JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine July 2018

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■■■■■ Topics by Reporters


■ 絶景とジオパーク 何が違う? 瀧山幸伸

絶景、秘境、パワースポットという言葉が独り歩きしている。いずれもジオと関連が深い言葉だ。

定義も評価基準もはっきりしていない非科学的な言葉だから使うのは極力自制している。

観光地には様々な権威付けがある。某タイヤメーカーの「星」に認定されたとか、某ネットサイトで何位に入ったとか、外国人が選ぶベスト10とか、テレビや雑誌で紹介された、などなど、首をかしげる事例もあるが、評価基準が違うのだから外野がとやかく言うことではない。

権威付けの極みの一つはユネスコ世界遺産だ。同じユネスコの管轄で世界ジオパークというものがある。

現在、日本には43のジオパークがあり、そのうち9がユネスコ世界ジオパークに認定されている。

 日本ジオパークネットワーク http://www.geopark.jp/ 

国内のユネスコ世界ジオパークの例

 北海道 様似町 アポイ岳 

Mt.Apoi,Samani town,Hokkaido  

 
 
 北海道 洞爺湖町/壮瞥町 洞爺湖 

Touyako,Touyako town/Sobetsu town,Hokkaido

 
 
 

  新潟県糸魚川市 小滝川硬玉産地、高浪池

Kotakigawa jade,Takanamiike,Itoigawa city,Niigata

 
 
  新潟県糸魚川市 蓮華温泉 

Renge onsen,Itoigawa City,Niigata

 
 
 
 
  島根県 西ノ島町 摩天崖、国賀浜

Matengai/Kunigahama,Nishinoshima town,Shimane

 
 
 
 鳥取県岩美町 山陰海岸

Sanin coast,Iwami town,Tottori

 
 

 高知県室戸市 室戸岬

Muroto misaki,Muroto City,Kochi

 
 

 長崎県 雲仙

Unzen,Nagasaki

 
 

  熊本県小国町 鍋ケ滝

Nabegataki,Oguni town,Kumamoto

 
 

  静岡県下田市 田牛

Toji,Shimoda city,Shizuoka

 
 

選ばれた地は、よく言えば通好み、どちらかと言えば一般観光客受けしない場所を多く含む。

地元自治体は観光産業に期待しているのだろうが、現地の整備や地域博物館などと連携した情報発信やプログラム作りは遅れている。

通常の観光旅行では飽き足りない人には興味深いかもしれないが、お気軽団体旅行で行こうものならブーイングと事故が心配だ。

だが最近では有名タレントを起用したジオ関連TV番組が人気を呼び、地域おこしの機運が盛り上がっている地元もある。

ジオパークは自然地理だけを連想するが、人文地理も含まれるので、文系の人も楽しめるはずだ。

ジオパークはもちろんのこと、日本のジオ関連サイトには絶大なポテンシャルがあるのに、もったいないことだ。

Japan Geographicはその名が示すようにジオとは関係が深い。

森羅万象を扱う地理学的見地で、各地の価値を豊富な写真や動画を駆使し総合的に紹介するのがJapan Geographicのミッションの一つだ。

Japan Geographicでは、ジオ関連地については、文化庁の「国指定文化財等データベース」を選定基準の一つに据えている。

 国指定文化財等データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/ 

具体的にはデータベースにあるジオ関連の天然記念物、名勝、文化的景観、重要文化財、民俗文化財などを対象地の選定基準として現地調査を行ってきた。

文化財は地元教育委員会所管の調査報告書を基に選定されるので、学術的には最も権威があるはずだから、学術的価値のブレが少ないだろうと。

ところが、予算がないのだろうか、データベースには情報が少ない。明治のカナによる数行の文章が記載されていたりなど、調査報告書のごく一部の抜粋であり、画像はないかあっても貧弱で、動画はない。

国指定文化財等データベースを一般向けにわかりやすくしたサイトが、同じ文化庁の「文化遺産オンライン」だ。

 文化遺産オンライン http://bunka.nii.ac.jp/

だが、予算を使っているだろうことは想像が付くが、使いにくいことと、画像や動画の資料が貧弱なことに変わりはない。地方の文化財情報も閲覧できるようにはなっているが入力は進んでいない。

