようです。
江戸時代後期に左官の名人・伊豆の長八が現れました。
静岡県松崎に生まれた「入江長八」によって作られた漆喰彫刻・鏝絵が特にコテ絵の起源といわれています。
長八に始まったコテ絵は、明治に入り、その弟子たちや多くの左官の手で全国に広まりました。
長八の作品の多くは、関東大震災や第二次大戦で失われましたが、その影響を大なり小なり受けた左官たちのコテさばきの証しが様々な表現で全国各地に残っています。
全国で3000点、大分県だけで1000点のコテ絵が残されているようですが、他県では固まって見ることは出来ません。
コテ絵の多くは、左官が施主に感謝のしるしやお祝いとして無償で描いたものが多いようです。
インターネットから引用しながら全国の代表的なコテ絵を見てゆきます。
東北の左官たち
冬になると深い雪に閉ざされ、春を待ちながら室内で黙々とコテを運ぶ作業をします。
岩手気仙の吉田春治、山県大石田の後藤玉舟、富山の竹内源造、新潟長岡の川上伊吉が著名な左官です。
サフラン酒造の土蔵 新潟県長岡市 左官:川上伊吉 国登録有形文化財 明治
機会があれば行ってみたいです。 左官仲間では日本一と評価されています。
名越家土蔵 富山県砺波 左官:竹内源蔵 明治
コテ絵看板 能登屋旅館 山形県花沢市 大正時代の作 1921(大正10) 国登録文化財
中部
伊豆の入江長八、浜松の松浦伊吉、愛知岡崎の松浦勝蔵
左官の本業からすればコテ絵は境界の領域の技術。西洋の近代絵画を取入れる明治政府とは逆行の立場でした。
今では、長八作品以外見ることは難しいです。長野では今もコテ絵がつくられているようです。
原村の土蔵を彩るコテ絵:長野県諏訪郡原村
長八美術館:静岡県賀茂郡松崎町松崎
長八の作品約70点収蔵、50点を展示・紹介しています。日本では珍しい町営のコテ絵美術館。1984(昭和59)年に建てられたモダンな
建物で、中庭外壁の土佐漆喰の塗り壁など、現代左官の技術の粋を集めたものといわれています。
建物のあらゆる場所に、全国から集まった優秀な技術者たちが伝統の技を駆使してなしたもので、まとめられ、「江戸と21世紀を融合させた建物」として注目されているようです。
長八作品
関東
サムライ社会の崩壊で、武士社会を支えていた職人たちも失業しました。
擬洋化としての明治初期の洋館が建ち始めるころ、左官たちは新しい時代のニーズとともに歩き出します。
須賀神社 東京 四谷 大正14年奉納 長八の弟子である吉田龜五郎の作品
吉田龜五郎は多くの弟子を育てた。その一人、伊藤菊三郎の作1963(s38)1966(s41) (小磯正邦氏蔵)
宮の下冨士屋ホテル(2020年7月オープン 冨士屋ホテルと改称)や目黒雅叙園(ホテル雅叙園東京と改称)には豪華なフレスコ画が多数観られました。改装後も残されるようです。
関西
左官職人のルーツは京都・大坂・淡路
仏教が日本に伝来して約1450年。渡来人が法隆寺で初めて壁を塗り、仏を壁に描きました。
赤土・石灰・雲母を使った塑像が出て京都は寺のまちとなりました。この技術を基に、城郭や茶室が誕生しました。
現在の淡路は熱いようです。「カリスマ左官」と呼ばれる久住章氏を頂点に、久住有生氏が活躍し、NHKの狭土秀平氏も彰氏のもとで修行して独立しました。二人は左官業界の星と期待されているようです。
中国
島根・鳥取・山口には鏝絵が多く残っています。特に島根は、出稼ぎが日常的に行われていた貧しい地域で職人になることがなかば宿命であったようです。そのため技術の上達に懸命であり、高収入を得ることが残してきた家族への努めでした。
