滋賀県愛荘町 愛知川宿
Echigawa post town,Aisho town,Shiga
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June 2019 柚原君子
中山道 第65 愛知川宿
概要
現在の滋賀県愛荘町愛知川(江戸時代は近江の国 神崎郡)にある中山道65番目の宿場『愛知川宿』は、江戸時代の浮世絵師歌川広重(1797-1858)の浮世絵の中に、木曽海道六十九次之内『恵智川』と題する絵があるように川の名前が由来となっています。
『えち(愛知・愛智、依知)』の言い方に関しては、もともとは渡来系氏族の秦氏の一族が、近江国愛智郡に移り地名を冠して、朴市秦と名乗ったのでは、と考えられています(依知秦公・えちはたのきみと記された木簡もあり)。愛知郡秦荘町大字上蚊野に存在する上蚊野古墳群は、依智(依知)秦氏の古墳時代後記の居住が色濃く認められる地でもあるそうです。
同じ字で県名になっている愛知は「年魚市潟(あゆちがた)……名古屋市熱田区辺りの当時海岸であった一帯を現す」の「あゆち」が転化して「あいち」になった様です。あゆちの「あゆ」は古来語では、湧き出るという意味があり、湧き水が豊富である地に使われていた名称でもあることから、醒井、番場、鳥居本と近江の中山道沿いに続く愛知川宿もまた、「あゆ」からの転化がなかったとは言えません。
愛知川宿は前の高宮宿同様(高宮宿では高宮上布)に近江上布を扱う「近江商人発祥地」の一つで、特に五個荘を中心として、近江商人の活動が活発であった地です。
近江商人は別名湖東商人ともいわれ、東近江市の旧五個荘町・旧愛知川町・豊郷町などからうまれた商人です。
江戸時代後期、諸藩は財源を確保するために藩内の産物販売に力を入れるようになります。愛知川宿の属する彦根藩も、特産とする麻織物の販路に力を入れ、農民にも商業活動の許可を出します。農民たちは農閑期には全国を行商して回ります。売るばかりではなく、都市部で仕入れた品物を藩内に戻って売り、また途中の地域と専属契約をして売るなどを、「のこぎり商法」・「諸国産物回し商法」などと呼ばれながら、近江商人は力を蓄えていきます。大店を構える財力がついても近江内に店舗を構えることなく、全国の大都市に支店を置くような商法で、のちに商社となる礎を築いていきます。
愛知川宿内では伊藤忠商事やあけぼの缶詰の前身となる又十、朝鮮半島・中国大陸に百貨店網を作り上げた「三中井」などがあります。
1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒、宿内家数は199、人口は929人とあっります。
昭和の時代になると、市町村合併の波が訪れて、秦川村+八木荘村→秦荘町、愛知川町+豊国村→愛知川町、さらに秦荘町+愛知川町→で現在の愛荘町という経緯となっています。
愛知川宿の近くを近江鉄道が通り『愛知川駅』もありますが、どちらかといえば住宅街のような新しい家々が目立つ中山道になっています。
慶事に贈呈される事の多い「びん細工手まり」と呼ばれる細工物は愛知川にしかないので特筆します。
1、石畑の一里塚跡
先の『高宮宿』は阿自枝神社を見て四十九院の交差点で終了していますので、その続きを歩きます。
春日神社を過ぎると、何事かと思うような建物があります。『豊郷小学校』です。
ヴォーリズ建築事務所の設計によるもので、1937(昭和12)年に丸紅商店専務の古川鉄次郎によって建てられて町に寄贈されています。当時としては画期的な近代的校小学校で、広大な白亜の平城の様な姿です。古川鉄治郎は丸紅商店で丁稚奉公から勤め上げ、創始者忠兵衛の右腕となった人です。私生活では始末して自分を正しますが、公共のためには大金を寄付して悔いないという典型的な近江商人であったといいます。
当時のお金で60万円にものぼったとされる寄付総額は、古川鉄次郎の私財の3分の2に相当する巨額。近江商人の懐の深さが感じられます。
残念ながら時を経て取り壊しか文化財価値かともめた時期もあります。が、平成25年には国の登録有形文化財に登録されて、現在では町立図書館や子育て支援センターなどとして利用されています。良かったです。
校舎の見学も自由で映画のロケにも多く使われているそうです。
街道の向かい側に。『やりこの郷』という立て札があります。
