MONTHLY WEB MAGAZINE Apr.2011

Top page Magazine index

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

お知らせ

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

3月の新着情報

New contents in Mar.2011

■ 「誰でも何でも掲示板」を作りました。

ちょっとした投稿などにご利用ください。

■ 2010年のダイジェストビデオを編集しました。

2010 digest video

■ 桜特集 心の癒しにどうぞ。

Sakura for mind healing

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

東日本大震災特集

Higashinihon Earthquake 2011

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■ 「苦悩と試行錯誤の日々」 瀧山幸伸

今回の災害に対し、自分に、あるいはJapan Geographicに何ができるか、焦燥感に悩まされました。

今も悩み続けていますが、Japan Geographicの目的に照らし、目前のことよりも、時間と手間をかけて後世に役立つことを目指すのが良さそうだ、未来への完璧な青写真よりも、走りながら考えながら実践していく方法が良さそうだと思えてきました。

時系列を追って地震後の3週間何を行ったかを述べます。

災害が発生した翌日に、なにはともあれ災害関連特集のページを新設しました。

まず最初に、地理学を研究する者のはしくれとして、地理的な視点での地震関連情報URL集を作成しましたが、これは地震直後から1週間以内の情報混乱期に短期的な情報収集を目的とした内容なので、その時期には役に立ちましたが、今はメンテナンスしていません。

そして、マスコミ等で報道されている写真やビデオに疑問を感じ、きちんと分類整理されて後世のために保存されるべきだと、Japan Geographic流の「場所、時間、分野別」に分類整理保存するため、誰でも投稿できる掲示板を作成しました。

さらに、地震の翌週、今まで書きためていた、安心安全で持続可能な未来のまちづくり「サステナブルシティ」論を広く公共の役に立てるよう、提言として公開しました。今回の災害に際し、完成版になるまで個人で持っているよりも今の時点で公開したほうが社会のためになるだろうとの思いからです。総論で、防災、エネルギー、水や食料などに対する安全安心はまちづくりの基本だと述べていますが、3月5日に霞ヶ関と民間との合同勉強会の席で総論部分を提示した時には、理解され実現されるには時間がかかるだろうなと思っていましたが、現実の復興計画案として提言することになるとは、自分自身も状況の急展開に驚いています。

同時期に、東電の電力不足に対処する提案、 「中部電力の60Hzを一部導入する案」をUPしました。専門家にヒアリングし、ある程度技術的な検証を行っていますが、技術論よりも社会工学的なバリアのほうが大きいかもしれません。電力の歴史は戦国時代と同様です。4月に入り、この案の代案として、簡便かつ費用もかけずに有効に節電を行い停電を避ける「電力ギフトプログラム」案をUPしました。

そして今日の地震特集ウェブマガジンに至ります。時々刻々と状況は変わっていますが、「今後の百年を考え、本質的に何をなすべきか、なさざるべきか」の長期的視点でビジョンを示し、自ら実践できることを少しずつでも前に進め、一人でも多くの賛同者を募って、幸せな未来を築く一助になりたいと念じています。

■ 「東日本大震災から1ヶ月」 中村千恵美

 久しぶりにウェブマガジンに投稿させていただきます、青森県在住の中村千恵美です。暫くこちらに顔を出しておらず、大変申し訳ございませんでした。

3月11日の東日本大震災、そして4月7日の余震ですが私の家族や実家には被害等なく済んでおります。先日の余震の時に至ってはパソコンでウェブマガジンの文章を作成している最中に強い揺れ・停電があったので、色々と大変でした。8日の午後2時頃にようやく電気が復旧したため、作成を再開した次第です。

