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滋賀県大津市 膳所

Zeze,Otsu city,Shiga

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 重要文化財も散在している
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Apr.2011 中山辰夫

旧城下町・膳所を歩く(旧東海道)

天皇の台所・仮宮・本多公の城下町、由緒ある古社寺、多くの逸材!豊かな歴史と文化に彩られた膳所。

当地の歴史は古く、多くの旧跡に恵まれている。

数年前にも、聖武天皇が東国行幸の際に使った仮宮の一つである頓宮(とんぐう)跡が発見された。

静かな琵琶湖の岸辺と、背後に連なる山々に挟まれた細長い町・膳所。中央には東海道が通っている。

かつて当地に滞在していた芭蕉は、“四方より花吹入て鳰の海”と詠み、その石碑は今も岸辺にある。

それら歴史の跡をたどって散策する。

城下町の町並みは明治期にもほぼその姿をとどめていたが、明治18年(1885)内堀内の旧家老屋敷など1万8千坪の土地に大津町から刑務所が移建されたのをはじめ、明治30年(1897)遵義堂跡に県立膳所高校が開校するなど近代化が進んだ。刑務所はなくなり一帯は高層マンションとなっている。

城下の面影を求めて散策する。起点はJR膳所駅である。

膳所という地名

平安時代、瀬田の橋本から膳所一帯は、朝廷に淡水魚介類を納める御厨(みくりや)に指定され、「粟津橋本供御人」(くごにん)と呼ばれ漁業に従事していた。鎌倉時代には京都に魚鳥の商人として進出していた。

この供御人集団が信仰していた祖神が粟津神社と考えられ、その役務から後の「膳所」の地名が生まれたとされる。

竜が丘俳塚

市指定史跡

国道1号線バス停マツダ前付近の小高い場所にある。

芭蕉の高弟内藤丈草は晩年に義仲寺領の山林であった竜ケ丘に仏幻庵を営んだ。ここは元禄16年(1703)丈草が芭蕉追悼のため経塚を建てた所で、支考・正秀・蝶夢らの蕉門の供養塔二十基ほどが、まるで句会を開いているような配置で並んでいる。これだけ蕉門の俳人が一堂に会して眠っているところは他にはなかろう。

義仲寺 

国指定史跡

大津市馬場一丁目

旧東海道に面して建つ。芭蕉の墓が木曽義仲の墓と隣り合わせに残る。

北総門碑

急騰街道に沿って進む。義仲寺のある旧番場村境に北総門・西総門と呼ばれる大津口総門と番所が置かれた。

この辺りは船町と呼ばれ、膳所城築城に伴い御蔵御用の船頭が集住したとされる。

桃源寺

大津市西の庄

西の庄は船町の東に続く町で、街道の両側に社寺が並び建つ。桃源寺もその一つで、臨済宗永源寺派に属し、明和9年(1772)幕府の医者吉田桃源の開基とされる。

石座神社

膳所城下の西の入口付近、旧東海道の町並みの中に北面して鎮座。本殿は国重要文化財 一木造の坐像4像国重要文化財

大津市西の庄

北向き地蔵

膳所では辻々にお地蔵さんが祀られている。北向き地蔵は、遠くから子どもへの願い事のために大勢訪れるお地蔵さんとして知られている。昭和5年(1930)に道路の向かい側から現在の場所へ移されたが正治2年(1200)ころから、このあたりにあったと伝わる。

響忍寺(ごうにんじ)