異国へ出稼ぎに出かけ、年に一度故郷に帰っては家内安全を願い、コテ絵を奉納したことで、コテ絵が多く残っています。
太田市ではコテ絵巡りが行われているようです。
津山基督教図書館(津山市) 1926(大正15)
1926(大正15)年に建築された木造三階建、銅板葺、時計付の塔屋や細部の浮彫り等に特徴があります。基督教文書伝道を目的として設立されたわが国唯一の基督教公共図書館です。正面上に十字架と神の子羊が描かれています。
四国
土佐の左官は、独特の硬さを持つ土佐漆喰を産み、徳島近辺では熊野灰とサンゴを焼いて作る漆喰を使うようです。愛媛では、伊予三浜の石灰竃の石灰を使った様です。
愛媛県八幡浜市 旧白石和太郎邸 洋館 1897(明治30)年
九州
全県に散在していますが福岡県、長崎県、熊本県と九州北部にあり、特に大分県には約1000件と集中しています。
特に大分県安心院(あじむ)町に集中しています。「コテ絵のまち」で町おこしをしています。
約100ヵ所ある中で、60ヵ所がみられるようです。
多い理由は、優れた左官職人が多くいたこと-安心院では、長野鐵蔵、山上重太郎、佐藤本太郎の作品が多く見られます。中でも、長野鐵蔵は14人の弟子をかかえておりました。
次に、漆喰が手に入りやすかったことです。隣の宇佐市長洲は、遠浅になっているので貝多いため、貝殻を木炭と交互に重ねて焼いた灰から漆喰を製造しましいた。
3つ目の理由は、比較的生活が裕福な家庭が多かったこと、などがあげられるようです。
いずれも安心院町のまち中です。安心院町ではコテ絵ツアーも行われています。
これまでに目にした事例
手持ちの画像をチェックしましたが、関西にはこれといったサンプルが見つかりません。関心がなくて写さなかったのか…。
見つけるのに結構手間がかかります。フレスコ画マガイのものを含めて並べます
京都・長楽館
京都府庁の旧議場 日本最古の議場。平成26年に110年を迎え大改修。白漆喰を一気に塗り上げるため大変な作業。左官屋さん、作業を終え疲労困憊。コテ絵を描く元気もない。国重文
京都・伊根町は土蔵に多い 滋賀・木之本
奈良県・今井町 奈良県・大和郡山市 兵庫県・生野町
福井県・武生市 広島県・柳井市 鳥取県・倉吉市
岡山県・倉敷市
岡山県 ・備中高梁 吹屋 「広兼邸」 ベンガラ製造で富を築いた邸宅。 その一角の「みそ蔵」。石州大工が呼び込まれ石洲左官も加わり石州煉瓦を使った独特の町並みをつくる。
岡山県 備中高梁 吹屋 旧片山家住宅 ベンガラ製造で富豪になる 国重文
京都市 北山 京都市内 京都・和中庵
愛媛県・内子町 和ろうそくで富豪となった大邸宅に見られる 本芳我家住宅・他 1884(明治)
今は左官職人さんが減少し、既存の建物にあるコテ絵の管理も十分でない状況にあるところが多いようです。
まだまだ多数ありそうですが、探すのが大変ですのでこれまでとします。
■『春告げ鳥』を追いかけて 酒井英樹
別名を『春告げ鳥』とよばれるウグイス(鶯 Horornis diphone)は平地にて鳴き始める季節が早春であることから来ている。
春分の日の3月20日、わが家の近くでも『春告げ鳥』の初鳴きがあった。
春を告げるには些か遅いと感じて調べてみると、気象庁が生物季節観測している京都は2日後の22日、平年に比べ3週間ほど遅かったようだ。
初鳴きの日以降、歌声を競うかのように(実際はオス同士の縄張り争いや求愛のため)囀る彼ら、しかし英語名Japanese Bush
Warblerのとおり声は聞こえど・・姿は薮の中で見えず・・。
日本人なら誰でも知っている「ホーホケキョ」のウグイスの囀り。
だが、ウグイスの姿を正確に認識している日本人はどれほどいるだろうか??
