Monthly Web Magazine Mar. 2016
伝統的建造物保存地区に選定されている滋賀県の近江八幡市は、豊臣秀次が八幡山城を築城した際に築いた運河・八幡堀、近江商人の邸宅、赤レンガのヴォーリズ建築群の周辺、水郷、などが丁寧に保存され、歴史のある街並みとして訪れる人々に素晴らしい景観を呈しています。
その近江八幡では江戸時代初めから、琵琶湖に堆積したきめ細かな土を使ったいぶし瓦「八幡瓦」の生産が行われており、瓦のもつ美しい光沢が豪商たちに喜ばれたようで、瓦屋根の古い街並みを今に留める役目を果たしてきました。
現在、製瓦所は皆無ですが、八幡瓦の長い歴史を伝える施設「かわらミュージアム」が、八幡堀沿いの製瓦所跡地に設けてあり、過日そのミュージアムで「八幡かわら人形展」が開催されました。鬼師と呼ばれた職人の飾り瓦の展示で、鮮やかに彩色された「浮世絵のおいらん」や「恵比寿天と寿人形」などの展示でした。
近江八幡は近江商人発祥の地で、難行苦行の末に成功した豪商の心のふるさと日牟礼八幡宮(創建 伝131年)や、豪商がこぞってバックアップした江戸時代以降の寺院に、本瓦葺や手作りの飾り瓦が多く残っています。その一つ、円満寺の建物や境内に建つ金毘羅大権現も手作りの飾り瓦で覆われています。
円満寺は、1367年草創、平安時代作の木造十一面観世音菩薩立像(国重文)を本尊とする古刹で、一時衰退しましたが、1757(宝暦7)年頃再建されました。これが現在残っている建物です。織田信長も戦勝祈願に訪れたことがあるようです。
この寺には、「千石船絵馬額」と千石船模型が保存されています。代々続いた近江商人西川伝右衛門(住吉屋)家から金毘羅大権現に奉納されたものです。
初代西川伝右衛門は、僅かな資本で始めた行商から身を立て、1650(慶安3)年、25歳で蝦夷地に渡り漁場の開発を行い、松前藩の御用商までになりました。
奉納した絵馬額には、堺港に浮かぶ住吉屋の所有する6艘の千石船の雄姿が描かれています。(引用:近江八幡の歴史)
現在、社寺で葺きかえられた古い瓦は「瓦礫」となる運命にありますが、この円満寺も相当傷んでいますが瓦礫の運命を辿らないよう願っています。
それら「瓦礫の山」は、日本の歴史を物語る「宝の山」ともいえますので・・・・。
ここで少し瓦屋根について記憶を辿ってみました。
日本の瓦の歴史は崇峻天皇元年(588年)に、僧や寺工と共に四人の瓦博士が百済から遣かわされたことに始まります。
瓦博士は、瓦の成型・焼き上げ・屋根に葺く技術を日本に伝え、飛鳥寺・法隆寺を建立しました。この時点から日本独特の「甍の美」がスタートしました。
飛鳥時代から江戸幕末までの約1300年間は、造瓦の技術・工程に殆ど変化はなく寺院や城を中心に使われてきました。
江戸時代初期の1674(延宝2年)瓦の歴史にとって画期的な考案がなされました。それは、近江大津の瓦職人西村半兵衛による「桟瓦」の発明です。
瓦の葺き方
唐招提寺東室の本瓦葺(唐招提寺東室)、本瓦葺と行基葺(元興寺)、本瓦葺と桟瓦葺(今井町)
桟瓦により明治以降は瓦葺屋根が広く普及し、各地で機械による大量生産の瓦がつくられるようになり、さらに釉薬をかけた色付きの瓦も量産され、黒一色から彩り豊かなものも出て、現在に至っています。
瓦屋根に乗っかっている「飾り瓦」にも時代の変遷があります。種類も多く魅力的です。ここでは触れませんが、ただ一件思い出しましょう。
国宝:唐招提寺・金堂の鴟尾
天平の鴟尾(1400年間風雪に耐えました)が最古で、平成の大修理で2009年に平成の鴟尾にバトンタッチしました。(引用:唐招提寺)
残念なことですが、「棟飾瓦—飾り瓦」の手作りができる鬼瓦師の数が、最大の産地・三州でも激減しているようです。
日本独自の「甍の波」の景観。その中のシンボルである鬼瓦を含めた手作りの飾り瓦。—その独特の姿を、瓦礫となる前に見直しておくことも大事かと思います。
記憶に残る瓦屋根
(国宝:法隆寺・金堂)、(国宝:元興寺・極楽坊本堂と禅室)、(国宝:富貴寺・本堂)、(国宝:霊山寺・本堂)、(重文:東福寺開山堂)、(国宝:東寺金堂)、(国宝:東大寺周辺)、(特別史跡:旧閑谷学校)、(国宝:宮島周辺)、(重文:道後温泉周辺)、(伝統的構造物群保存地区:倉敷周辺)(伝統的構造物群保存地区:今井町周辺)
終わりがないので止めます。