当日の状況をもう一度振り返ってみたいと思います。

 地震の起きたあの時は八戸市の実家に1人でいました。初めは揺れも小さかったため、『数日前にあった地震の余震かな?まぁ、大したことないだろう』と思っていたのですが、揺れが次第に強くなり、もうパニック状態でした。居間の照明が激しく揺れ、壁に掛けてあった額縁が落ち、フライパンや鍋が落下したのですがどうすることもできず、「怖い、怖い、怖い!」と叫んでいたのを今でも覚えています。とっさの行動で出来た事と言えば、ストーブを消して玄関のドアを開けることぐらいでした。

 地震が起こった後すぐに停電してしまい、テレビも見られずラジオもなく、完全に情報が遮断されてしまいました。周りの情報が得られたのは、その時にはまだ3G回線が繋がっていた iPhone のみ。青森県だけでなく他のところでも強い揺れだったということ、津波が来るかもしれないことを Twitter で知りました。もちろん電話回線はパンク状態で、家族の誰とも連絡が取れません。実家の近くには一級河川の馬淵川も流れており、海からも300メートル程しか離れていないため、不安で家にいることが出来ませんでした。

 ともかく身内に会いたいというその一心で、車で5分ほどのイトーヨーカドーでバイトをしていた妹を迎えに行こうとすぐに出発。外に出たら停電しているためか、信号機が全く作動していません。大きい交差点を真っ直ぐ進むだけなのに、みんな逃げるのに必死だったためか中々譲ってもらえず、10分も渡れずにいました。15分ほどかかって、ようやくイトーヨーカドーへ辿りついたと思ったら、今度は駐車場から出てくるお客さんの車の列が多すぎて入れない。仕方がないので周辺のお店に車を停め、走って向かいました。着いた時には店内は暗く、大勢のお客さんや店員さんが2階へと避難をしている最中でした。電気もついていないため妹を見つけることが出来ず、仕方がなく同じように2階へ避難。その後すぐに店内で『大津波警報が発令されておりますので、屋上の方へ案内いたします』とのアナウンス。一旦外に出れば妹も見つけやすいはずだ、と思いそのまま一緒に屋上へと上がりました。

 当日の午後は雪が降っており風も強く、ダウンジャケットを羽織っていても肌寒いくらいでした。そんな中で店員さんがホッカイロを無償で提供してくれました(本当にありがたい限りです)。ホッカイロを1つ受け取って屋上を走りまわったら、ようやく妹を発見。あの時が一番安心した時だったと思います。

 その数十分後、津波の第一波が押し寄せてきたのを屋上から確認しました。確か午後4時前くらいだったと思います。海沿いの工業地帯付近から川を逆流して波が押し寄せてきたのも見えました。隣にあるショッピングモールの駐車場はすぐに海水であふれる。八戸市の津波は油が混ざっていたのか黒く見え、とても気味悪く思えました。連日テレビで放送されていた津波のような勢いこそ見えなかったものの、音もせず静かに浸水していく様は恐怖すら感じました。そのうちにこちらの駐車場へも津波が流れ込んできて、あっという間に水浸しになりました。

 後から聞いた話ですが、午後5時以降に来た第二波の方が高く、津波は実家までおよそ100メートルのところまで迫っていたそうです。もう少し津波が高ければ浸水していたかも・・・。八戸市の沿岸部は三陸海岸のように入り組んでいなかったためなのか、川の堤防や海側に建つ工場に衝撃が行ったためなのかはわかりませんが、とりあえず冠水は免れました。

 ひとまず津波が落ち着いたとのことで、イトーヨーカドーの2階にお客さん達が避難(屋上は0度前後で寒かった・・・)。その後に両親とも合流出来ました。津波が押し寄せている中、猛スピードで屋上駐車場まで来たそうです。それから津波が落ち着くまで、店員さん達がパンやおにぎり・お菓子・ドーナツや飲み物などを無料で提供してくれました。本当にイトーヨーカドーの人たちには頭が下がる思いです。避難指示も慣れていたし、対応の一つ一つが落ち着いていたのでありがたかったです。

