MONTHLY WEB MAGAZINE Apr. 2013
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トピックス
たまには頭の体操を。久しぶりに場所当てクイズ (No.8〜No.10)を作ってみました。家族総力でトライしてみてください。
ご意見をお待ちしています。
難しすぎますか?
場所選定の好みは?
教科書に出た場所限定が良いですか?
他のクイズが良いですか?
3択クイズとか?しりとりとか、連想ゲームとか?入試問題とか?
今年は関東以西は桜の開花が早かったのですが、そのせいか京都に来る団体客が少し少ないような気がしたので、本気で桜を撮影しようと思い、いろいろ回りました。
桜の撮影は難しく、特に建造物と桜を一緒に撮影する場合は、どうしたらいいかわからない状態になりましたが、なんとかまとめてみました。
写真の調整がまだなので、本投稿は少し後になります。
不二桜は元は岩手県盛岡市の旧家に植えられていたものですが、三重県の造園家が引き取って育てていたのを平成18(2008)年に東寺に移植したものです。
五重塔の大きさが目立ちます。
斎王桜(紅枝垂)はまだ早く、御所桜は満開でした。
西陣
大報恩寺の阿亀桜は見ごろが過ぎていました。
立本寺は満開で近くの老人施設からお花見に来られていました。
平野神社は少し早かったですがすごい人出でした。
夜桜
山科の桜
西本願寺山科別院はライトアップ直前の夕方訪れました。
大石神社の神木、大石桜は満開でした。
毘沙門堂の般若桜、山科疏水の菜の花とのコラボも満開で美しかったです。
高瀬川
京都一の歓楽街、木屋町通の高瀬川も桜が美しいです。
渡月橋近辺の桜よりも、山肌を染める桜の方が好みです。
池の堤が桜に覆われます。
平安郷
広沢池のほとりにある世界救世教の施設で、桜とモミジの季節に一般公開されます。
今年は残念ながら、桜が盛りを過ぎていました。
高野川
送り火の「法」や比叡山がバックになります。
散りかけできれいでした。
半木の道
府立植物園西側の賀茂川土手に紅枝垂れのトンネルが作られています。
言わずと知れた「花の寺」、境内が桜の花で覆われます。
春の嵐の直前に訪れました。
多くの人が訪れ、すごい行列ができましたが、雨が残念です。
自宅からほぼ5㎞しか離れていませんが、本気で桜を見たのは今年が初めてです。
参道、三宝院、五重塔
霊宝館の敷地の大ぶりの桜群は、醍醐寺の中でも一番の見どころだと思います。
特に、本館北側の枝垂桜は、木にはかわいそうですが幹近くを通路が通っていて、下から垂れ下がった枝を見上げることができるので、お勧めです。
6日早朝、嵐の前ですが、高野川には花筏ができていました。
4月8日は子供の入学式なのですが、6日、7日の強風で、盛りになっていた大部分の桜が早くも終わりになり、すごく寂しいです。
四月に入って早々に富士山と観桜の旅に出ました。
二日間の内、最初の一日は雨。荒天ですとシャッターを押す回数も減り
濡れながらの観桜はいささか厳しいもので、昼にいただいた蕎麦が絶品だったのが唯一の救いでした。
でも、二日目は快晴、この日に富士山のビューポイントを回る計画がドンピシャで
最高の富士山を見ることが出来ました。
まず身延山久遠寺奥ノ院からの富士山です。
ロープウェイで上がった奥ノ院の展望台から雪をかぶった上部だけをのぞかせている富士山です。
残念ながら、久遠寺の桜は大半が葉桜で今年の速い開花に翻弄されました。
久遠寺から本栖みちをたどって本栖湖へ、中之倉トンネルを抜けると眼前に広がるのがこの景色です。
皆さんご承知の通り、千円札の富士山です。冠雪の様子もまさにピッタリ、上の画像を比べてみて下さい。
逆さ富士が写っていないのがくやしいですが、他は完璧です。
次は精進湖他手合浜からの富士山です。
大室山と重なり、子抱き富士と言われる富士山です。富士五湖湖畔でも絶景の富士山が見られるポイントです。
少し、富士五湖湖畔から離れても美しい富士山が鑑賞できます。西湖いやしの里根場です。
ここ根場には昔、茅葺の集落があったようです。それを復元したのがここ、西湖いやしの里根場です。
茅葺屋根越しの富士山もなかなかのものです。
最後は河口湖大石付近からの富士山と桜です。
初夏にはラベンダーと富士山が楽しめるところですが、桜の時期も多くの絶景のある場所です。
今回は天候の関係から忍野や富士宮からの富士山を見ることができませんでした。
富士山をぐるりと一周してカメラに収めるのが夢でしたから、少し残念です。
でも、美しい富士山に多く出会えとても感動しました。
やはり、日本人は富士山が好きなんです。もうすぐ世界遺産にも指定されるのでしょう。