『安食南には、古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が降らず、農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。村人たちは阿自岐神社の神様に雨を降らしていただくようお願いしたところ、「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐神社の東の地面につきささりました。その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた大地をうるおし農作物は大豊作となって、その清水を「矢池」と名付けました。この矢をはなった大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって「やりこ」と言われるようになったと思われます。今日、その大木の生えていたところが「矢り木」という知名になって伝わっており、はるか昔の名残をとどめています。』(立て札全文)↓
この地は古くは『やりこ』、今は『安食(あんじき)南』という場所の様ですが、あんじきって「阿自岐」の神社名に似ていますから、そこから来たのでしょうか。矢が刺さり湧き水が出た!愛知の語源もあり湧き水が多かったことは確かなのかもしれません。
また反対側に戻って『石畑の一里塚跡』。江戸寄りの『高宮宿』と京寄りの『愛知川』宿の間にある『間の宿』でもあり、人馬の継ぎ立てや、人足や馬などが休憩する場所の立場があった場所で、茶屋も設けられていたそうです。この辺りからも琵琶湖が見えたそうです。
案内板があります。
『私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼります。1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畠民部大輔宗信が、この辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造りこの地を治めていました。1239年(延応元年)男山八幡宮(京都‥石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉二年)に創建した称名寺があります。また、江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。さらに、中山道の役場前交差点南には、「一里塚」が設けられ、高さ丈余の塚で、松が植えられてあって、小字一里山塚の上から湖水が見えた」と、豊郷村史に記されています。』
(全文)
琵琶湖は埋め立てられて遠くになった感がありますが、当時はこの辺りから見えたのでしょうね。那須与一は源平合戦に登場してきますが活躍したのは平安時代。江戸時代よりも700年も前のことです。史実によると那須与一には子どもはいないことになっています。また全国には那須与一と名乗る人は三名はいたとか……。
2,伊藤忠兵衛記念館
案内板
『伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することになりました。初代及び二代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、“近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。また、ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら、その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。』
(全文)
創始者忠兵衛が暮らし、また豊郷小学校を気前よく寄付した忠兵衛の片腕であった古川鉄次郎たちが働いていた家屋。入ってすぐの『丸紅』の提灯、伊藤忠と染め抜かれた半纏に、歴史の重みを感じると共に、近江商人のすごさを思いました。実にたくさんの展示物があり、どれを見てもすごい物ばかりです。とくに広告の変遷がおもしろい。
『くれない園』や『伊藤長兵衛屋敷跡碑』などが続き、伊藤忠商店と合併して丸紅商店になっていく勢いが感じられる一帯です。
3、天稚彦神社~金田池碑
所々に白壁の大きな家があり、それらを見ながら進んで行きます。