花札の2月の図柄は「梅にウグイス」と広く認識されている。
しかし、ウグイスは雑食性の留鳥で、昆虫類や冬季は木の実を食べる。
梅の木にとまって花の蜜を食すことはまずないという。
梅の花に群がる綺麗な薄緑色の鳥は比較的警戒心が緩く群れで行動するメジロがほとんどだそうだ。
ちなみに日本画の場合は、「梅にメジロ」の画材がほとんどだそうだ。
メジロ(Zosterops japonicus)
静岡県富士宮市 富士山本宮浅間神社の境内にて 令和二年(2020)3月撮影
ちなみに、メジロの写真や詳細はWeb-magazine 2020年3月 田中康平さんの『メジロが多い』を・・
幼少のころに籠飼のウグイスを眺めて以来、その姿をきっちり認識したことがなく、知識として知っていただけの・・
そして、
今まで鳥達・・といっても『動かない鳥』を撮影してきたわが身としては・・・囀る姿を撮ろうと一念発起、4月以降仕事の合間を見付けて毎日鶯を追いかけてみた。
京都市 北野天満宮 本殿 中備(蟇股) ウグイス
撮影を始めてしばらくは空振りが続いた。ウグイスは警戒心が強く、英語名Japanese Bush
Warbler(藪でさえずる鳥)のとおり薮に隠れていることが多い。
35ミリ換算で3000mmの望遠レンズを用いてなるべく遠くから撮影を試みるも、腕の未熟さから失敗の連続・・。
しかし、数日観察するにつれ判ってきたのが、警戒心の個体差があるようだ。
周りを気にせずヨシの上端に留まり盛んに囀り続ける1個体を発見し、この片足で囀る(勝手に「ジョニー」と名付けた)雄の個体を中心に1か月間半追い続けた。
ウグイスの「ホーホケキョ(法、法華経)」と念仏を唱えているかのごとく囀るこから広まったようだ。
しかし聞き方を変えれば「ウィー、ギュウ・ウィス」とも聞こえなくもない。この独特の囀りがウグイスの和名の語源となったという説もある。
《動画》
また、ウグイスにはこれとは別に「ケキョケキョケキョ・・」(動画では4分頃)と囀ることがある。
この囀りは『ウグイスの谷渡』と呼ばれている。
ウグイスはこの二つの囀りを使い分けて、仲間に意思を伝達しているとされる。
「ホーホケキョ」は縄張り宣言であり、また、巣にエサを運ぶメスに対する「縄張り内に危険なし」の合図でもあるそうだ。
「ケキョケキョケキョ」が侵入した者や外敵への威嚇であるとされている。
同時にメスは自身の安全のためと、外敵に巣の位置を知られないようにするために メスに身をひそめるよう警告しているそうだ。
GWも過ぎた頃、観察も1か月過ぎたあたりで、ジョニーは突然姿を見せなくなった。
囀りは相変わらず盛んに響いているが・・新緑の葉に姿を隠しているのを数度見かけただけ。
彼も盛んに囀った結果、良き伴侶を得て巣ごもり、子育て(ウグイスのオスは給餌はしないとされる)を始めたのだろう・・。
残念ながら姿を見せなくなったのは・・警戒心が強くなったのは、そのためだろう・・。
メスや子供を守るため、晩夏までは囀り続けるであろう・・たとえ姿が見えなくても・・心地よい囀りは耳を楽しませてくれる・・
そして、ぜひ命を繋いで来年以降も変わりなく囀り続けてくれることを期待したい。
■ 畦道の小さい美 川村由幸
新型コロナウイルス感染拡大でどこにも撮影に出かけず、三密を避け、在宅勤務を続けております。
6月からは2回/週の出勤にしておりますが、自宅で時間を持て余すこと甚だしくうっちゃりようがありません。
そんな中、利根川の洪水防止のための調整池の中を歩くことは天候が許す限り続けています。
そんなウォーキングロードをカメラを持って歩いてみました。
ここは、水田のための利根運河が流れており、翡翠、雉、山鳥などめずらしい鳥を頻繁に見かけます。
ただ、鳥の撮影はむずかしいので最初からあきらめ、動かない小さな美しいものを探してみました。
当然、皆さんの想像通り対象は野の花ということになります。たんぽぽぐらいは承知していても他の花は名前もしりません。(編集者注:カキドオシ?、アザミ、キンポウゲ、ノゲシかブタナ?)
