JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Apr. 2019

Back number Subscribe/Unsubscribe


■■■■■ Topics by Reporters


■ 渋沢栄一ゆかりの文化財建築 瀧山幸伸

新一万円札の肖像が渋沢栄一になるとのことで、ゆかりの文化財建築をとりあげる。

広義には彼が設立に関わった企業や子孫に関連する文化財も「ゆかり」ということになるのだろうが、それでは幅が広すぎるので、彼個人に関連する文化財にとどめ、重要なものをまとめてみた。

まず渋沢本人の情報を得るために東京都北区飛鳥山の渋沢資料館に出かけよう。

資料で学習した後、渋沢の老年期に関係者から寄贈された重文建築も見学できるから都合が良い。

渋沢資料館

旧渋沢家飛鳥山邸は,曖依村荘と呼ばれた渋沢栄一の邸宅だ。晩香廬は,渋沢栄一の喜寿を記念して贈呈された小亭(談話室)で,大正7年に竣工した。

木造平屋建,寄棟造,赤色桟瓦葺である。洗練された意匠と精緻な造形により,工芸品ともいうべき建築作品に仕上げられている。

青淵文庫は,渋沢栄一の傘寿と子爵への陞爵を祝して贈呈された小図書館で,大正14年に竣工した。煉瓦及び鉄筋コンクリート造2階建で,1階は露台,閲覧室,記念品陳列室などで,2階は書庫になる。

旧渋沢家飛鳥山邸の晩香廬及び青淵文庫は,大正期を代表する建築家のひとりである田辺淳吉の作風がよく示された作品で、ともにアーツ・アンド・クラフツ運動の精神が具現された数少ない大正期の建築作品として重要だ。

青淵文庫(重文)

 

晩香廬(重文)

渋沢ゆかりの建物は多くあったが、現存するもので重文に指定されているのは飛鳥山と埼玉県深谷市のみだ。

渋澤栄一生誕の地は県史跡となっている。生家は明治25年に焼失している。現在の建物は翌年再建されたものだ。

誠之堂は生誕の地からは離れた深谷市起会字唐言110-3にある。

ここにも田辺淳吉の作品がある。

誠之堂は、渋沢栄一の喜寿を祝い、大正5年(1916)に建設された記念堂で、多摩川を望む東京府荏原郡玉川村(現東京都世田谷区)に位置する、第一銀行の運動場及び保養場であった『清和荘』に建設された。

昭和50年代以降は大学の外国人教師館に充てられたこともあったが、平成9年(1997)に敷地が売却されることになり、平成11年(1999)に現在地に移築復原された。

隣接する渋沢栄一記念館にも立ち寄りたい。

誠之堂(重文)

 


■ 花の色は…  大野木康夫

3月に徳島の桜を見たばかりなのに、4月に入っても桜を追いかけています。

今年もいろいろな桜を見ました。

本満寺のシダレザクラ(京都市上京区)

出勤前の早朝の撮影、満開

  

平野神社(京都市北区)

同じく出勤前の早朝の撮影、ほぼ満開

  

醍醐寺(京都市伏見区)

昨年の台風被害の爪痕も見られました。

太閤桜は南側の枝が折れていました。

  

霊宝館の桜群

深雪桜の南側の枝が折れ、大きなソメイヨシノは幹だけが残り、新しい枝に花が咲いていました。

     

伽藍のシダレザクラ

桜は無事でしたが、参道両側の木々がほとんど倒れて伐採されていました。

   

瀧蔵神社(奈良県桜井市)

マジックアワー、八分咲きの権現桜

  

小原の極楽桜(奈良県宇陀市)

7分咲き

  

大野寺の小糸シダレザクラ(奈良県宇陀市)

本堂前の桜もウイルス感染のため枝を落としていました。

0  

長谷寺(奈良県桜井市)

開門直後の入山で、満開の桜を堪能しました。

     

満願寺の八講桜(奈良県桜井市)

ほぼ満開

  

飯貝御坊本善寺(奈良県吉野町)

懐いの桜は散りはじめで桜吹雪が綺麗でした。

   