『天稚彦神社』。あめわかひこじんじゃ。高野瀬、沢、下枝、大町、肥田地区の氏神様で佐々木京極氏の家臣であった高野瀬氏がこの地に城を構え守護神と、境内では絹布や陶器・魚・野菜などを持ちよって盛んに楽市を開いていたそうです。
反対側に酒造元らしい煙突が。『出世誉』の蔵元。その先に『西沢藤平邸跡地』。先ほどの煙突のある蔵元でしょうか。続いて『金田池碑』。今は出ていないのですが湧き水があった場所。
4,又十屋敷
『又十屋敷』の前になぜだか一里塚址碑が。木製の看板ははげていて読めません。
又十屋敷は藤野喜兵衛の旧宅。1770(明和7)年に四代目藤野思四郎兵衛の次男として生まれ喜兵衛は11歳で北海道に渡り、義兄宅で丁稚奉公の末に20歳で独立します。松前城下の松ヶ崎に店を開き、屋号を『柏屋』・商標を『又の字の下に十(通称又十)』として、物産販売・海運業を始めます。のちには廻船業にも進出して豪商となり名字帯刀を許されています。
藤野家四代目を受け継いだ辰次郎が1887(明治20)年、根室別海の官営工場の払い下げを受けてサケ缶詰製造に着手します。4年後、函館五稜北辰の星印を北海道庁より譲与され缶詰に貼り付け販売を始めると、信用はさらに高まりそのブランド力により陸軍御用達となります。経営はさらに広がり根室、国後にも工場を建設、北海道の缶詰王といわれるまでになります。辰次郎亡き後の事業は日魯漁業に譲渡されて、現在のあけぼの缶詰へとつながります。
又十屋敷は初代四郎兵衛が隠居して住んだ旧宅ですが、建てられたの天保の時代の飢饉で貧しい人々を救済するために建てられたと伝えられていて、その後は彦根藩との関わりも深く、又十屋敷の展示物は時代を語る多くの物が所蔵されています。
当時は二十数棟にも及ぶ広大な屋敷であったそうですが、現在では文庫蔵、長屋門、本宅のみが残されています。案内の方は誠実な方で庭を見ながらお茶を呑ませていただき、駕籠や鎧にまつわるお話はおもしろかったです。また『湖東焼き』の現物が展示されていて、赤や青の素朴な色使いながら、深い味わいがあります。
お経に音頭を付けたのが始まりで、絵日傘踊り、扇踊りとして今に伝わる江州音頭発祥の地、との碑があります。
今から400年前の天正年間の7月、観音堂の遷仏式の余興に、仏教にちなむ人形を飾り地元民に手踊りをさせたそうですが、音頭がなかったので時の住職がお経に節を付けて歌ったところ大盛り上がり。その後は毎年の7月(旧暦)には盆踊りとなったそうです。
日傘や扇などを持ってとありますから、身近にあるものでの手踊りはさぞかし有り難く楽しかったのではなかろうかと、想像できます。
先の信号の元にある橋は『歌詰め橋』。
流れているのは宇曽川。宇曽川は秦川山及び押立山に水源を発して湖東平野を流れて琵琶湖に注ぐ川。水量が豊富で舟運に適し、人や物ならず大きな石までも運んでいたいそうです。宇曽川は『運槽川(うんそうかわ)』からの転化。
歌詰橋はちょっとおどろおどろしいです。
説明があります。
『宇曽川に架けられていたこの橋は、十数本の長い丸太棒を土台にしてその上に塗りこめた土橋であった。天慶三年(960)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷は、京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追い駆けてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、言われた将門の首は歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである。』
おどろおどろしいですね。今の時代だったら首が追いかけてくることなど有り得ないと思われますが、闇も今よりは漆黒の闇であったのでしょうから、物の怪の気配を感じる感性もより研ぎ澄まされていたのかもしれません。
昼間ですが、ゆっくりと橋を渡ります。
正光寺、石部神社と過ぎて沓掛の交差点に。今日は旅籠屋という格安に泊ります。(良かったですよ!)
6、旧田中新左衛門宅、郡境
今日は夜には新幹線で東京に帰らなければいけません。が、近江線の愛知川駅で自転車を借りて、前日終了した「沓掛」の三叉路より、武佐宿に向かって行かれるところまで行くつもりでスタートです。