ネットでは調査書など参考資料を閲覧できる機会に恵まれないことが多く、地方の文献は都会の図書館でも見つからない。国会図書館でも手に入らない場合がある。

最後の手段は現地の博物館や資料館などで学芸員とコンタクトするしかなく、とにかく現地調査の前提となる関連資料を入手するのは苦労する。

Japan Geographicは社会教育的見地で、どのデータベースよりも詳しくわかりやすく、長期安定的に情報提供を継続したいと願って15年ほど活動してきた。

天然記念物に指定されたジオ関連サイトのカバー率も100%に近づいたが、完了かというとそうではなく、最初の下見が終わったようなもので、内容を進化洗練させるにはあと百年程度かかるだろう。


■ 大杉谷紀行 大野木康夫

紀伊半島には素晴らしい滝がいくつもありますが、岩屋谷、双門の滝など、一部の滝は登山上級者でないと見ることができないところにあります。

その中で、登山未経験者がなんとか近づけるのが大杉谷の滝群で、滝の写真を撮るようになってからずっと行きたいと思っていたので、長期勤続休暇を利用して梅雨の晴れ間に訪問しました。

大杉谷の難所は堂倉滝と日出が岳の間の急坂区間なので、三重県側からの1泊往復で行けるところまで行くというつもりでの訪問です。

京都を出たのが4時前、天気予報では2日とも晴れ予報でしたが、途中、鈴鹿峠ぐらいから雨模様となり、大宮大台インターチェンジで降りたのが6時前、まだ小雨模様の天気で、登山口に着いたころにようやく雨が止みました。

 

雨模様の大杉谷に欠かせないのはヤマビル対策なので、ジャージのズボンを靴下の中に入れ、接合部から下すべて、トレッキングシューズを含めて忌避剤を吹きかけてから出発しました。

もう一つ気がかりなのが転落・転倒ですが、鎖場はなるべく鎖を握って慎重に進むこととしました。

登山口のゲートの向こうに最初の鎖場である大日グラ(グラは山かんむりに品)が見えました。

あまり濡れていない広い通路でしたが、鎖を持って慎重に進みました。

足場を確認して大丈夫だと思ったところで止まって撮影をしました。

撮影については、安全確保のため、この後、これを原則としました。

  

宮川本流は曇り空でもきれいな緑色をしており、登山道はしばらくゆるやかなアップダウンを繰り返すので、歩きながら景色がいいところでは立ち止まって撮影するのがいい休憩になったと思います。

  

登山口から2時間ほどで、最初の大きな滝である千尋滝の滝見台に着きました。

総落差150m以上と言われる段瀑で、水量もあって豪快な響きが体に伝わりました。

ここらあたりはヤマビルが多いところですが、忌避剤のおかげで咬まれることもありませんでした。

  

ここからの区間はアップダウンがきつくなりますが、まだ足が疲れていないのでスムーズに進むことができました。

  

登山口から3時間半でシシ淵に着きました。

緑の淵の向こうに豪快なニコニコ滝が覗く景勝地で、ここで少し長い休憩をとりました。

いつまでも眺めていたいと思うような美しい景色を独り占めできました。

  

ここから先は左岸を高巻きするコースで、少し険しくなります。

   

ほどなく登山道からニコニコ滝の全景を見ることができました。

  

そこから少しの下り道で平等グラ(グラは山かんむりに品)の吊り橋です。

平等グラは巨大な一枚岩で、吊り橋の上流、左岸側にそびえています。

登山口から4時間半かかりました。

  

ここから少し荒れたアップダウンを越えれば、関西最大の山小屋といわれる桃ノ木山の家に着きます。

登山道から休憩を頻繁に取って、5時間すこしかかりました。

 

この日はここで泊まるのですが、定員300人の山小屋に宿泊するのは私一人でした。

山小屋の御主人は、「梅雨時の平日はこんなものです。」と言っておられました。

やはり、雨とヤマビルは敬遠されるようです。

夕方まで時間があったので、七ツ釜滝に行くことにしました。

七ツ釜滝まではアップダウンも少なく、きれいな緑の淵が続くので、スムーズに行くことができました。

  

七ツ釜の滝は日本の滝百選に選ばれている大杉谷を代表する滝です。

この日は水量も多く、しばらく夢中で撮影しました。

  

山小屋に戻り、入浴が5時、夕食は5時半、寝たのが7時半で起きたのは5時、朝食は6時半と健康優良児のようなタイムスケジュールで過ごしました。

山小屋の御主人が、「大杉谷のハイライトは七ツ釜滝から堂倉滝まで」とおっしゃっており、荷物の一部を置いて行ってもいいとおっしゃっていただいたので、堂倉滝まで行くことにしました。