大津市西の庄・木下町

真宗大谷派 本尊:阿弥陀如来

もと膳所藩家老村松八郎右衛門の屋敷で大砲を据える台場と防塁が築かれていたとされる。

膳所城築城に伴い付替えられた相模川は堀の役目を持ち、当町(網町)が大津方面からの攻撃の防衛線であった。

響忍寺が家老屋敷に移されたのは享保18年(1733)で、現在も風格のある長屋門が残る。

和田神社

大津市木ノ下町

膳所高校東方の旧東海道筋の街中にある。本殿は国指定文化財。イチョウの巨木が目印である。

縁心寺

浄土宗知恩院派 膳所藩主の菩提寺

寺伝では、当寺はもと栄泉寺と呼ばれ、初代藩主戸田一西が膳所城築城後の慶長7年(1602)に創建した。

当時の城下には瓦葺の建物がなく、「瓦寺 かわらでら」と通称されていた。

藩主本多康俊が愛知県西尾から移したもので、康俊の実父、酒井忠次の法号から縁心寺と名づけられた。

本堂裏には初代藩主戸田一西の墓や歴代藩主の墓が並んでいる。

当寺には戸田一西の木像や本多康伴の画像など、膳所藩関係の資料も多く残されている。

六体地蔵

相模川の川沿いに立葵紋のお堂がある。このお堂はもともと膳所藩のお椀倉であったとされる。

その中に300年以上昔からここにあったといわれる六体地蔵が祀られている。

また、お堂の前の石橋も膳所城廃城の際に移されたとされる。

遵義堂跡(じゅんぎどう)

大津市膳所二丁目

元の大須賀町。藩の使者役宿を勤めた山形屋や酒・醤油を扱った川津庄兵衛家があり、侍屋敷が続いた。

遵義堂は膳所に招かれて経書を進講していた皆川淇園の勧めで助川清蔵の監督のもとに設立が計られ文化5年(1808)に竣工。文武両教場で、学問所では習字・素読・講釈。習礼・算術などが教授された。

現膳所高校の校庭隅に膳所藩遵義堂の碑が建つ。

遵義堂図

明治33年(1900)に発行された「旧膳所藩学校遵義堂之図」。

正面の建物には「遵義堂」の額が架けられ孔子を祀った。右隣が手習場で左の蔵は文庫。その前は演武場

校地記

遵義堂の旧跡を示すため、明治40年(1907)建立。碑文は杉浦重剛の撰になる。

その学校敷地からは、奈良時代に聖武天皇が東国行幸の際に宿泊した頓宮跡が発見された。

平成14年(2002)の敷地内の発掘調査で見つかった。東西約20.8m×南北約11.9mの巨大な掘立柱建築跡で、柱を据える穴はおよそ1.6m四方、深さ1.1m以上もあった。床面積は247.5㎡にも及ぶ。

現在、遵義堂の門は、和田神社の表門として残されている。

清徳院

浄土宗 準別格六等 本尊:阿弥陀如来(国重要文化財) 膳所三十三所霊場、第31番札所

清徳院の山号達磨山は、達磨堂安置の聖徳太子作との伝承をもつ木像達磨像に由来する。

往古は近江国分寺の別所として繁栄、中古は達磨堂だけの草堂となったが、膳所の土民の間で尊崇された。

元禄10年(1697)に、藩主本多康慶が本多忠俊(膳所藩初代)の室、清徳院の位牌を納め、爾来、清徳院と改称。

本尊阿弥陀如来は、古より霊験あらたかで人々の信仰を集め続けている。

無縁仏を祀っている辺りに、イチョウの大木があったとされる。

寺宝

本尊阿弥陀如来木像(国重文)・-恵心僧都一刀三礼の霊像・達磨大師木像(聖徳太子作)・善光寺如来・柳谷観世音尊像軸

西国三十三所観世音御分身・その他、多数あり。

膳所神社

正面の門は膳所城の本丸大手門で重要文化財。

北門も膳所城の城門である。現在の膳所市民センター横に小さな祠が祀られている。

大養寺

膳所の六門(長屋門)の一つが残されている。高禄又は由緒ある武家屋敷等の門で膳所城の門とは別にされている。

文応元年(1260)に開基された浄土真宗仏光寺の末寺。

膳所市民センター

膳所城を意識して建築された。膳所城資料室があり、膳所城に関する企画を開催している。

膳所城跡

今は公園になっている。

亀屋廣房

京菓子司 亀末廣の別家としてのれん分けして膳所で茶席菓子、湖国銘菓を作って販売している。店の屋号は「かめやひろふさ」。

木曽義仲の家来今井兼平公ゆかりの兼平餅を販売している。芭蕉も食したといわれている粟津三軒茶屋の兼平餅である。

安昌寺(あんしょうじ)