『旗神豊満大社道標』が三叉路の角にあります。町の文化財指定。今から210年も前の物です。神社を二つばかり過ぎると愛知川宿と記したアーチ(ゲート)が見えてきます。道路の舗装の色がここからくっきりとオレンジ色に。愛知川宿を示しているのでしょうか。
左手に地蔵堂。その先に『近江商人亭』。奥行きの深い立派な家です。現在は料亭ですが麻物商を営んでいた『田源』の別邸で『旧田中新左衛門宅』(登録有形文化財)。土蔵は明治中期、主屋は大正初期、その後茶室、北蔵、大広間を建設、庭園を整備したそうです。
近江商人といえば全国的にその名を知られた存在であり、豪商を数多く出しことで有名です。代表的な近江商人としては、八幡商人、高島商人、日野商人、湖東商人がありますが、これらの多くは江戸時代に発展したのに対し、愛知川の商人は明治以降の「近代」にピークを迎えたそうです。『田源』の初代・田中源治(1791-1864)は、現在の秦荘(はたしょう)町の生まれで、愛知川に移住したのち、蚊帳の行商を行い、京都、江戸へと商いを広げていきます。続く2代目(源蔵、1821-1892)の時代に、東京日本橋に店を構えるようになり、本宅を愛知川、本店は京都、支店を東京に持つことになりました。
「田源」はその後、3代目(竹次郎、1860-1918)の時代に、東京方面を中心に売上を伸ばして発展を続けたそうです(参考資料:近江商人亭HPより)。
ぐるりと周囲を回りましたが、本当に大きな敷地と建物です。
少し行って向こう側に普通の家のような大きさですが地蔵堂があります。家の脇にもお地蔵様がたくさん置かれています。お地蔵さんの前は細い川ですが、ここが神崎郡と愛知郡の境界だったところでなおかつ愛知川宿の東方の入口。
その隣は今から150年あまり前の慶応元年創業の和菓子『しろ平』。
先の信号を越えたところに黒いポスト(書状集箱)。飾り物ではなく現在も使われています。
今でこそ郵便ポストは赤ですが、郵便制度が始まった当初は郵便局が増えてポストも大量に必要で、杉板を四角の柱に組み合わせ、角は鉄板を張って、杉板には黒いペンキを塗ったそうです。黒ポストは30年間も使われたそうですが、暗がりでは目立たない上に火災を懸念して丸形鉄製に切り替えられると同時にイギリスで採用されていた目立つ赤になったというポストの歴史です。知らなかった……。
街道筋に商店が連なり家の軒下にあるいは家の脇にやたらめったら狸の置物が目立ちます。信楽焼は滋賀県ですから、そのつながりでしょうか。
タヌキは他を抜くということで商売繁盛で形も豊富。個性豊かなタヌキが続いている愛知川宿。あっここにもあった!と、歩くもう一つの楽しみになります。お寿司屋さんのタヌキが私は一番気に入りました。古い町屋が軒を連ねたかとおもうと、いきなり大きな新しい建物が目の前に現れました。本陣の跡ですが大正時代に建てられた白い洋館の旧近江銀行愛知川支店の建物。奥の民家ごとリニューアルされて2018年より『愛知川ふれあい本陣』という名称です。
宿場のほぼ中央に位置して敷地は142坪。となりの八幡神社をはさんで脇本陣があったそうです。本陣は1794年の寛政年間の間取り図が残されていますが、建物の内部は銀行当時のものが残されていて『国の登録有形文化財』です。愛知川にしかないビン手まりも展示されています。
八幡神社、高札場跡、問屋場跡と続きます。ベンガラ塗りの家が残り、その脇の空き地が脇本陣跡の様です。
8、竹平桜に一里塚
『竹平桜』、元旅籠屋で国の登録有形文化財です。1758(宝暦8)年、初代平八が竹の子屋の号で旅籠を創業。明治時代になり天皇陛下が小休止されるので建てられたのが御座所。戦前は史跡だったとのこと。
不飲川(ノマズ川)を渡ります。欄干にビン手まり。
不飲川の大元は野間津(不飲)池。言い伝えでは、その池で平将門の首を洗ったところ血で濁りとか、大昔の戦いで血が流れ込んだとか、毒の水だったとか、つまりは飲んではいけないという意味なのですね。江戸時代には農業用水で船も通ったそうですが、のぞき込んでも小さな川になっています。
右側の空き地の奥に一里塚碑。中山道は国道8号に合流して愛知川の流れる御幸橋を渡り左に折れて行きます。橋を渡る手前に『睨み灯籠』。対岸にも同じ灯籠があるので互いに睨み合っているから睨み灯籠。天皇陛下が渡られたときに作ったから御幸橋。江戸時代の橋は無賃橋の頃もあったそうで、前の高宮宿にあった無賃橋と道理は一緒です。橋の手前の神社は祇園神社。愛知川にかかる橋の守護神