宝蔵寺のシダレザクラ(奈良県東吉野村)

醍醐寺の桜と近いDNAを持つシダレザクラです。

満開で多くの人が訪れていました。

  

大宇陀才ケ辻の桜(奈良県宇陀市)

3本のシダレザクラが見頃でした。

茅葺屋根の簡易郵便局も珍しかったです。

   

桜の木も病気や災害で様変わりすることを実感した年でした。

来年もいろいろな桜を見たいと思います。


■ 令和の騒ぎで思い出して 田中康平

令和の騒ぎで太宰府や万葉集が俄かに脚光を浴びているが、そういえば最近太宰府の水城の特別史跡に追加で父子嶋(ててこじま)というのが加わることになったとの新聞報道を見て観に行ったことを思い出した。

父子嶋の名前については水城建造時の父子の逸話からきたとの説明が現地にあったが、令和の騒ぎで「太宰府万葉の世界」(前田淑)という本を改めて読んでいたら、児嶋という遊女の話が出ていて、「こじま」という名前はこちらからきたのではないか、との気が今はしている。その方がそれらしい。

大伴旅人の館で令和の由来となった梅花の苑が開かれたその年の暮れに 旅人は京へ戻ることになって太宰府を旅立っている。

その時水城での見送りの人の中に遊行女婦の児嶋がいて別れを惜しむ歌2首を送った、旅人も児嶋に応える歌を残した、と万葉集巻6に載せられている。

父児嶋という名前が残ったのは児嶋との別れの場としてこの高台のような場所がまさにそこだったのか、あるいは後世の人がそれを思い起させる場所として名付けられたのか、いずれかではではなかろうか。

旅人は太宰府で妻を亡くしていた。この帰京の時旅人は65才位で児嶋とは父娘ほどの年齢差があったと考えてもおかしくない。

万葉集巻六より

 冬十二月、大宰師大伴卿の京に上る時に娘子の作る歌二首

凡ならばかもかもせむをかしこみと振り痛きそでを忍ひてあるかも

(この歌の説明として)

この日馬を水城に駐めて府家を顧み望む。時に卿を贈る府吏の中に遊行女婦あり。その名を児嶋と曰ふ。ここに娘子、この別るることの易きことを傷み、彼の会ふことの難きことを嘆き、涕を拭いて、みづから袖を振る歌を吟ふ。

大納言大伴卿の和ふる歌二首 

倭道の吉備の児嶋を過ぎて行かば筑紫の児嶋念ほえむかも

( ----と続く)

父子嶋はいまは見ると何ということもない住宅地の中の土塁だ。しかし上がってみると流れてきた時間というものを感じてしまう。

令和はどんな時代になるのだろうか。

写真は現在の父子嶋(ててこじま)

    


■  三井寺(園城寺)近辺ブラブラ 中山辰夫

三井寺周辺は桜でも有名です。今年は例年より3〜4日咲き始めが遅れたようです。桜がダメを承知で3日に行きました。

桜の絶景のポイントとされる所も3分咲きで精彩に欠けました。

疏水を巡る遊覧船が就航を始めました。一日の便数も増やしたようですが、予約満杯で人気は上々と聞いております。

  

直ぐ近くに本殿が重要文化財に指定されている三尾神社(室町時代建立)があります。

言い伝えから、 神様のお使いは「うさぎ」とされ、神紋は「真向きのうさぎ」です。

  

手水舎の吐水口・蟇股・瓦紋をはじめ寺域にはうさぎに絡む造りものがあふれており、それを見つけ出すだけでも時間が過ぎます。

三尾神社は三井寺の宗祖・円珍(智証大師)が本社を復興した経緯があり、元は三井寺の鎮守社として明治9年(1876年)に現在地へ移されるまで三井寺の境内にありました。

三尾神社の奥に三井寺の境内に通じる「裏門」があります。昔は正月だけこの門が開けられ三井寺に入れたようです。(有料になるまでの間)

三尾神社側と三井寺側

  