世界中から観光客が集まることには、いささか複雑な気分でいます。
■■■■■ 185年ぶり「算額」奉納 園城寺(三井寺) 中山辰夫
3月24日、さくらには少し早い三井寺に出かけました。
お目当ての一つは、同志社中学(京都)の生徒約900人が作成し奉納した額や絵馬の「算額」302枚を見ることでした。
「算額」は、3月15日に奉納式が行われ、金堂内に掲げられ参拝者に「問い」を投げかけています。中学生が懸命に考えた難問ばかりです。
同志社中学では授業で「和算」を教えているとのこと。「文化としての数学を知ってもらい、数学への興味を深めてもらおう」との思いが込められています。
会場には、江戸時代の算題が現代語に訳されて掲示されていました。
算額は江戸時代に学業上達を祈願して行われた風習です。(ウイキペデイアに詳しい説明があります)
三井寺に算額が納入されたのは1828(文政11)年。現在は観音堂の内陣に掲げ保管、管理されています。
今回の奉納はそれ以来で、185年ぶりとのこと。生徒の絵馬は約1年間、同寺で展示され、良問とされた数枚は永代奉納されるようです。
いつもは得てして見過ごしがちな絵馬堂。その歴史経緯や内容について知る機会となり、今後は目を配るべしと教えられました。
参考として、情報に基づき資料をまとめました。
各地に結構な数の算額が残っているようですが、残念ながら剥げ落ちたりで解読不明なものが多いようです。
■日本最古の算額は星宮神社にあります。
佐野市大蔵町
天和3年(1683)仲夏 村山庄兵衛吉重 奉納 180×90cm 現在最古であるが昭和50年の失火により半分黒焦げで判読不能となったようです。
昭和58年、新村健吉氏が復元したもの(栃木の算額 松崎利雄 筑波出版)
■重要文化財指定の算額が八坂神社にあります。
京都市東山区祇園町
絵馬舎
御香宮神社の算題の解答額とされる算額。
元禄4年(1691) 長谷川鄰完 奉納 93×123.5cm
昭和50年に日本数学史学会近畿支部が復元したもの([近畿数学史学会著]大阪教育図書 1992)
■ 御香宮神社の算額
京都市伏見区御香宮門前町174
絵馬殿と算額
桁行4間、梁間2間、切妻造の建物。1755(宝暦5)年建立。
復元算額
八坂大社にある算額の遺題とされるが現物は現存しない。復元額は1955(昭和30)年に日本数学史学近畿支部が製作した。
■ 北野天満宮
京都市上京区馬喰町
絵馬所
完全な形で現存する日本最古の算額
1686(貞亨3年) 今西小右衛門重之 飯田武助正成 奉納 95×190cm
昭和57年 松崎利雄氏発見 山本了三,吉田柳二氏調査
算額の上に別の絵馬が画かれ,その絵具の剥落した部分から算額の一部があらわれている。
参考文献:近畿の算額[近畿数学史学会著]大阪教育図書 1992
目にできる算額
1683(天和3)年 山本信 奉納。1975(昭和50)復元
その他の現代版絵馬
■ 伊佐爾波神社の算額 愛媛県指定有形民俗文化財
松山市桜谷町
算額
伊佐爾波神社には、22面の算額が残っており、享和3年(1803年)を最古に、江戸時代後期から明治年間のものが多い。
一社に多数の算額が集中的に現存しているのは、全国的にも例のないことである。
この神社の算額は、関考和(〜1708年)が考案した関流数学であり、愛媛の和算発達史を知るうえにも貴重な文化財である。
(松山市HP参照)
引越しも大方片付いたのであちこちに出かけている。
福岡に住むのは50年ぶりになる。知らないところだらけだ。
3月の末には教わって大授搦(だいじゅがらみ)という干拓地の干潟に渡り鳥を見に行った。
有明海沿岸の佐賀県部分にあたる場所だ。
干満の差が6mにも及び古くから干拓が行われていた。
干拓には干潟に杭を打って土を絡ませて堆積させる手法が用いられており、江戸時代にはこれを担当した役人を(特に佐賀藩では)搦方(からみかた)とよばれたことから、干拓地のことを搦と称するようだ。
大授搦の最後の干拓は1934年で現在の海岸には江戸時代の名残はない。
一直線の海岸線の向こう側に広大な干潟が広がっているだけだ。
潮が満ちてくると沖にいた鳥も次第に海岸に寄ってきてみやすくなる。
ハマシギの大群に前後してホウロクシギ、ダイゼン、ダイシヤクシギ、チユウシヤクシギ、ズグロカモメ、クロツラヘラサギなどの群れが動きまわっている。
関東ではあまり見かけない姿もあってただただ見入ってしまう。
浜を潮が覆うようになると直ぐに足元に海水が寄せてくる。
慌てて堤防の上に逃れる、緩やかな津波のようだ。
干拓に伴う干潟は人の手が関わっている。
人と自然の関わりが里山のようで影響を及ぼし合いながら共存している。