左側に赤く見える鉄橋は近江鉄道愛知川橋梁。橋長239m。明治期の1898年に建設されて現在でも使われていて登録有形文化財。赤い色がとてもきれい。
橋を渡ってすぐ左折。この辺りが五個荘。『諸国産物回し商法』と呼ばれて多くの商人が育った地域です。
住宅街を進んで行くと『小幡人形』のパンフレットを飾った家が。『小幡デコ』と呼ばれる土人形のようです。代々細居家が伝承してきたそうで、パンフレットにも細居家九代目の方が講師となって対談があると示されています。福助や大黒様の土の人形が何点か窓際に飾られています。
いくつかの寺を過ぎて道は追分に。道標は17118(享保3)年に建てられたもの。左いせ、右京みち、とあり東海道の土山宿まで続き、伊勢神宮と多賀大社を結び、天皇の名代として公家が参拝するところから御代参街道と呼ばれたところでもあります。
9、市田邸跡、茶屋本陣 片山家
大神宮の灯籠に沿って右に曲がって行きます。お寺さんの本堂前で昼食をさせていただき、再び街道に。かつて北之庄村だったところにめずらしく茅葺き屋根の家。過ぎて右側に大正期の建物は旧五個荘局。国の有形文化財です。
街道には細い川が平行して流れていてのぞくとザリガニのけんか!珍しくって写真を数枚。思わず道草。
次の宿までは一里塚を頼りに昔の旅人も少しは休みながら歩いたのでしょうか。今はすっかり住宅街になっているところを歩きます。
田の角に大きな灯籠。左いせと読めます。先ほど過ぎてきた道標も同じ文字です。こちらは伊勢に通じる脇街道で、近江商人にとっては重要な道であったそうです。
住宅の植木の陰に『市田邸跡』の文字。お住まいはきれいな住宅ですがその並びにある町屋風の土蔵を持つ家。説明版があるのですぐ解ります。
信号を越えた右側にある茅葺き屋根の家が『茶屋本陣 片山家』。
10,石塚の一里塚跡
昔は松林などあったのでしょうが、今はラーメン屋さんなどがある普通の道をひたすら歩きます。『石塚の一里塚跡』。昭和初期の書物には一里塚は平になっているけど石垣はあり、と残っているそうですが、今は説明版のみです。
右側に天秤棒を担いで商売をした近江商人のモニュメント。近江商人は行商に出て辛いと、てんびん千両!とつぶやきながら商売に励んだそうです。豪商が多く出ていますが、我慢強い商人魂があったのでしょうね。
清水鼻の交差点を過ぎて日枝神社と名水。醒井宿の「居醒の清水」「十王水」とともに湖東三名水のひとつでもある「清水鼻の名水」です。立場でもありあられ風の焼き米はぜが名物で女郎さんも居たそうです。
Y路地に出たところで中山道は左に行きます。ちなみに右は 『八風街道』と呼ばれ道で近江八幡に通じています。大きな常夜燈。大神宮常夜燈です。ここで愛知川宿を終了します。
11,信楽焼狸
いろいろなところに狸がいました。あつ!あそこにも!楽しい街道歩き。
12,びん細工手まり
びん細工手まりは愛知川に古くから伝わる伝承工芸品。由緒は江戸時代の終わり頃に、長野村(現・愛荘町長野)の藤居弥三郎のもとに嫁いだ近江商人・市橋喜平の妹つね(1856-1930)の嫁入り道具のなかにあったものが最古のものと考えられているそうです。
びん細工手まりの技術はその後は伝承されず、明治時代の頃になって愛荘町沓掛の勝光寺や愛荘町東円堂の信光寺において裁縫教室で製法が教えられますが、師としてあった青木ひろ(1887-1973)はその技術を弟子に伝えることなく死去したそうです。昭和になって保存の動きが見られ技術の復原が行われ保存会ができて現在に至っています。ビンの中にあでやかな手まりが入り、丸く収まっているところから家内仲良く安全の意味で慶事に送られる郷土品となっています。
どうやって作成するのだろうかと、しみじみ見てしまいます。
※作り方(後に調べました)
細い棒をビニール袋に入れさらしで巻いて芯を作り球を作ります。球が出来上がったら、ビニール袋と和紙で包み込み口の部分に目立つ色の紐を巻き付け、棒を抜きます和紙の上から縦横無尽に毛糸を巻きつけてその上にミシン糸を巻き上げて土台に。金糸で地割をし刺繍をしていきます。刺繍が出来上がったら、ビニールの口をあけて(あまり大きくは開けません、紐を引っ張りだし、中のさらしを抜いていきます。毬をビンに入れます(ビニール袋はまだ入ったまま)。びんの中に入ったら菜ばしのような細い棒でキルト芯や綿を詰めながら形を整えていきますそして穴を地の糸を寄せて埋めてさらにその穴の開いている面を下にして完成です.