裏門は室町時代の建立で、老朽化が進みカバーをかけられた状態で残されています。この門の上に「見返りの兎」が配置されています。

  

兎は左右に配置されていましたが、一匹は別の場所に保管されています。

三井寺の広大な境内には、金堂を始めとする国宝や三重塔などの重要文化財の伽藍が多く配置されています。

金堂前の参道の中ほどに「村雲橋」という境内で唯一の橋があります。現在の村雲橋は石造で、江戸時代に架け替えられた緩やかな反り橋です。

    

「三井寺の宗祖・円珍「智証大師」がこの橋から西空を仰いだとき入唐中に学んだ長安の青竜寺が燃えているのを感知し、直ちに真言を唱えて閼伽水(あかみず・仏前に供養される水)を撒いたところ、橋下から一条の雲が湧きおこり西に飛び去った。翌年、青竜寺から鎮火のお礼の使者が来たことから、この橋は村雲橋(むらがり立つ雲の橋)と呼ばれるようになった」との伝承が残っているようです。

手前には国宝・客殿のある勧学院の石垣があり、重要文化財である唐院灌頂堂・唐院大師堂への石段道にも近く、村雲橋一帯は三井寺の中でも聖域といえます。

三井寺を始め、寺社には諸々の伝承が残されているようで、それに触れながらのゆっくりとした再訪もありかなと・・と思いました。

  


■  鳥の巣発見 蒲池眞佐子

朝散歩コースにあるSLの展示場で、駐車場の鳥と言われるセグロセキレイが なにやらくわえていた。

じっと見ていると、エサを運んでいる。

SLの真ん中あたり、巣を作っていた。

じーっと見ている私に警戒しながら、雛たちにエサを与えている姿を発見。

親鳥が来たときだけ顔を出し、離れたら巣の中に入ってしまって見えなくなって しまった。

もともとセグロセキレイは水辺の鳥らしく、 天敵から身や卵を守るためわざと人間に近い場所に巣を作るらしい。

なかなか鳥の巣を見ることはなくなったが、いいショットが撮れた。

    


■ 旧井上家住宅(我孫子市) 川村由幸

車で近くを通ると二番土蔵の修復工事が終わったようなので訪ねてみました。

井上家は手賀沼干拓事業に携わった名主で江戸時代末期の建造物が残る我孫子市指定文化財です。

修復が完了した二番土蔵は1851年に建築され、修復前は痛みの酷い状態でした。

 

壁は崩れ、覆屋をしているのは雨漏りのためでしょう。平成24年に我孫子市の指定文化財となるまでは

故人の所有で十分な補修はされていなかったのでしょう。

指定をうけてからは、表門・裏門が平成27年に修復が完了。そして二番土蔵が今年修復が終わりました。

   

母屋より一段高いところに土蔵があるのは水害対策なのでしょう。見事に修復されました。

貴重な文化財が生き返るにはコストがかかりますが、文化財を失ってしまえば二度と元には戻せないことを理解すべきです。

こうして復活した文化財が見られることに幸せを感じます。

   

次は母屋です。素人が見てもその傷みはひどいものに感じます。我孫子市は母屋も修復する予定であると広報しています。

見学者が母屋に上がって見学できるようにすると言っています。のんびりとそして楽しみにそれを待ちましょう。

  

 

全ての修復が完了すれば、手賀沼の歴史を語る大切な文化財となるはずです。

何故か江戸時代の文化財は冷たくされているような気がしています。この時代の文化財は戦争で多くが焼けてしまいました。

それ故、残っている者はより大切にすべきではないでしょうか。


■ 青春18きっぷ 野崎順次

自動車の免許は持ってないし、独り旅が好きだし、関西では山陽・東海道・北陸本線に新快速という特急並みの電車が効率よく走っているので、その季節(春、夏、年末)になると、青春18きっぷを購入する。それぞれお彼岸、お盆、命日と重なるので、お墓のある倉敷への往復にも利用する。

