JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine June 2020

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■ 鏝絵(コテ絵)について 中山辰夫

過日、郊外を散策中、旧家の屋敷でコテ絵を見ました。久しぶりです。

  

今は手直しできる職人も居なくなったので成り行きに任せるままと話されていました。
5~6年前、友達あてにまとめた資料がありましたので載せました。全くの寄せ集めです。取りやめになった催しも含まれています。

鏝絵とは、漆喰(しっくい)の壁に左官コテで漆喰を塗り上げ、レリーフを描くように浮彫りの模様を描く左官の技術。
左官職人がコテ(左官ごて)で仕上げていくことから名がついたとされます。
古くは高松塚古墳、法隆寺の金堂の壁画にあるように超古いものも残っています。
現在に残るコテ絵の題材は福を招く物語や花鳥風月が中心であり、着色された漆喰を用いて極彩色で表現されており、財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際、富の象徴として外壁の装飾に盛んに用いられたからともいえます。

コテ絵の作品はなかなか見ることができません。が時代区分を別にすると全国で約3000件、その内大分県には約1000件残っているようです。

数年前NHKで放映された大河ドラマ「真田丸」の題字とオープニング壁画は、現代の左官である『挟土秀平』氏の作で、コテ字と僅かなコテ絵がタイトルでした。
  
 
日本における左官という職業の始まりについて確たる定説はないようです。
仏教伝来の時にもたらされた諸技術の中に含まれていたとされ、寺院の造営などで壁画や白い平面の壁の必要性が高まり、土壁の上に上塗りをする本格的な左官の仕事が生まれたとされます。
平安時代には寝殿造りの居室や屋敷まわりの塀を白く塗った土壁が多く取り入れられました。
中世では白壁は屋根瓦と同様に、耐火と権威の象徴として、需要が一層高まってゆきました。
戦国時代から江戸時代初期の城郭造りに、左官の仕事が急増し、藩ではお抱えの左官を生むようにもなったようです。白壁の美しさが歓迎されました。 

例-姫路城 ( 国宝 ) 南北朝時代
 

左官の技術面では茶室造りが新しい壁を呼び、白壁以外に色壁を広げたようです。

西本願寺飛雲閣の茶室(国宝) 茶室の壁は高貴な色とされた赤が使われています。 桃山 
  

徳川300年の時代は、職人文化にも興隆をもたらしました。職人間でも技術を競う風潮が起こり名工の誕生につながりました。
また、江戸近郊にあった良質の石灰産地が旺盛な需要に応じたようです。
江戸時代後期に左官の名人・伊豆の長八が現れました。
静岡県松崎に生まれた「入江長八」によって作られた漆喰彫刻・鏝絵が特にコテ絵の起源といわれています。
長八に始まったコテ絵は、明治に入り、その弟子たちや多くの左官の手で全国に広まりました。
長八の作品の多くは、関東大震災や第二次大戦で失われましたが、その影響を大なり小なり受けた左官たちのコテさばきの証しが様々な表現で全国各地に残っています。
全国で3000点、大分県だけで1000点のコテ絵が残されているようですが、他県では固まって見ることは出来ません。
コテ絵の多くは、左官が施主に感謝のしるしやお祝いとして無償で描いたものが多いようです。

インターネットから引用しながら全国の代表的なコテ絵を見てゆきます。

東北の左官たち
冬になると深い雪に閉ざされ、春を待ちながら室内で黙々とコテを運ぶ作業をします。
岩手気仙の吉田春治、山県大石田の後藤玉舟、富山の竹内源造、新潟長岡の川上伊吉が著名な左官です。

サフラン酒造の土蔵 新潟県長岡市 左官:川上伊吉 国登録有形文化財 明治
  
機会があれば行ってみたいです。 左官仲間では日本一と評価されています。

名越家土蔵 富山県砺波 左官:竹内源蔵 明治
  

コテ絵看板 能登屋旅館 山形県花沢市 大正時代の作 1921(大正10) 国登録文化財
  

中部
伊豆の入江長八、浜松の松浦伊吉、愛知岡崎の松浦勝蔵
左官の本業からすればコテ絵は境界の領域の技術。西洋の近代絵画を取入れる明治政府とは逆行の立場でした。
今では、長八作品以外見ることは難しいです。長野では今もコテ絵がつくられているようです。

原村の土蔵を彩るコテ絵:長野県諏訪郡原村
  

長八美術館:静岡県賀茂郡松崎町松崎
長八の作品約70点収蔵、50点を展示・紹介しています。日本では珍しい町営のコテ絵美術館。1984(昭和59)年に建てられたモダンな
建物で、中庭外壁の土佐漆喰の塗り壁など、現代左官の技術の粋を集めたものといわれています。

建物のあらゆる場所に、全国から集まった優秀な技術者たちが伝統の技を駆使してなしたもので、まとめられ、「江戸と21世紀を融合させた建物」として注目されているようです。
 