13、愛知川駅
近江鉄道の駅。女子高校生がプラットホームに座り込んで線路側に足を降ろしてぶらぶらさせてくつろいでいます。単線の線路の遠くには踏切を渡る人の影が一つシルエットのように浮かび、ローカル色あふれています。駅舎は建て直されたばかりのようでビン手まりのポストや観光案内所があります。自転車も借りられます。
Jan.2011 撮影/文:中山辰夫
愛荘町愛知川近江商人発祥の地・五個荘町(既報)を過ぎて、愛知川(恵智川とも書く)の橋を渡ると愛知川宿に入る。
旧宿内の街道筋は現在商店街となっているが、宿駅だった名残を残している所が少なくなっている。
「此宿は煎茶の名産にして、よく水に遇うなり。銘を一渓茶という」と木曽路名所図会にある。水のよさが当時から注目されていた。
中世この一帯には愛知川市(いち)、長野市など市場が開かれていた。名残はあるだろうか。
中山道の街並みに沿って宿内を辿る。
御幸橋
旧愛知川町愛知川
愛知川は今や穏やかな流れだが、昔は「人取り川」の異名を持つ暴れ川で、水害などでしばしば旅人が命を落とすことがあった。
「無賃橋」が架かる以前は徒歩渡りだった。
江戸時代の橋は、天保12年(1831)に完成して木橋であった。渡り賃を取らないことから「無賃橋」と呼ばれていた。
明治10年(1878)、明治天皇巡幸のために橋が架けられ、その後、地元の有志に払い下げられた。
大正15年(1926)鉄筋コンクリートの新橋となった。
この橋には歴史上の幾多の履歴が埋まっている。御幸橋については別途《明治天皇巡幸》に記載する。
常夜燈
江戸時代初期。愛知川畔に古くから建てられたもので、対岸の小幡にもこれと同じ常夜燈がある。河川をわたる場合の安全を願い建てられたもので、現在のものは弘化3年(1846)に再建されたものである。
愛知川及び対岸の五個荘町の寄進者、世話方、石工の名前が刻まれている。
祇園神社
愛知川にかかる無賃橋は天保2年(1831)に完成した。天保9年(1838)に、祇園神社が無賃橋の守護神として勧請された。
愛知川宿の氏神である八幡神社の南側で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)として祀られていたのを、彦根藩に申請して遷座された。
「橋神」と鋳込まれた湯釜が残されてあり、7月の祭礼時に使って湯立神楽が奉納される。また、納涼花火大会は、平成22年で129回を迎え、滋賀県最古の伝統を持つ花火大会として知られている。
愛知川宿の冠木門アーケード。ここから宿が始まる。
不飲(のまず)橋
不飲川にある小さな川。江戸時代は水田に小船で通う水路であり、田への用水路であった。
川の由来は、平将門の首をこの川の源、野間津池で洗ったため池の水は血で濁り、不飲川と呼ぶようになったとされる。
一里塚
「岐蘇路安見絵図」には周囲は榎が描かれていて、不飲川橋の南西側に位置する。今はちょっとした空き地に立つ。
明治天皇御聖蹟
明治時代初期。民情視察に明治天皇は北陸道、東山道を巡行された。その際、御休憩所として料理旅館竹平楼を利用された。
料理旅館・竹平楼に玉座が設けられた。天皇巡行については別途記載する。
料理旅館で、現在も営業中である。明治天皇巡行の小休所となった。
つけもの屋(マウマタ)
赤かぶら漬物が有名
脇本陣跡と高札場跡
八幡神社の常夜燈脇に石碑が立つ。
このあたりは八幡神社につづく町並みが感じられる。
本陣跡と(株)ユニックス旧本社
もとは近江銀行愛知川支店として建てられた建物。愛知川流域で現在残る戦前に竣工した唯一のコンクリート造の建造物である。
内部には金庫や営業室の高い天井の後が残る。
書状集箱
珍しい黒いポストがポケットパークに置かれている。明治4年に作られたものと同じ形である。他のポストと同じ扱いである。