そしてまた、これらの小さい花の撮影もそこそこに難易度が高いのです。
上の花、8枚の内4枚が黄色の花、野辺の花は黄色が多いのでしょうか。(編集者注:ユウゲショウ、?、オオバコ科?、オオアマナ?)
しかし、自分の思うようなピントで撮影ができません。小さい花に切れるようなピントの一枚がないのです。
上の最後の花、蘭に似てなかなかにかわいらしい花でしょう。どなたか名前をご存知でしたらご教示お願いします。(編集者注:タンポポ、ナズナ、ヒメジオンかハルジオン、ユキノシタ)
たんぽぽの綿毛もうまくピントが会いませんね。球体ですから奥行があり全体にピントが合いにくいのでしょう。
上の一番目はあじさいの一種のように見えます。葉もあじさいぽいです。 二番目の黄色はたんぽぽではありません。(編集者注:ガマズミ、ノゲシかブタナ?、カタバミ)
いつも小一時間、5km強歩いている田圃道の両側を目を皿のようにして歩いた結果が上の画像たちです。
小さいながらも美を持っていて、野にある時よりもこのように一枚の画像として切り取ったほうがその美が際立つようです。
惜しむらくは私にもう少しピントの切れの良い撮影の技量が備わっていれば、さらにその美が強調できたのではと残念な思いです。
久しぶりにカメラを手にしてシャッターを切るのはとても楽しい時間でした。いつになったら、日本中自由に行き来が出来、思う存分シャッターが切れるようになるのでしょうか。
■アゲハチョウの幼虫が 田中康平
春過ぎて夏に向かうこの季節は虫や鳥の繁殖行動を見るのが楽しい。鳥は スズメの若鳥が一斉に飛び出すようになって遊んでばかりで仕草が一々面白い。
虫は今は玄関先のポッドの中でナミアゲハやナガサキアゲハの幼虫を育てている。
ナガサキアゲハは、去年の秋この庭で寿命を終える個体を見たが、栃木にいた時は見かけた記憶がない、南から生息範囲を広げている蝶の様だ。日本に生息する蝶のうちでは最大と言われている大きな黒いアゲハだ、ともかく見ごたえがある。
今年の春に如何にも羽化したばかりという風情の初々しいナガサキアゲハがゆったりと休んでいるのを庭で見た。この辺りのミカンの木で育ったのだろうか、或いは自宅のキズ(木酢)の木で育っていたのかもしれない。
その内玄関先の鉢植えのレモンの葉が虫に食われ出したので、見るとアゲハ蝶の幼虫が3匹もいる。急いで幼虫を育てるための別のポッドに移し同じ柑橘類であるキズの葉を与えて見始める。裏庭にはキズの4m位の立派な木があって葉の供給には問題がない。
幼虫の1匹は少し緑がかっていて他のと違う、ネットで調べて見るとこれはナガサキアゲハの幼虫で他の2匹は普通のナミアゲハの様だ。アゲハの幼虫は卵から孵ったばかりの幼虫が1齢幼虫で4回脱皮して終齢幼虫である5齢幼虫(青虫)まで育ち、それから蛹になる。ここ数年夏の間何度か育ててみたが全て終齢幼虫になった後 育ったポッドを抜け出し蛹になるべくいずこかへ去って消えてしまう、蛹の場所は探しても見つけることができなかった。
ナガサキアゲハの幼虫はナミアゲハの1.5~2倍くらいある感じで日増しに大きくなっていくので、ポッドも別にして育てる。ナミアゲハの方が先に終齢幼虫になってさあどうなるかと注意していたが、また1匹が消えてしまって行き先が分からない。次の日残った1匹の様子が如何にも遁走しそうな雰囲気になって注意していたが少し離れたすきに逃げ出してしまった。遠くにはまだ行くまいと探すとこれは見つかって玄関の壁の柱を着々と上っていく。暫く上ってオーバーハングになったところを乗り越えようとして何と落下してしまった。2m位墜ちたがまた気を取り直して壁を登りなおし始めた、今度は表札を越えて庇のところまできてここであきらめるかと思えば更に庇を逆に下って遂に庇の瓦と屋根の隙間に消えていった。うまく羽化できるだろうかと気になるが、それにしても随分な移動だ、ここまでやるかとも思ってしまう。蛹はまた見れずに残念と思っていたら最初に逃げた幼虫が大分離れた壁に前蛹となっているのが見つかり、翌日には蛹になった、初めて見れた。このまま8日後に羽化できるかこれが楽しみだ。一方のナガサキアゲハの方はやっと終齢幼虫になってバリバリと葉を食べまくっている、とにかく大きい。こちらもそろそろ逃げ出す時期だがっどうなるか、気の抜けない日々となる。