今更、細かい説明はしないが、「青春18」といっても使えるのは若者だけではなく、誰でもよい。むしろ利用者の大半は高齢者である。1回分で、特急・急行・新幹線を除くJR電車に一日中乗れる。5回分で¥11,850だから、1回分は¥2,370である。日帰りする場合、片道の運賃が¥1,200を超えたら、元がとれることになる。家に一番近い立花駅(尼崎市)の運賃表を見てみると(以下、線、「駅名」、料金の順)、

東海道本線 「瀬田(草津の2駅手前)」 1320

山陰本線 「馬堀(亀岡の1駅手前)」 1320

湖西線 「比叡坂本(おごと温泉の1駅手前)」 1320 

関西本線 「笠置(木津の2駅向こう」 1320

阪和線 「紀伊(和歌山の2駅手前」 1240

山陽本線 「ひめじ別所(姫路と加古川の中間)」 1320

福知山線 「谷川(篠山口の2駅向こう」 1320

今回は利用期間が3月1日から4月10日までで、3月6日に購入した。そして普段は運賃が高い遠隔地の庭園めぐりに利用した。日付の後の金額は、通常の普通料金である。

 

3月9日 ¥5,180立花→米原→木ノ本、木之本→石山→立花

日吉神社、浄信寺(木之本地蔵院)

  

3月21日 ¥4,540 立花→米原、米原→立花

多賀大社、胡宮神社

  

3月23日 ¥4,990 立花→岡山→備中高梁、備中高梁→岡山→児島

頼久寺、巨福寺

  

3月24日 ¥3,170 児島→岡山→備前一宮、備前一宮→岡山→播州赤穂→相生→三宮

お墓参り、吉備津彦神社

 

4月6日 ¥5,180 立花→敦賀、敦賀→立花

柴田氏庭園、西福寺、気比神宮

   

通常の普通料金を合計すると、¥23,060となるので、その半額で済んだことになる。

これまでに青春18きっぷを使って、1日で一番遠くまで行ったのは、戸狩野沢温泉である。

大阪発午前5時で午後3時過ぎに着いた。行こうと思えば、1日で新潟まで行ける。

青春18きっぷをできるだけ快適に使うために心がけていることは、

① 新快速や快速は早朝から非常に混んでいる。団塊の世代が定年退職したりして、高齢者の利用者が増えたからだろう。そこで座る席を確保するためには、大きな駅(大阪、三ノ宮)ではなく、その手前から乗って、大きな駅で降りる人の席を狙う。

② 乗り換えの時には、前もってドアの前に移動して、次の列車へのスタートに備える。

③ 列車のトイレの有無や位置を知っておく。乗り換え時間を調べておき、駅のトイレに行く時間があるか確かめておく。

④ 高齢者のグループには近づかない。うるさいし、乗り換え時の席取り合戦がすさまじい。

⑤ 自分も高齢者であることを自覚し、体力と正気の続く限り、ジェントルマンの誇りを維持する。

 


■ 雪見桜 柴田由紀江

2019年4月10日、宇都宮に雪が降りました。私が住んでいる団地の桜に雪が積もった光景を撮影して参りました。

          

 
■ 看板考 No.75 「孫太郎虫」 柚原君子

  

看板所在地:東京都台東区蔵前

漢方薬店にはウィンドーが付いていて、大体は蛇がいます。怖いもの見たさにのぞいてみるとやっぱりいた!……ので、目を閉じてしまいます。しかし、そんな漢方薬屋さんも町の中にめっきり減ってしまいましたが、台東区を歩いていたら「まむし」の大きな看板に出合い、怖いもの見たさにわざわざ信号を渡って近づきました。ウィンドーの中には瓶が並んでいるのみで蛇はいませんでした。

創業明治17年のこの漢方店で売っている品目には「まむし」「孫太郎虫」、秘伝黒焼きとして「猿頭」「狐の舌」「土竜」「鹿角」などがありました。中国では猿の脳を食べる習慣があったそうですが、漢方とはいえ、猿の頭など売買して手に入るのかと少し不気味な気持ちになりました。