ここで右に折れて町道(愛知川ー栗田線)を進む。近江鉄道線路や新幹線下を通り過ぎる。町役場もある。近江上布伝統産業会館
通りに面して右側に建つ。現在保存のための活動が展開されている。
大正11年(1922)に愛知郡役所庁舎として建てられた。
愛知川てんてまり館・図書館
まるいびんに収められた不思議な「びん細工てまり」。数あるびん細工工芸の中でも、びん入り手芸の巧みさと手まりの雅やかさがあいまって、優雅で神秘的な雰囲気を漂わせている。
深い森の中に根を生やした社殿。名前通りのゆたかな寺域である。
再度、中山道へもどる。蓮泉寺・井上神社
御菓子司しろ平老舗
創業1864年(慶応元年、幕末の新撰組 京都寺田屋事件の頃)中山道宿場町にて外郎、他、本発酵の甘酒饅頭を提供して早や百四十余年、 歴史、時代とともに味覚の変化に対応しつつ、今日の低甘味時代にふさわしい銘品を創作し販売している。
中宿の街道沿いに建つ料亭である。ここは初代田中源治が文政元年(1818)に近江産の麻織物や蚊帳などの行商を始めた場所である。
“るーぶる愛知川”愛知川駅コミュニテイハウス
伝承工芸品や郷土物産、観光情報などを集めた情報発信基地として、町の小さな美術館としての機能を持つ。
宿の冠木門
河脇神社・勝光神社
沓掛遺跡
圃場整備事業の際に建物柱穴や土師器、須恵器の破片が多数出土した。中には墨書のある土器も含まれ「沓掛遺跡」とされた。
沓掛は中世期、近江守護の佐々木氏の勢力下にあり、「沓掛商人」として歴史上に登場する。
八風街道を往還して伊勢地方と交易を行った。いわゆる「保内商人」を輩出した。
北の地蔵
昔は堺町までが神崎郡愛知川村で中の橋川を堺として愛知郡中宿村となっていたため「郡分の地蔵」とされた。
地蔵堂前に愛知川宿入口の碑が建つ。
沓掛の交差点を左に進むと藤居本家と大隴神社(だいろうじんじゃ)がある。長野東地蔵堂
堂内では、後半部が仏壇・厨子となっており、地蔵尊は地面に石を重ねた上に立っている。地蔵堂はこの地蔵尊の覆屋である。
紅梁や木鼻、蟇股、厨子の彫刻もよく、小粒ながら質の高い遺構である。堂の周囲には多くの地蔵が祀られている。
光沢寺
表門は安土?見寺旧門を移築したものとされる。薬医門の形式をとるが、もとは棟門であった。
この様式の遺構は、新薬師寺東門(重文)、近江では東近江八木町の春日神社神門(重文)がある。
中世の楼門の姿を伝える貴重な遺構である。
大隴神社(だいろうじんじゃ)
町の北部、静寂の中ひっそりと建っている。祭神は伊邪那美大神、相殿四柱。大門、長野、三ケ村の産土神。
古くは大領(だいりょう)神社と呼ばれていた。
大領とは古代の郡役所の長官のことで、ここには古代の郡長官が奉祀されている。
境内の静けさが心に染み入る神社である。藤居本家と向かい合わせに建っている。
文献
中山道に戻り沓掛交差点を直進すると、徒歩15分、距離1.2kmほどで宇曾川となり、歌詰橋を渡ると豊郷の町中に入る。
木曽街道六拾九次之内 恵智川 広重画
恵智川宿の南を近江国第一の大河恵智川が西流していた。この川の北岸から南岸を望んだのがこの絵である。
遠方左に見える山が観音寺山であろう。恵智川のかかる橋は、恵智川宿の町人成宮弥次右衛門画藩主に申し出て他の4人の同士とともに3年の歳月をかけて天保2年(1831)に完成したもの。
彼らは慈善のためとこの橋の通行料を無賃にしたため「無賃橋」と呼ばれた。
橋の袂の標柱には「むちんはし はし銭いらず」と記してある。
参考資料《近江愛知川町の歴史、中山道、総覧日本の建築、近江の文化財教室、ほか》
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