Monthly Web Magazine July. 2015
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トピックス
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■■■■■ 紅花でまちおこし 瀧山幸伸
着物の染色や口紅など、日本文化と関係の深い紅花の話題です。かつては山形県あるいは埼玉県の桶川などで栽培が盛んでしたが、産業としての栽培は途絶えています。
山形県 河北町の旧堀米邸(紅花資料館)は重要文化財に指定されていますが、かつての賑わいはありません。
ですが、紅花を観光に活用する動きは少しずつ広がりを見せています。
山形県では、白鷹町、山形市、天童市で観光向けの紅花栽培とイベントが行われていますので、取材に行ってきました。
紅花はキク科の草で、染色用は棘があります。山形では「半夏の一つ咲き」といわれ、半夏生(はんげしょう:七十二候の1つで、夏至から11日目、新暦では7月2日頃にあたる)を過ぎてぽつんと一輪咲き、その後どんどん咲いて7月末頃まで続きます。
白鷹町では、お堂や鄙びた集落と調和してなつかしい風景が誕生しています。
山形市の山寺の向かい、高瀬地区にも紅花畑があります。
天童市では紅花祭が開催されていました。紅花の押し絵作り、ブーケ作り、くちびる美人コンテストなどです。
■■■■■ 文化財建築物撮影の再開 大野木康夫
春先から文化財建造物に油をかける犯罪が多発(発覚?)し、いらぬ疑いをかけられないように建造物の撮影を控えていました。
模倣犯はいるのかもしれませんが、被疑者が特定されて報道も一段落したので、7月から建造物の撮影を再開しました。
この間撮影していた文化財指定の樹木や棚田も、並行して撮影していきます。
7月12日 西播磨中部
随願寺(兵庫県姫路市)
廣峯神社(兵庫県姫路市)
圓教寺(兵庫県姫路市)
宮内天満神社(兵庫県たつの市)
弥勒寺(兵庫県姫路市)
古井家住宅(兵庫県姫路市)
7月19日 買い物のついでに東本願寺
7月20日 北近畿
日引の棚田(福井県高浜町)
金剛院(京都府舞鶴市)
柏原(兵庫県丹波市)
追手神社の千年モミ(兵庫県篠山市)
日置のハダカガヤ(兵庫県篠山市)
長谷寺妙見堂(兵庫県篠山市)
鴨川の源流として、雲ケ畑と貴船があげられます。今回は雲ケ畑—特に志明院(しみょういん)についての報告です。
「雲ケ畑」は遠い所と承知していましたが、意外や京都市内から30分ほど車で走ると「雲ケ畑岩屋橋」に着けます。
集落の人口凡そ180名、古代から林業中心の山村集落で、平安京造都以前より、出雲氏、小野氏、鴨氏などが村を拓き、惟高親王を供奉する高橋氏、秦氏がこの村に定住したのが村の生い立ちとされています。
山手には、「水源かん養保安林」に指定された立派な杉が林立し、賀茂川の治水に貢献しています。
雲ケ畑は、近世まで朝廷との結びつきが強く、平安京造営にはこの地の木材が用いられたほか、上皇の所領地として、朝廷に木材や鮎などを始めとし、端午の節句には菖蒲を献上する供御人の活動地でもあったようです。
雲ケ畑は賀茂川の水源地であることから、この地が汚染されると、下流の京都御所、ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。そこで、住民はこの水をけがさない生活をしてきました。昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)も他の集落で行っていたようです。
川に沿って家が建ち並ぶ集落を過ぎ、雲ケ畑岩屋橋に到着です。ハイカーとは別に、サイクリングの「ロードトレーニング」をする人が多く度々出会いました。
さて流れは、標高約860mの浅敷ケ岳南部の薬師峠と岩屋山を源流とする雲ケ畑川と浅敷ケ岳東部の谷を源流とする祖父谷川が岩屋橋で合流して雲ケ畑岩屋川となり、次に中津川と出合橋で合流して「賀茂川」となります。さらに下って、貴船からの鞍馬川と山幸橋で合流し、高野川と出町柳で合流して「鴨川」となります。
山間地域であるため、場所により高低差が顕著に見られ、標高は出合橋付近248m、岩屋橋付近306mであり、岩屋山志明院に至っては450mを超えます。
岩屋橋から志明院を目指して歩きます。
惟喬神社
歩き出してすぐ右手にあります。ここは平安時代前期に、皇位継承から遠ざけられた惟喬親王が、隠棲して出家した場所としても知られ、雲ケ畑の村人に慕われていた親王にまつわる話が今も数多く残っているようです。新王については木地師に絡んで、滋賀をはじめ全国的に伝説が残っています。
ここから一本道となります。現在の志明院住職の田中眞澄さんが「3.5㎞離れた村の小学校までの通学はとてつもなく辛かった。鬱蒼とした森から不気味な音が聞こえ、恐る恐る前後左右を気にしながら必死に歩いた。家の明かりがかすかに見えると嬉しくなって全身から力が抜けた」と述懐されている通りの雰囲気です。