 そして午後8時半ごろ、「ひとまず建物から出ても大丈夫ですよ」とのアナウンスが入りました。流石にイトーヨーカドーは避難場所ではないため、家族全員揃って帰宅。「今後どうするか?高台に避難するか?」と話し合いましたが、結局家で一晩明かすことに。私と母が遅くまで起きていて、何があってもいいように待機はしていました。ロウソクを灯し、反射式ストーブで暖をとるものの雪も降っていたせいか家の中は暖まりませんでした。私はもう怖くて眠れなくて、iPhone で情報収集しながら朝方まで起きていました。しかしそれぞれの携帯の電池も徐々になくなっていき・・・最終的にはノートパソコンや車のシガーソケットから充電をしていました。

 その後、停電は3日目の朝に復旧。携帯の電波障害もその頃に復旧したと思います。特にウィルコムのPHSが全く使えませんでした。ウィルコムは電波を発信するアンテナを電柱等に設置しているためか、停電になると使い物にならないようです。。。

 電気が復旧した後、改めて岩手県や宮城県の甚大な被害をテレビで知りましたが、現地にいる知人へ掛ける言葉も見つからないくらい衝撃的でした。特に、自分が幼少期に住んでいて、親戚もいる石巻市の状態は凄まじすぎて・・・・親戚とは連絡が取れて無事を確認しましたが、家の一階は流されてしまったそうです。

 東日本大震災の発生からもうすぐ1ヶ月。八戸市は他の県よりも被害は甚大ではなかったため、ようやく復興への道を歩き出しています。ただ、瀧山さんが訪れたことのある蕪島周辺は壊滅状態です。私も数日後に見に行きましたが、船が乗りあがっていたり瓦礫が散乱していたり、道路のコンクリートが滅茶苦茶になっていて酷い状態です。蕪島と蕪嶋神社だけは無事で、繁殖のために飛来してきたウミネコ達だけが元気よく飛びまわっていました。

 諸事情により先日、岩手県宮古市まで足を運んできたんです。海沿いの道路を走った後に国道45号線を南下したのですが、洋野町・野田村・久慈市・普代村・田野畑村・宮古市田老地区・・・何処も酷い状態です。特に、報道でもその様子を放映されていた宮古市田老地区では、堤防があるだけで建物など殆どありませんでした。道路はかろうじて通れるように片付けられていましたが、砂埃が酷い。遺体安置所の案内板もここで初めて目にしました。胸が締め付けられる思いでした。

 実を言うと、本当は被災地の写真は撮らないつもりでいました。運良く自分は被害もなく無事でいますが、八戸市内にも当然被害に遭われた方はいらっしゃるし、岩手県・宮城県・福島県・茨城県で被災されている方の心情を考えると・・・悩みに悩んだのですが、それでも決め兼ねていました。

 しかし、何年か経った後に<東日本大震災>があったという記憶は残るものの、現在感じている恐怖や危機感は時間が過ぎていく毎に薄れてしまうのではないかな、と次第に思うようになりました。実際、先日起こった余震でも確かに自分の中で油断は生まれていましたので・・・。今後、このような自然災害が起こった際に(本当は2度と起こって欲しくはありませんが)、今回の経験を次に生かすようにするためにも、思いきって写真や文章などで記録していこうと考えています。ただ、ブログなどで公開するつもりはないので、こちらの方にだけ写真など提供をしようと思っています。

 最後に、八戸市新湊地区の写真を1枚、掲載いたしまして終わりとさせていただきます。この場所は、3月13日から開催予定だった日曜朝市の会場なのですが、大型船の撤去作業に見通しが立っておらず朝市も無期限延期になり、現在もこのままの状態になっています。