大津市膳所一丁目 曹洞宗

寺の山門の屋根に鯱があり、両脇に竜、屋根の宗瓦が波と、大変変わった作りになっている。

慶応元年(1856)膳所城事件に連坐した11烈士の中、4烈士がここで切腹して葬られています。

幕末に起きた膳所城事件は、藩内の尊皇攘夷の武士たちが、天皇の大和行幸に随行するべく藩主に進言したが受理されず、また攘夷先行の建議を幕府に提出も失敗に終わる。そんな中、藩の重職にあった安田正経ら11人が、将軍家茂の暗殺企ての嫌疑をかけられ捕まった。藩は幕府に勤皇派を否定するため4人を切腹、7人を斬首した。

明治維新後、11人は膳所藩十一烈士と呼ばれるようになった。

篠津神社

表門は、膳所城の北大手門だった高麗橋で重要文化財である。境内には樹齢400年といわれる大ケヤキがある。

蘆花浅水荘と庭園 

国重要文化財 

明治、大正、昭和にかけて活躍した日本画家 山元春挙が晩年を過した別邸で、多くの名作が生まれた。

粟津神社

大津市中庄一丁目 小祠だが膳所の総社として信仰されている。

祭神は大国主命・大導寺田端之介・田中恒世。後者の二神は、同地開発の祖神とされる。

田中恒世は漁業の祖神で、八柳浜(やつやなぎはま 下坂本)沖で漁の最中、大和国から三輪明神が船中に降臨。

恒世は、明神に粟飯を献上し、唐崎の松まで送ったとされる。

この伝承から、現在も毎年4月の山王祭には、日吉7社の神輿に唐崎沖で「粟津の御供」を献上する行事を行うが、 その行事を行うのは、粟津神社を総氏神と仰ぐ膳所の人々である。写真は粟津御供の献上船

膳所焼美術館

膳所焼は膳所藩の御用窯として知られたが江戸中期には衰退した。その伝統技法を復活させたのが岩崎健三である。

窯は、庭内に膳所の名所陽炎池(かげろう)があったことから、山元春挙により陽炎園と名づけられた。

膳所焼は茶器としてよく知られ、遠州七窯の一つに数えられている。

膳所焼き美術館では、岩崎健三の技法を受け継いだ岩崎新定の茶器の展示や販売が行われている。

資料-膳所焼 滋賀県教育委員会発行

若宮八幡神社 

表門は市指定文化財

膳所城の犬走り門を移したと伝える。一見して城門であったことがわかる。

杉浦重剛旧宅

京阪電鉄瓦ケ浜駅から南へ200mほどのところにある。この旧宅には、氏の号「梅窓 ばいそう」 にちなんで、表の庭に紅梅・白梅の枝が塀越しにある。明治・大正にわたって、わが国の教育者として有名であった。膳所藩の儒学者で、遵義堂の教授杉浦重文の次男

として生まれた。邸内には重剛が生前使用していた粗末な勉強机が残っている。

本多神社

歴代藩主をお祀利子、神社の紋は本多家家紋の立葵となっている。立葵の紋は膳所城ゆかりの門や建物などの瓦に使われている。

境内は膳所藩主の別邸として江戸時代初期に営まれた瓦が浜御殿に当たっており、その一角に僅かに庭と池が残されている。

本殿は一間社流造

境内には社殿の他に、浜御殿址の碑や顕彰碑がある。

膳所藩資料館には、膳所藩ゆかりの遺品や資料が収納され、展示される。

子授かり地蔵

本多神社境内地には、4世紀頃のものといわれる2基の古墳がある。

広鶴稲荷の小山の裏側には、古墳の石棺を立てた厨子にお地蔵様が祀られ、子授かり地蔵と呼ばれ信仰を集めている。

今井兼平の墓

JR石山駅西口より徒歩5分

基礎義仲の武将、義仲とは乳兄弟であった。粟津合戦のとき、義仲と最後まで戦い、義仲の討死をみて、兼平は口に刀を含み馬から飛び降り自害したと伝えられる。

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