住職の話に、「冬は更に厳しく、雪の上の様々な方向に歩く動物の足跡に気持が和らいだが、森には何かがいる、何か怖いものがいるとの思いを感じていた」とあるります。
志明院に到着です。
650年(白雉元年)役の行者が開山、829(天長6)年弘法大師が淳和天皇御叡願により創建されたといわれる。日本最古不動明王顕現の神秘霊峰といわれる。歌舞伎十八番(鳴神)の聖地としても有名とのこと。
現在の住職さん一家・家族5名でここに移って来られたのは1946(昭和26)年、現住職が6歳の時で69年前のこと。当時のお寺は無住。
寺から小学校までの通学の厳しさは既に紹介済みです。当時の境内は深閑としており、自然の響き合いだけ。寺には時折修行者が来て、宿坊を利用して夜間の行も行っていたようです。宿坊は現在止めておられるが、深閑さは今も同じとのこと。
庫裏の前でカメラを含めた手荷物を預けます。境内での撮影は禁止です。
境内図
山門
室町時代に再建。金剛力士は右運慶、左堪慶の作と言われ、現在本堂に安置されています。
鐘楼〜本堂(突き当たり)−パンフレットより引用
梵鐘は藤原国久の作。本堂の本尊・不動明王は弘法大師の開眼。
飛竜の滝−パンフレットより引用
鳴神上人の行場。冷たい水が勢いよく落下、その水圧の大きい事。ペットボトルが弾き飛ばされます。毎朝水を汲みとりに来る人がいるとか。
護摩の岩屋
役の行者、弘法大師諸大徳行法の跡、鳴神上人が護摩行のため籠った所。
自然石を積んで出きた幅の狭い、屈曲した参道を、山へ山へと登って行きます。入山禁止の立札が沢山立ち並び、奥に厳しい行場が続きます。
楼門より奥の地は、岩洞から湧く清水、岩肌を流れ落ちる滝、巨石の護摩洞窟、神が降りる岩窟、岩屋の舞台などがあり、一種独特の異様な雰囲気を感じます。
最奥の根本中院を取囲む大岩の岩肌から落ちる一滴々が鴨川の源流と、思わず手に取って見入りました。
現住職が小学生であった頃、よく訪れたのが司馬遼太郎。
≪参考≫ 司馬遼太郎 「街道をゆく「洛北諸道ほか」より引用
『雲ケ畑というのは洛北三里の山中にあり。一村は古来山仕事で生活している。志明院はかつては平安京の鎮護所の一つで、寺は勅願寺であった。
明治後すたれ、廃寺同然になっていたのを、戦後Tさんが東京の寺から移住してきて特命住職になったのである。
志明院は明治以前は寺格が高く、庶民の賽を拒絶していたために今でも一般との縁が薄い。全山が境内で、峰やがけや谷に行場が多く、山伏だけがこの寺を訪ねるという時代が長かった。要するに山伏の聖地のひとつだが、その山伏でも、Tさんによれば、「よほど行力のある人でなければこの山はこわくて近づけない」ということだそうで、要するにえたいが知れぬ魑魅魍魎(ちみもうりょう)が棲息している、ということなのである。』
司馬遼太郎がこの寺へ足を運んでいた頃は、この寺にはいろんな怪奇現象があったと体験話を結び随筆として書き、発表もされています。
アニメ「もののけ姫」の誕生にも司馬遼太郎の体験話がきっかけになっているとか。
カメラに納めたいスポットの連続です。足元の岩場に足を取られないよう集中して、撮影どころでなかったです。
市内から車で30分ほどの距離の所に、このような世界があることに大変な驚きと感激を味わいました。
参考資料≪街道をゆく 4、遼、他≫
機会あってつい先日、筑後川を大川の若津港から船で下って有明海に至った。
筑後川の下流の景観は漁船があちこちに長い杭につながれていていかにも有明海につながる生活の糧としての筑後川を感じて心和むものがあるが、干潮時に訪れると川の真ん中にセンターラインのような堤が河口に向かって延々と延びている景観が気になる。
デレーケ導流堤と呼ばれている堤という。なんだろうと思うがはっきり解説した説明版には中々遭遇しない。若津港の近くで見つけた説明版やネットで探した情報などを総合するとだいたい以下のような解説になる、ともかくも小さな驚きを感じる。
明治時代にオランダより政府が招聘したデレーケ(1842-1913)の指導で明治23年に築かれた。
若津港はもともと筑後平野の産物の積出港であったが有明海の大きな干満の差と筑後川の運ぶ土砂が河口に向かって土砂の堆積を進行させるため大型船の運行を困難なものとしていた。これを解決すべく造られたのがこの導流堤で、左岸側の流速を早め土砂を押し流し特に若津港のある左岸から下流の流路の水深を確保する役割を担った。この流水堤の建造の結果若津港に大型船が出入りできるようになり明治29年のこの港の貿易額は博多港の2倍にも達したとの記録がある。若津港から下流6.5Kmに亘り設置された導流堤は現在も当初の目的を果たしつつ機能し続けているという。
この導流堤は2008年、土木遺産に認定されている。デレーケという人にも興味をおぼえる。明治6年に31歳で来日、当時オランダは不況で生活が苦しく、条件の良いこの話を上司に誘われて受け入れたらしい。もともと築堤職人の息子として生まれ小学校卒業後家業を手伝っていたがそこで出会ったレブレット氏(後のデルフト大教授)より個人的に教えを受け数学・物理学・力学・水理学など土木工学に関する学問を習得したといわれる。経験と高度な知識を兼ね備えたたたき上げの優秀な技術者として腕を磨いていったようだ。