■ 「遠隔地で被災地に対してできることとは」 大野木康夫

京都市に勤務しているので、震災直後から職場の知人が災害派遣で何人か現地に行っていました。

3月までいた上下水道局では、最近まで応急給水(茨城県利根町、仙台市)を行っていましたが、現在では下水道管路の被害調査(仙台市)を行っています。

他の部局では、消防局の緊急救助隊は南三陸町で活動中、仙台市では青葉区役所に現地災害対策本部を置いて、パッカー車での災害ゴミの運搬(環境政策局)、避難所での防疫や健康相談(保健福祉局)、学校再建支援(教育委員会)などを行っています。

経理担当(現在は会計担当)の私は、費用の支出や精算事務しかしていませんでしたが、現行の仕組みの中で、できるだけ円滑に費用が支出できるよう努めたつもりです。

上下水道でいうと、浄水場は比較的高い所にあり、津波による被害は受けにくいため復旧は早いですが、配水管が断裂したりすると水道としての用をなしません。

下水処理場は必ず市街地よりも低い所にあり、津波の被害が甚大ですし、汚水管も少なからず被害を受けています。

仙台市HPで南蒲生浄化センター(下水処理施設)の被害状況をみると、管路や設備の更新工事と土木構築物の修理工事が必要と思われるので、復旧には年単位の時間がかかると思われます。

早急に、日本中の水道関係業者が被災地の復旧を優先して行うなど、国内の業者や自治体が連携した戦略的な対応が必要だと思います。

近所(京都市山科区)の市営住宅にも、福島の浜通りなどからの避難者が入居しました。

全国で受け入れ可能な公営住宅や宿泊施設は多く用意されていますが、遠隔地であるため、縁故避難された方が入居されることが多く、なかなか実効ある取組になっているとはいえないと思います。

一方、京都市内の催しでも、中止(醍醐寺豊太閤花見行列など)、縮小(京都御所一般公開の人形等の展示や雅楽、蹴鞠の中止)、延期(法然上人800年大遠忌法要)などが相次いでいます。

予定どおり行う行事でも、開始時の黙とうや、義援金の募集など、被災地に向けた取組を組み込んでいます。

個人的には、4月以降の行事については被災地への配慮を組み込んだ形で予定どおり行い、国内経済を少しでも回していく方がよいと思います。

■ 「地震 神社 自転(地球)・・・<<三題噺??+α>>」 酒井英樹

正式な通信員になって初めてのWEB.マガジンの投稿 題材は何にしようかと・・頭を悩ましていたとき・・急に・・船酔い・・症状が・・。長周期波による建造物の震動・・。それに瀧山さんから今回は「地震関連で」というお達しが・・・。

まずは何はさておき・・被災された方々にお見舞い申し上げます。

そして、現地で懸命に救助や捜索そして復興の足がかりを敷設している方々・・頑張って下さい。

さてさて・・阪神大震災の揺れと恐怖を知る我が身にとって・・これはただならぬこと・・。

今まさに国家の一大事・・。わが国総力を挙げて取り組まなければならないとき・・。

そう・・八百万の神々にも・・ご尽力を頂かなければ・・。

まずは、今回の元凶となった地震・・。これを鎮めていただかなければ・・。

というわけで今回は全国あまたある・・神社の中で地震の神様にお願いを・・、みんなの「地震避け」の祈願をすべく・・およそ2年ぶりに三重県伊賀市にある大村神社まで参ってきました。

大村神社入口

境内 狛犬ならぬ・・狛鯰??? いえいえ・・水掛不動ならぬ・・水掛鯰でした・・。

地震を治める要石

門前の公園には・・こんなのまで鯰に・・

御利益に期待?!・・地震のお守り・・でも、この鯰揺れているけど・・大丈夫??

この記事が日の目を浴びる頃には・・・どうぞ・・御利益がありますように・・祈念して・・・???