人も自然の一部だからこの様全体が自然そのものの姿なのだろう。いい眺めだ。
それにしても春は忙しい。仕事もおしまいになって住むところも変えてのんびりするかと思っていたが、引越しを終えても結局去年春と同じように又はそれ以上にあちこちに走り回っている。
そんな風な生き方からはどこへ行っても逃れられないような気もしている。
■■■■■ 看板考 「ラモナー化粧品」 柚原君子
東京都墨田区東向島1丁目「鳩の街商店街」の中にある看板。
石田香粧(大正4年に石田佐一商店として創業)株式会社が1925年にラモナーブランドとして立ち上げたもの。
「ラモナー無鉛白粉」として発売。
桐箱を使用したパッケージは当時の化粧品には珍しく、これが若い女性から大変な支持を得た、とものの本にはあります。
鳩の街商店街は前身が赤線地帯でしたので、女性も多かったことを思えば、とぶように売れた化粧品だったかもしれませんが、この地域の経済水準を考えると桐箱入り白粉化粧品が一般女性に飛ぶように売れたとは想像しにくいです。
それゆえこの看板がこの地を物語っているようで感慨深く眺めました。
石田佐一商店はラモナー化粧品を発売するとともに「ネギシポマード」も発売していました。
ポマードは「柳家ポマード」が有名で私の父も使っていました。
ギトギトした油を頭に塗りつけているわけですから、今から思うとあまり清潔感がない状態ですが、シャンプーも良いものがない時代で男性は洗った髪がパサパサになり始末に困った人が多く、ポマードが重宝されたそうです。
現在ポマードは老齢の男性が使用しているくらい。
電車の中で稀ですがポマードの香りが流れることがあると、ついつい父の姿を重ねて探してしまいます。
■■■■■ オジサンの写真、主として昭和5年〜13年 野崎順次
オジサンと云っても実はオトーサンである。
晩年、子供がなかったので、私たち夫婦と養子縁組したからだ。いわゆる、「墓守り養子」である。
しかし、ただの墓守りではない。水道のない丘の上に祖先のお墓が13基もあるので、彼岸や命日の掃除が大変である。ヤブ蚊もすごい。
オジサンは8人兄弟の6番目の長男として、明治45年、備前国味野村(現岡山県倉敷市)に生まれた。
5人の娘に続く初めての男の子だったから大切に育てられた。
家は歴代特定郵便局長であった。
早くして母と姉一人を結核(当時は死病)で失った。
昭和5年に慶應に入学しているが、その頃から、カメラに凝ったようで、家には暗室もあり多くの写真が残されている。
戦前の写真をたどってみよう。
明治45年2月29日生まれだから、3歳とすると大正4年くらい。
大正10年あたりの家族全員写真、三角の中で10歳くらい。お母さんもお姉さんも全員揃っている。
昭和5年1月、19歳、純朴清廉な男前に見える。
昭和5年8月、慶應に入学した年の夏、鎌倉らしき所で何と水上スキー。山スキーの技術は高く、岡山県代表で国体出場した。
昭和7年3月、21歳、慶應時代とあるが、どうも卒業はしていない。東京で遊びまくったらしい。
昭和7年6月、21歳、銀座松屋ルーフ(屋上)で清水隆三郎氏と。「東京会館時代」とあるが、東京会館にどう関わっていたか不明。
スペインギターがセミプロ並みだったそうだ。白神良雄氏撮影。
昭和9年4月、23歳、酒津花見、山本美喜夫氏、大塚保男氏。白神良雄氏撮影。
昭和11年夏、六口島と百面相(芳ちゃん、オジサン、祐ちゃん、浩一)。
昭和12年10月初旬、26歳、未教育兵訓練最後の日。
昭和13年7月初旬、近くの釜島の「島の家」に海水浴。妹の和さんと友人イトサンの写真は「語らいつつ」という題名。
昭和13年秋、道後山と向島高見山。戒名に「愛山」の字あるように山登りも好きだった。
昭和13年11月5−6日、「塩上、石井、松井と湯原温泉へ」とある。悪友にしてカメラ仲間といったところか。これらの写真はいずれも石井氏撮影。
ギター、スキーに加えて、釣の達人でもあった。
鷲羽山での写真らしい。掌に大槌島を乗せたかったようだが、ずれてしまっている。
そして、しばらくして日本は大東亜戦争に突入することになる。
オジサンにも召集令状が届き一兵卒として戦った。
無事帰還したが、野戦生活が身についてしまったのか、畳の上で寝にくいと土間で寝たという話がある。
私自身がオジサンに兵隊時代の話を聞いたことがあるが、「昔のことはいいじゃないか」と取り合ってくれなかった。
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編集 瀧山幸伸
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