明治期の土木治水の技術指導はオランダが中心になって指導しておりデレーケと同時期にはエリート技術官僚のエッシャー(だまし絵のエッシャーの父)等も来日している。デレーケは当初3年の予定だったが、同時期に来日した招聘技術者が次々に帰国し地位も上がってきてやりがいを感じてきたのかおよそ30年にわたって日本各地の河川港湾土木事業を指導し続け、砂防の父とも称されるまでになって、日本の河川治水に大きな功績を残している。
著名な成果の一つに木曽川の完全3河川分離事業がありこれにより木曽川の洪水被害は激減した。木曽川の治水は江戸時代末期まで繰り返し幕府をはじめとした多くの努力が注がれてきたが一向に洪水被害は減らない状態が続いてきていた。
デレーケは1903年に日本を去り、上海での黄浦江改修を指揮した後1913年にオランダで亡くなっている。功績により晩年にオランダの爵位を得ているが、日本でその生涯の主要な部分を過ごしたことになる。このような人に助けられて今の日本が成り立っているようだ。
世界遺産となった明治の日本の産業革命遺産に光が当っているが、明治期に日本が急速な近代化をなしえたのは多くの招聘された外国人技術者の指導が的確になされてきたということにも大きく拠っているように思える。こんな遺産も日本遺産または世界遺産の一つに加えるという心が必要かもしれない。
久しぶりに撮影機材にいささかの投資をしました。
今まで使用していたcanon 5DMarkⅡ+EF24-105にSLIK CARBON814EXの三脚で総重4kgオーバー。
さらにTS-E24orTAMRON SP70-300のいずれかを持参するとカメラバッグも含めて6Kg前後を抱えていました。
これでお寺の急な石段を登ることがチョッピリ辛くなってきたのです。
それに気軽に撮影にでかけられる近隣の取材対象はほとんど行き尽したという気分もしていて重い荷物を抱えて取材する意欲を小さくしていました。
その気分を変えるために設備投資をしようと思い立ち、瀧山様にも相談して4K動画の撮影できるLUMIX G7&G VARIO7-14さらにマイク(audio-technica AT9945CM)と三脚(SIRUI T-005BX+C10X)にも投資し、撮影機材の軽量化と動画の音質改善をめざしました。
それが上の画像です。指名手配犯のようですが、四方から撮影してみました。合計重量が2kg少し、従来の半分の重量です。
これで機材の重量問題は解決です。
従来の5DMrⅡがフルサイズセンサーということもあり、マイクロフォーサーズのG7の静止画質が落ちることは我慢するしかありません。
4Kで美しい動画が撮影できることと相殺と考えています。
もう一つ問題がありました。Lightroom5.7がG7に対応していないのです。G7にいうより新機種のカメラにというべきなのですがG7のRAW画像がLightroomで現像できないのです。
もちろん、G7と同梱でSILKYPIXが付属しており、RAW現像ができないわけではないのですが、使い慣れたLightroomが使えないのはショックでした。
諦めきれずにいろいろと調べてみるとLightroomを販売しているAdobeから「DNG converter」という無償ソフトが供給されていてG7で撮影したRAW画像をこのソフトでAdobe特有のファイル形式であるDNGに変換してからLightroomで現像できることが判明。
早速、PCの環境を整え試してみると、DNGへの変換に時間もかからずLightroomでの現像もスムーズでした。
しばらくはSILKYPIXとの併用で画像の良し悪しを見極め、最終的にどちらのソフトを使用して行くか決めようと考えています。
さて、大問題がもう一つ、これらの機材を入手したのが6月末、それからほとんど雨の日ばかりで撮影に出かけられていないのです。
佐原に行こうか、真壁にするか、思いはあっちに行ったりこっちに来たりしているばかりです。
今はただ、おひさまが顔を出して撮影にでかけられる日を待ち望んでいます。
■■■■■大阪駅前地下道の「アリバイ横丁」 野崎順次
最近、大阪市梅田1丁目、大阪駅前地下1階、阪神百貨店周辺の最後の店が立ち退きとなった。阪神百貨店の建て替えや地下道拡幅が始まるからである。串カツで古くから有名な松葉やぶらり横丁の七福神は最後まで抵抗の姿勢を見せて話題となった。それとは別に、いち早くひっそりと消えた地下道名物店の並びが「アリバイ横丁」である。昭和26年(1951)に全国銘菓名物街として始まり、昭和45年のピークには32店だったが、最後には3店残っただけだった。
横丁という呼び方は不自然だと思う。広辞苑によれば、「表通りから横に入った町筋。よこまち。」とある。ここのロケーションは東西を結ぶ地下道で、表通りに近いと思う。だから、アリバイ通りというべきか?