コロナで出かけることがなくなっても、自宅の庭に展開される命の循環は見て飽きない、暫くは楽しめそうだ。
写真は順に 1.庭に今年現れたナガサキハゲハ成虫 2.ナミアゲハ幼虫(2齢くらい)、3.ナミアゲハ終齢(5齢)幼虫、4.ナガサキアゲハ4齢幼虫、5.蛹になる場所を求めて彷徨うナミアゲハ終齢幼虫--表札の上まで登った、6.ナミアゲハ前蛹(ぜんよう)、7.ナミアゲハ蛹、8.ナガサキアゲハ終齢幼虫
■伊丹市内ぶらぶらサイクリング 野崎順次
5月17日(日)新型コロナ拡大防止の自粛中なので遠出はせず、伊丹市内を自転車で走り、古街道、巨木、史跡を見て回った。
県天然記念物の「イヌマキ」巨木を見ようと、北上し、中野東3丁目に入ると三差路に常夜灯と道標があった。「左小濱」というのは三田街道で、「右中山寺」は特に名がなく、有馬街道と交差してから、中山寺への中山道(なかやまみち)に合流するようだ。
2 すぐ隣の中野庚申塚に市保存樹木の「ケヤキ」、幹周囲3.3m
3 中野北2丁目 中野稲荷
県天然記念物「イヌマキ」、幹周囲3.1m、樹高15m、樹齢400年
それから、市保存樹木「クスノキ」と「クロガネモチ」
東にひたすら走り、伊丹段丘を降りて、猪名川藻川沿いに南下する。
4 猪名寺廃寺跡の西に古街道らしき道がある。有馬道の一つらしい。
有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする (小倉百人一首大貳三位)
しなが鳥 猪名野を来れば 有間山 夕霧たちぬ 宿りはなくて
(万葉集巻七)
万葉の時代からこの地一帯は猪名野と呼ばれ、笹の原野が拡がり、風にそよぐ笹原の風情は、古くから旅人の詩情をかもしていたとみえ、数多くの古歌が残されています。
その後、荒涼とした笹の原野が次第に開墾されていく中で、一画の笹原が残され、人びとに猪名の笹原の旧蹟として伝えられてきたようで、正保2年(1645)頃の「摂津国絵図」の中にこの地が「いなの小笹」と記され、寛政10年(1798)刊行の『摂津名所図会』には「猪名野笹原」とあります。
(現地説明板より)
さらに有馬道
6 東有岡5丁目 杜若寺内
市史跡 頼山陽撰並書大塚鳩斎墓碑
伊丹の銘酒「泉川」を造りだした大塚鳩斎の墓碑で,銘文は頼山陽が撰し,書も彼の筆になる。
7 伊丹3-7丁目 旧大坂道都市景観形成道路地区
有馬街道が伊丹の町中にはいると、大坂道とも呼ばれたようだ。
8 中央2丁目 法巌寺
県文天然記念物 大クスノキ
推定樹齢500年のこのクスノキは、近畿3大クスノキの一つに数えられ、幹周りが6.2m、樹高約28m、大風の被害により大枝がおれるなどの損傷がありましたが、枝振りは力強く、現在も旺盛な樹勢を保っている。
門前の石仏
参考資料
伊丹市ウェブサイト
■ 看板考 No.88 「ズロース」 柚原君子
撮影日:2019年3月
撮影地:岐阜県中津川宿
年配の方向けの洋品店にあった看板。今では全くの死語である「ズロース」という言葉。生きていたのねぇ、と思わず駆け寄りました。
着物を着ていた時代の男性は裾をめくり上げて走ったり、裾を帯に挟んで農作業をしたり、侍であれば股立ちをして決闘をしたりするからでしょうか「ふんどし」という下着がありますが、女性はノーパンで着物の下に着用したのは腰巻きのみ。和装の帯は胸下から腰骨あたりまであるので、腰にひっかけてはく下着は元々無理だったのかもしれません。