・・あれ??何かお忘れはない??・・・とのご意見が・・。

そういえば・・忘れていました。前回のクイズの答え。

危うく・・、答えは・・えぇぇっと・・24時間00分ではなく・・実は地球の自転周期はおよそ23時間54分でした。

古来より・・天動説に基づいて・・太陽が・・地球の周りを1周するのが1日とされています。

しかし、現在では常識の地動説で・・地球は太陽の廻りを一周約365日(365.25日)で公転しています。つまり地球が自転で1周する間に太陽から見ておよそ1度(360度÷365で約1度)ずつずれるのです。そのため地球が自転で1周してもまだ太陽が完全に登り切っていない状況が生まれるのです。1日は太陽が最も高いときから次の高い時までの時間で24時間です。よって地球が自転で1周する時間は24時間より短くなります。

公転で一周すると・・すなわちおよそ365日後には元に戻りますので1日あたりのズレは24時間÷365で約4分になります。よって地球の自転周期は24時間から4分引いた23時間56分となります。

ちなみに今回の東日本巨大地震の衝撃で地球内部の質量分布が変化したため、地球の自転周期が100万分の1.6秒だけ短くなって地球の自転速度が速くなったらしいです。それほど大きな地震であったとのこと・・。クイズの大勢には影響はないけどね・・。

これで頭文字が「ジ」のお題・・何とか繋がり・・お後がよろしいようで・・??・・あれぇ・・そういえば「ジ」が頭文字が文中にもう一つ・・『時間』もあったけ・・、四題話になっちゃった・・まっ・・いいか・・・。

■「身近のエピソード」 野崎順次

仙台市泉区に大学のバスケット部で同期だった友人がいる。仮にK君としておく。富山県滑川市で育ち、神戸の大学で学び、東京で大手M商事の鉄鋼畑を歩き、定年退職後は、元M商事の先輩に請われて仙台の人材派遣会社で勤務中である。糖尿病もちで10年以上前からインシュリンが手放せない。若い時から一貫して気取らない、裏表のない、最も気の休まる友人であった。

 3月12日、地震の翌日、携帯電話はつながらないが、メールは通じた。

「心配してます。あんたとお孫さんも。」

すぐに返事が来た。

「無事だが余震がひどい・家の中はめちゃめちゃ。休みだったので家族一緒にクルマの中だが、雪が降って寒い。」

 後から聞くと、地震の当日はたまたま会社が休みでマンションの家にいたが、あまりの揺れで和ダンスの引き出しが出てきたので、押さえようとすると、隣の洋ダンスが倒れてきて家の中がめちゃくちゃになった。家族構成は、本人、奥様、息子さんの3人。娘さん親子は東京に移っていたので大丈夫だった。とりあえず、冷蔵庫の中の食品と毛布3枚を持って、外に避難して駐車場の車に向かった。その駐車場は3段重ねで、停電のため、2段目のK君の車は出せない。奥さんの軽四が三段目で動かせた。大人三人狭い車に入り、路上駐車で三日間過ごした。何分、家族に幼い子がいないので、避難所の小学校がどこにあるか、よく分からない。雪が降って、時々エンジンをかけて暖をとる程度でとても寒く、余震の恐ろしさもあってほとんど眠れなかった。

 前回の仙台地区の大地震でもタンスがらみの話があった。正確な年は忘れたが、夜遅く洋ダンスの前で寝ていたK君は、私からの電話に起こされた。起き上って電話に出ようと移動した瞬間、すごい揺れが始まり、洋ダンスがばたりと倒れた。私の電話がなければ、大けがをしていたそうだ。

 その後、欠乏した食品、携帯電話の充電、水の配給など、毎日行列して延々と待つ生活が続いた。水道、電気が通じても、ガスが来ないとお風呂に入れない。インシュリンは何とか都合がついた。電話すると「こんな位で負けるかー!わしゃー、しぶといんや−!」とから元気。

 3月21日のメールのやりとり

「ガスの朗報が入った。新潟〜仙台のガスパイプライン使用可能らしく、週末には家庭への供給開始か?との事。これで電気、水道、ガスとライフラインが回復し、当分の間は新鮮な肉や魚は無理かもしれないが、ほぼ普通の生活に戻れそうだよ。質素な食事で糖尿病改善か?頑張るよ。」