私は小さい頃から梅田によく来ていて、これら全国都道府県のお土産を売る店の前を何度も通った。それぞれの店は幅約3メートル、奥行き50センチ程度で、壁のくぼみである。売り子のおばちゃんは中に座れないので、外(地下道)に椅子を置いて座っていた。土産物に美味いものなしというが、いかにもそういうもので、安価なものが並べられていた。
大阪にいながら全国の土産が買えるから「アリバイ」なのである。大阪のおっさんが、奥さんには広島に出張するといって家を出る。大阪駅で愛人と待ち合わせ、反対方向の熱海にいって熱い時を過ごす。そして、帰りにアリバイ横丁の広島県物産店で「もみじまんじゅう」を買い、必要なら日付をごまかした領収書をわざとらしくポケットに入れ、本妻と子供の待つ自宅に帰るという訳だ。熱海のホテルのマッチなどは決して持ち帰ってはならぬ。
昔、私は一回だけアリバイ横丁で買い物をしたことがある。とはいっても、上記のような事情では絶対にない。断言する。断言します。信じて!その時、どの店で何を買ったか定かでないが、「領収書の日付と賞味期限の日付はいつにしましょうか?」と聞かれたのを覚えている。チョイスできるんだ。
時代は移り、交通機関が発達しインターネットが普及して、アリバイ工作が高度化・巧妙化(あるいは稚拙化)したためか、アリバイ横丁は平成26年(2014)3月29日に完全閉店した。
推理小説やドラマのアリバイ工作にアリバイ横丁が利用されたことはなさそうである。ちなみに、アリバイ(alibi)の語源はラテン語で「他の所」の意。英語でのスペルは同じで、発音は「アラバイ」に近い。
■■■■■ 看板考「交差点の角のたばこ屋さん」 ゆはらきみこ
「交差点の角のたばこ屋さん」、昔はけっこう多かったと思うのですが、最近は小さなちょっとしたところにひっそりと、あるいはコンビニエンスストアに射的場の飾りのように並べられて、番号で売られていたりします。
閉店してから何十年も経つような、ちょっと道路に出っ張っている町のたばこ屋さんの「煙草は心の友」というキャッチフレーズが剥げかけて残っていたりします。
父は「緑」というハッカ系のものを吸っていました。夫はマイルドセブンでした。
まだ保育園だった長男がお金を握らせられて角のたばこ屋まで買いに走らせられていたこともありました。
吸う人よりも周囲に害のある受動喫煙のことも知らされずに、副流煙の中で多くの子育てがあった時代もありました。
やたらに煙草を吸う場面が多いドラマのスポンサーは煙草関連だったりで、やっぱりなぁと思うことも時々あります。
「煙草は心の友」という時代もあったのでしょうに、喫煙者にはちょっと辛い現在になっています。
クール(KOOL)という古い看板が掛かっていたのは、東京都江東区のある交差点の角のもう閉まってしまった煙草店です。
クール(KOOL)はブリティッシュ・アメリカン・タバコ社 (BAT) 製造のタバコのブランド名です。
名前の由来は「Keep Only One Love」の頭文字から『一つの恋を貫き通す』、という意味もあるとかですが、メンソールタバコ系なので本当はCOOLと現したかったそうですが、アメリカでは形容詞を商品名にすることができない為、仕方なくCOOLの頭文字をKにして「KOOL」にしたそうです。
CをKに変えたために入れ込んだ文字が「Keep Only One Love」とは、やはりアメリカは洒落ていると思いました。
右上にある「PIANISSIMO」も煙草の看板で、こちらは葉巻です。
壊れた壁面には公衆電話があったのでしょうね。時代に剥ぎ取られたような跡でした。
私的には絶滅種に認定をしている「交差点の角のたばこ屋さん」でした。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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