そのなかで「孫太郎虫」はなつかしい響きです。祖母が「今度薬売りが来たら孫太郎を頼んどきゃぁよ」と名古屋弁で母に言っていたのを覚えています。

子どもの神経が高ぶった時(江戸時代から疳の虫と言われて、悪い虫が腹の中に入って悪さをするから子どもが夜泣きをする、と信じられていた)に呑ませる民間薬のようなものでしょうか。

孫太郎虫は蜻蛉の一種であるヘビトンボの幼虫です。とてもグロテスクな形をしているそうですが、実際にその薬を見た記憶はありません。私の弟は脱腸の気もあってよく泣いていましたし、孫で長男で跡取りで、祖母にとっての弟はシャレでなく、大切に育てなければならなかった大事な大事な孫太郎だったのでしょうね。

赤ん坊は成長していくときに脳の成長と体の成長のアンバランスがしばし起こり、どうしてよいか分らず、泣き叫んだりテンカン発作を起こしたり目が寄ってしまったりすることがあります。そこまで行かなくても「黄昏泣き」のように交感神経と副交感神経が入れ替わる夕方など、体の状態が安定せずに泣いてしまう赤ん坊もいます。

今では製薬会社で発売されている「宇津救命丸」などが知られていますが、「令和」の時代になろうとしている今、看板の中の「孫太郎虫」を知っている人は相当少なくなっていると思われるますので貴重な看板です。


■ おばちゃんカメラマンが行く @天橋立 宮津市  事務局

日本三景 天橋立は絶景か?

天橋立は日本人なら一度は訪れているのではないだろうか。

自分も何度か訪れている割には、股覗きポイントは何だこんなものかとちょっと拍子抜けだ。

一時代昔の観光地という感じだが結構観光客は多い。

南側の天橋立ビューランドの方から見る飛龍観と北側の笠松公園から見る斜め一文字(昇龍観)、さらに西側の大内峠一字観、と東側の獅子崎展望所雪舟観にもビューポイントがある。

一日で観光するのは盛りだくさんで、しかも砂州を歩いてみようと思うと結構時間がかかる。雪舟の国宝の「天橋立図」の景色とされる雪舟観は興味はあるが後回しになってしまう。

地理学、人文学的な要素を含めると特別名勝に値するのだろうが、そこまで学習して観光する人は少なそうだ。

前回アメリカ人を連れて観光に来たが、なぜ逆さまに見るのかと驚かれた。

砂州の説明と逆さまに見ると龍が天に昇るように見えるラッキーポイントで単語力がつきた。

2016年に立命館大学教授の東山篤規、大阪大学教授の足立浩平は「股のぞき効果」について学術的な研究を共同で行い、イグノーベル賞知覚賞をもらっている。

上下逆さまになるのはもちろんだが、遠くのものは近くに見え実際よりも小さく感じるらしい。つまり遠近の錯覚が起きて絵画的に見えるそうだ。

立て看板にも覗きながら見ると血が頭にたまり充血してめまいが起こり幻想的な雰囲気になるような事が書いてあった。

単純にカメラで撮って逆さまにして見れば良いとかカメラを逆さにして撮れば良いのではという問題ではなさそうだ。

観察していると多くの人が股覗きをしながらカメラで撮っているが、股のぞき効果は得られそうもない。ついついやってしまった自分が情けない。

人間の心理的な要素と身体的な不思議が重なって、見る人によって景色は違うのだろう。意外と奥が深い。

肉眼で見た感動や不思議を盛り込んで撮影できるかどうかがカメラ道を左右することになるのだろうか。

老若男女着物の裾をしょっからげて覗く姿込みで、結論 天橋立は絶奇景也

今月のニャンコ

尾道 「猫の細道」 在住 人慣れ猫

呼んでもつんとして振り向きもしないが、猫カリカリご飯の袋の音に敏感に反応してねだりまくる。


■■■■■■■■■■■■■■■■■

Japan Geographic Web Magazine

https://JAPAN GEOGRAPHIC/

Editor Yukinobu Takiyama

yuki at JAPAN GEOGRAPHIC (atを@に入れ替えてください)

■■■■■■■■■■■■■■■■■

 All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中