「ワーオ!頑張って。どーせ、滑川のこせがれじゃ。これまでは出世しすぎじゃ。昨日、みんみんの餃子食べた。相変わらず旨かった。ごめん。」

この程度、云っても気にしないのがK君のいいところ。

「みんみんは、眠眠だっけ?地震から11日目。余震とストレスでほとんど眠れてない。餃子食いたいなぁ。」

65歳同士のメール交換である。

その後、仙台市の広報をインターネットで見ていたら、ガスの供給を始めたらしいので安心していた。

 ところが、3月27日のK君のメール

「おはようございます。日曜日早朝にお騒がせします。今朝7時からGSの列の中に・8時30分開店なのに、500台は並んでいた。待つのは慣れてるが、満タン分買えるか不安・2〜3時間かな?残ってるのはガスだけ!・・・。入浴しないと疲れが取れないし、気分はダウン。疲労回復の3要素は?睡眠、入浴、マッサージだよ。余震で睡眠不足。ガス復旧せずで風呂とジムの按摩は駄目・・。順番来るまで暇だなァ」

 3月31日現在、K君のマンションにはまだガスが来ていない。ただ、近くの銭湯が営業を始めたので、22日と29日の2回、延々と行列して入浴できたそうだ。とりあえず、ガスの早期復旧を祈る。

やっと宅急便が彼の自宅まで届き始めた。以前は運送会社の営業所まで取りに行かないと駄目で、そのためのガソリン確保に僅かに開いているガソリンスタンドで3〜4時間待つ必要があった。

今一番ほしいのは新鮮な魚(刺身)と肉とのこと。三田肉(兵庫県)の最高級すき焼き肉を送るというと感激していた。でも、未だ、クール宅急便は通じていない。

■ 川村由幸 

2011年3月11日午後14時46分に私は東京都港区の事務所におりました。激しい揺れが長時間続き、事務所のあるビルの外に避難。

東京タワーが大きく左右に揺れ、先端が増上寺のほうに少し曲がってしまいました。

港区の震度は「5弱」、その後も余震は続くものの、それほどの恐怖も危機感もなく仲間とお酒をいただいていました。

結局、その後電車は止まったままで帰宅難民となり、事務所で一晩過ごし、翌朝帰宅。

柏まで、普通なら1時間程度の移動時間が7時間。自宅にたどり着き、テレビのニュースを見て、恐怖に慄きました。

そのあと1週間はテレビのニュースを見ては涙を流すことを繰り返していました。

想像することさえ難しいほどの激甚災害、津波がこれほどまでの被害をもたらすとは!

さらに東京電力福島第一原子力発電所の地震・津波をきっかけとした危機的なトラブル。

心底から恐怖と戦慄を覚えました。

一週間が過ぎるころから、何をすればよいのか、何かしなければという思いが強くなりました。

また、被災され避難されている方々の忍耐と節度ある行動に日本人として誇りを感じていました。

反面、首都圏で発生した物の買い占め・買いだめによる物資不足の状況は堪らなく醜悪で、これが同じ日本人とはとても思えませんでした。

そして、被災地に寄せる外国の方々の思いに頭が下がりました。

このころからだと思いますが、ネットに多数の安否情報が流れ出しました。私も岩手県大槌町に仕事でお世話になった方がお住まいで必死に情報を探しましたが、なかなか安否はつかめずにおりました。