 
長八作品
   

関東
サムライ社会の崩壊で、武士社会を支えていた職人たちも失業しました。
擬洋化としての明治初期の洋館が建ち始めるころ、左官たちは新しい時代のニーズとともに歩き出します。

須賀神社 東京 四谷 大正14年奉納 長八の弟子である吉田龜五郎の作品
  

吉田龜五郎は多くの弟子を育てた。その一人、伊藤菊三郎の作1963(s38)1966(s41) (小磯正邦氏蔵)
 

宮の下冨士屋ホテル(2020年7月オープン 冨士屋ホテルと改称)や目黒雅叙園(ホテル雅叙園東京と改称)には豪華なフレスコ画が多数観られました。改装後も残されるようです。
  

関西
左官職人のルーツは京都・大坂・淡路
仏教が日本に伝来して約1450年。渡来人が法隆寺で初めて壁を塗り、仏を壁に描きました。
赤土・石灰・雲母を使った塑像が出て京都は寺のまちとなりました。この技術を基に、城郭や茶室が誕生しました。
現在の淡路は熱いようです。「カリスマ左官」と呼ばれる久住章氏を頂点に、久住有生氏が活躍し、NHKの狭土秀平氏も彰氏のもとで修行して独立しました。二人は左官業界の星と期待されているようです。

中国
島根・鳥取・山口には鏝絵が多く残っています。特に島根は、出稼ぎが日常的に行われていた貧しい地域で職人になることがなかば宿命であったようです。そのため技術の上達に懸命であり、高収入を得ることが残してきた家族への努めでした。
異国へ出稼ぎに出かけ、年に一度故郷に帰っては家内安全を願い、コテ絵を奉納したことで、コテ絵が多く残っています。
太田市ではコテ絵巡りが行われているようです。
 

津山基督教図書館(津山市) 1926(大正15)
  
1926(大正15)年に建築された木造三階建、銅板葺、時計付の塔屋や細部の浮彫り等に特徴があります。基督教文書伝道を目的として設立されたわが国唯一の基督教公共図書館です。正面上に十字架と神の子羊が描かれています。

四国
土佐の左官は、独特の硬さを持つ土佐漆喰を産み、徳島近辺では熊野灰とサンゴを焼いて作る漆喰を使うようです。愛媛では、伊予三浜の石灰竃の石灰を使った様です。

愛媛県八幡浜市 旧白石和太郎邸 洋館 1897(明治30)年
  

九州
全県に散在していますが福岡県、長崎県、熊本県と九州北部にあり、特に大分県には約1000件と集中しています。
特に大分県安心院(あじむ)町に集中しています。「コテ絵のまち」で町おこしをしています。
約100ヵ所ある中で、60ヵ所がみられるようです。
多い理由は、優れた左官職人が多くいたこと-安心院では、長野鐵蔵、山上重太郎、佐藤本太郎の作品が多く見られます。中でも、長野鐵蔵は14人の弟子をかかえておりました。
次に、漆喰が手に入りやすかったことです。隣の宇佐市長洲は、遠浅になっているので貝多いため、貝殻を木炭と交互に重ねて焼いた灰から漆喰を製造しましいた。
3つ目の理由は、比較的生活が裕福な家庭が多かったこと、などがあげられるようです。
   
いずれも安心院町のまち中です。安心院町ではコテ絵ツアーも行われています。

これまでに目にした事例

手持ちの画像をチェックしましたが、関西にはこれといったサンプルが見つかりません。関心がなくて写さなかったのか…。
見つけるのに結構手間がかかります。フレスコ画マガイのものを含めて並べます

京都・長楽館
   

京都府庁の旧議場 日本最古の議場。平成26年に110年を迎え大改修。白漆喰を一気に塗り上げるため大変な作業。左官屋さん、作業を終え疲労困憊。コテ絵を描く元気もない。国重文 
         

京都・伊根町は土蔵に多い 滋賀・木之本
   

奈良県・今井町 奈良県・大和郡山市 兵庫県・生野町
   

福井県・武生市 広島県・柳井市 鳥取県・倉吉市
   
岡山県・倉敷市
 

岡山県 ・備中高梁 吹屋 「広兼邸」 ベンガラ製造で富を築いた邸宅。 その一角の「みそ蔵」。石州大工が呼び込まれ石洲左官も加わり石州煉瓦を使った独特の町並みをつくる。
   

岡山県 備中高梁 吹屋 旧片山家住宅 ベンガラ製造で富豪になる 国重文
  

京都市 北山 京都市内 京都・和中庵
   

愛媛県・内子町 和ろうそくで富豪となった大邸宅に見られる 本芳我家住宅・他 1884(明治)
         

今は左官職人さんが減少し、既存の建物にあるコテ絵の管理も十分でない状況にあるところが多いようです。

まだまだ多数ありそうですが、探すのが大変ですのでこれまでとします。

 

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