ズロースの原語は英語の「ドロワーズ(drawers)」です。英文字をよーく見るとズロースと読めます(笑)。西洋人形がドレスの下にウエストも股下もゴムで可愛いフレアーを出しているそんな雰囲気な下着がドロワーズです。いずれも「ズ」の付く複数形。履くときの足を通しますが足は2本なので複数形になる、というのもおもしろいです。
私の子ども頃もまだズロースと呼ばれていました。その上に着るスリップのような下着はシミーズという呼称。木綿で肌触りが良く、レディになった気分で好きでしたが、これも今は死語です。シミーズの語源はフランス語の「シュミーズ(chemise)」。
広島の原爆ドーム記念館に、被爆した少女の焼け焦げたシミーズが飾られていて、青春も知らずに亡くなっていった少女の在りし日の姿を想像して胸が痛んだ記憶があります。
「ズロース」の後、下着の名前は「パンティ」、「ショーツ(下着業界の販売戦略語が定着したもの)」へと変化して、今ではインナーという言葉も使われます。
男性の下着を指すパンツという言葉も昔は下着のことで、上にはくのはズボンといったはずですが、今では男性女性ともにパンツといわれるとズボンを指すことが多いようで、時代と共に変化していく呼称はおもしろいです。
「ズロース」の言葉が地方で看板として堂々と流通していたのを見たのは感動物でしたが、ズロースの前に書かれている「2P」とは、さて、なんでしょうか。しかも死語に等しいズロースが解る購買層向けの看板に今流(らしい)の2Pの表現がわかりません。2P+ズロースの不釣り合いは十分に楽しめますが、いつか2Pの真相を確かめに中津川宿をもう一度歩いてみようと思っています。
■ おばちゃんカメラマンが行く @有明海 佐賀県小城市 事務局
海遊ふれあいパークムツゴロウ観察地の看板につられて立ち寄る。
丁度干潮だったので見られたらいいなぐらいの軽い気持ちで立ち寄ったのだが、予想に反し、ごちょごちょ動いているのでびっくりである。想像では5cmぐらいの泥まみれの小魚だったが、15~20cmぐらいのものまであり、勢いよくジャンプしたり蟹と喧嘩したりとアクティブだ。
厳しい縄張りがあるらしく、雄は入ってくるものに対して威嚇したり、雌への求愛行動などで、口を大きく開け鰭を全開にする。鰭は青白く光る斑点があり、予想外に美しい。のたのた這い回っているイメージだが、俊敏で写真を撮るのは難しい。
ちょうど5月から6月産卵期にあたり、あちこちで求愛行動が観られた。雄が深さ1mほどの巣穴の中で産卵された卵を守り育てる。なんとも模範的なお魚である。
地元の人は、刺身にしたり、かば焼きにしたりして食するらしい。脂がのったかば焼きは佐賀県の郷土料理で絶品らしい。泥まみれの姿からは想像できないが次回チャンスがあれば食してみたいものだ。
これは蛇足だが、昭和人には有名なムツゴロウセンセイは出版社時代(学研)に朝晩徹夜で働きずくめた末の寝姿をムツゴロウにたとえ、名付けたられたとか、、、ぎょろ目でひょこひょこしている姿はそっくりかもしれない。
今月のニャンコ 佐賀県有田町有田
外出自粛でステイホーム。ガラス越しのネコジャラシでコロナ太り解消。
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Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
info at japan-geographic.tv (atを@に入れ替えてください)
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