結局、最も役に立ったのが「Google Person Finder」でここで家族方と連絡がつき、残念な結果でしたが安否が確認できました。

今回の大震災におけるGoogleが実行していることは、社会的に評価されてよいと考えています。国や自治体が実行すべきことを代行しているようです。

我が家の周囲には大きな地震の被害はありませんでしたが、それでも屋根瓦の破損やコンクリートのひび割れは発生しました。

しかしながら、避難の必要なほどの被害はありませんでした。

屋根瓦が破損し被災された方には深刻な問題であることは間違いありませんが。

結局、私は柏市役所の出張所に募金に行くことしかできませんでした。

もちろん、節電には徹底的に協力しています。

しかしながら、それだけでは自分の気持ちが納得できないでいます。

今まで、ポランティアの経験もなく、これから実行しようとしても足手まといなことも理解しています。それでも被災地や被災された方々のために何かしたいとの思いは強く、何もできない自分を歯がゆく感じています。

今後、福島第一原子力発電所の問題は長く尾を引くでしょう。

ここで発電された電力を使用していたのは福島県民ではありません。このことが問題をさらに難しくします。

電力供給という社会・経済の根本も見直しが入らざるを得ないでしょう。原子力を止めれば良いというほど簡単な問題ではありません。

そして、復興には時間が必要です。今だけの支援でなく、継続した息の長い支えが大切です。

大震災の傷跡が物心共に癒える日が一日でも早いことを心より祈っています。

これからも、何もできない自分ですが、何かできることはないかともがいて行きたいとも考えています。

■ 「地震のあとの日光の風景」 田中康平

地震の2週間後、少し落ち着いたこともあり日光の状況を見てきました。

今市付近の杉並木を少しだけ歩いてみましたが特に倒れた木もありません、いつもより更に静かなたたずまいでした。日光の2社1寺は拝観料を払わずに済む範囲で見てきました、東照宮は外からは何の変化も感じられません、中で石灯籠が倒れたところがあったようですが、外にある石灯籠は健全でした。五重塔も変化は感じられません。ただ、訪問客数が異様に少ないのが印象的です。地震の影響はハードよりも人の心に多く現れているようです。二荒山神社や大猷院も同様です。

大猷院横の小道を上がるとミソサザイが甘く鳴いていました。これくらいでどうした、といっているようでした。こんなことで落ち込む人の心が問題なのかもしれません。鳥はあの恐竜絶滅の大異変を鳥という姿に身を変えることにより生き残ったといわれています。それに較べればこのくらい、なにくそこれくらい、と思わねば人は立ち上がれないのではないか、潰れてしまうのではないか、と思えてきます、今の雰囲気にはちょっと危ない感じが感じられます。

奥日光 中禅寺湖や竜頭の滝 遊歩道辺りも見て気ました。雪がこの時期にしては異様に多いのが目に付きますが、取り立てて変わったところはありません。地震発生時奥日光にいた人の話では山鳴りがしてこれは火山の爆発が起こるのではないかと思えたそうです。いろは坂は下りが地震当日一部崩れたようですが直ぐに復旧したそうです。

ここも3月半ばの休日にしては本当に人が少ない状態でした、誰もいない竜頭の滝を初めて見ました。津波被害のようなすさまじい破壊にあわずとも非常に多くの人の心が痛んでいるのを感じずにはいられません。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

トピックス

Topics

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■ 「三寒四温」 大野木康夫

3月26日の朝、滋賀県の甲賀に行きました。

家を出てすぐに雪がちらつきだし、信楽の飯道山についたら少し積もっていました。

飯道神社まで登る山道は雪で滑りやすく、神社は雪の中、行場は危険な雰囲気で近寄ることもできませんでした。

水口の八坂神社は少し横殴りに雪が吹き付けていました。

甲南の新宮神社でも雪がちらついていました。

甲賀の油日神社は、滋賀県でも好きなスポットの一つです。

檜皮葺の屋根が雪化粧をしていました。

この日は大安だったのでお宮参りの準備で幣殿が開いており、本殿を撮影することができました。

土山の加茂神社も雪景色の中でした。

本殿を覆う覆屋の扉はいつもどおり厳重に閉ざされていました。

翌日、山科小野の随心院に「はねず踊り」を見に行きました。

昨日とは打って変わって、穏やかな春の日差しが暖かかったです。

随心院は梅の名所です。

「はねず踊り」の「はねず」(唐隷、朱華)とは庭梅又は薄い朱色のことです。

かつて地元の子どもが遊びの中で歌い、踊っていたのですが、大正年間にいったん途絶え、昭和48(1973)年に形を整えて復活しました。

今では、随心院の門前で、地元の小学生が、色鮮やかな衣装を着て踊るようになりました。

(時節柄、冒頭に震災の犠牲者に黙祷をささげてから始まりました。)

その後、地元中学生が白拍子に扮し、「今様」を舞いました。

4月2日の朝、早咲きの桜を求めて京都御所に行きました。

歩くだけで少し汗ばむような暖かい晴天でした。

御苑の北西、近衛邸跡の枝垂桜は早咲きで有名です。京都の桜の名所が軒並み「つぼみ」又は「咲き始め」でも、満開でした。

事前に申し込んで御所内を参観しました。

右近の橘はまだ覆いで囲まれており、左近の桜はまだつぼみでした。

参観を終えた広場の枝垂桜は、ちょうど見頃でした。

■ 「桜と旧弾正橋」 柚原君子

桜が散らない前に行ってきました。

深川八幡宮の裏手にひっそりと架かっていました。

新入学生の黄色い帽子の一団がにぎやかに通っていった以外はひっそりとしていました。続く

■ 「ばんから横丁」 中山辰夫

東日本大震災から4週間経過しました。被災者の心痛を考えると胸が痛みます。東電・原発の先が不透明なことが現地復興の足を引張っており、一刻も早く目処が出ることを願っています。僅かでも、ちっぽけでも、細くでもいい、長く継続した支援に努めたいと思っております。

JR東海道の草津駅前に建つ15階建ての店舗付マンションのB1に「ばんから横丁」と名付けた飲食店街があります。

長くは続くまいとの思いとは裏腹に、10年が過ぎ今のところ継続しています。

昼間でも薄暗いそのコーナーには、昭和30年代(1955)の草津駅前の街並が再現してあります。

当時中学生でしたが、住んでいた街並みの記憶は殆ど残っておりません。

時々このコーナーを通ると、あちこちに置かれた看板や電柱から記憶を取り戻すことが出来、少し気持ちが安らぐ感じがします。

昭和30年代は激動のスタート台で、その後飛躍に飛躍を遂げて今に至りました。でも現在の環境にすら満足でない欲張りな自分がいます。

そうした中での今回の東日本大震災は、来し方を振り返り、今後を考える機会になる気がします。

■ 「有名人と出会った! 2005年〜2009年」 野崎順次

2005年8月31日、東京の電車の中でお相撲さん。誰でしょう?

2005年11月19日、東京駅で井沢元彦。歴史作家、評論家、タレント。江戸川乱歩賞を受賞「猿丸幻視行」は面白かった。

2006年9月29日、JR大阪駅で。「関西No.1 リポーター」、「ロケの神様」の異名を持つタージン。

2007年4月26日、梅田の大陸橋で。古参アナウンザー、福留功男。

2007年7月27日、JR大阪駅で社民党党首、福島瑞穂。第21回参議院議員通常選挙投票日の二日前。

2008年7月17日、梅田の大陸橋で吉本お笑いコンビ「ブラックマヨネーズ」の小杉竜一。

2008年11月19日に浅草にて、TBS番組で安住紳一郎アナ、吉行和子、富士真奈美がロケ中。

2009年5月3日、大阪環状線でお相撲さん。誰でしょう?

2009年6月6日、神戸三宮で。モデル・タレントの梨花だと思うんだけど。

■■■■■■■■■■■■■■

Japan Geographic Web Magazine

編集 瀧山幸伸

■■■■■■■■■■■■■■

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中