 

宿を出発したのは7時前、七ツ釜滝から急坂を登って七ツ釜滝吊橋からは少しゆるやかな河原の右岸側を進みます。

     

ほどなく、大崩壊地が見えます。

自然の驚異の跡を間近で体験することができました。

    

大崩壊地上流の河原もいろいろ絵になる風景が点在しています。

    

ほどなく光滝という美しい滝が見えます。

日陰となっていますが、日光が当たれば虹が見えるなど、美しさは倍増するそうです。

  

急坂を登れば光滝の落ち口を右手に見て、左手前方に隠れ滝が見えます。

    

隠れ滝から与八郎滝を経て、ようやく堂倉滝に到着しました。

山小屋から3時間半かかりました。

    

最終目的地である堂倉滝は、落差はさほどありませんが、水量が多く、迫力がある滝です。

釜も大きく、雄大な眺めでしたので、ゆっくり休憩時間を取って撮影しました。

   

堂倉滝を11時に出発し、山小屋で荷物を返してもらって、登山口を目指しました。

大杉谷はアップダウンが多く、体力的には11kmの道のりはきつかったと思います。

暑さの影響もあってこまめに休憩を取ったので、登山口まで6時間半ほどかかりました。

大杉谷は、秘境の名に恥じぬ素晴らしい景色の連続でした。

梅雨の晴れ間というのも、人が少なくてかえって景色が独り占めでき、立ち止まって撮影しながらゆっくり歩いても後続やすれ違う人を気にしなくてもいいので私にとってはベストシーズンでした。

これ以上歳を取ってしまえば行けなかったと思うので、思い切って訪問してよかったと思います。


■ 明治維新の志士たちが集い語りあった場所、松田屋 蒲池眞佐子

1675年の創業した松田屋は湯田温泉の中の旅館のひとつである。

1863年(文久3年)には高杉晋作が松田屋玄関横の楓の幹に「盡国家之秋在焉」(国家に盡すのときなり)との文字を刻んだそうだ。

    

薩長同盟が締結の頃、坂本竜馬が松田屋にも滞在、慶応3年には西郷、大久保らが薩長同盟の具体的協議の為、松田屋にて会議を行っている。

そんな歴史のある松田屋のお庭を拝見させて頂いた。

旅館のフロントを横切り、狭い入口から中庭に入る。

 

司馬遼太郎も宿泊したのだろうか、立派なアカマツにこのような説明書きが。

  

お庭から見えるお部屋の様子が素敵で、庭からではなく、部屋から見てみたいものだと思う。

         

庭には鳥居もあり、祠がある。

           

ちょっと高台には浅層源泉があり、小さな滝となっている。

   

こちらは西郷、木戸、大久保が会見をした会見所

   

三条実美が松田屋へ送った手植えの松と遺墨碑

   

松田屋の裏側には公共の足湯もある。

 

決して大きくない庭園ではあるが、歴史を感じるものが多々あった。

次は是非宿泊して館内からお庭を拝見したいものだ。


■ 近江(滋賀)の聖地(パワースポット)−3 中山辰夫

滋賀県の湖西に所在する高島市に入ります。

大津市に接する高島市は、長浜市に次ぐ広域さをほこります。「日本100選」に数多く選ばれた自然豊かな景観、古墳時代から脈々と受け継がれてきた歴史と文化、それらに付帯する暮らしが息づく町並みと魅力一杯ので、すべてを知り尽くすことがとても出来ない地域です。

12−白髭神社 高島市 社殿は国重要文化財

       

琵琶湖に突き出た明神崎の先端に坐します近江最古の社です。交通安全、長寿の神である猿田彦命を祀り、近江の地主神である比良明神も祀られています。

「安芸の厳島神社」を彷彿させる大鳥居と檜皮葺の社殿、磐座、古墳群、背後の神奈備山が一直線上に並ぶ姿は実に神々しく、まさに山と湖をつなぐ信仰の形を呈しています。往古から湖上を行く多くの人達がその姿に手をあわせたことでしょう。

13−鵜川四八躰仏 高島市 県史跡

    

近江守護職で観音寺城主(近江八幡市)佐々木六角義賢が、亡き母の追善のために阿弥陀四十八願に因んで建てたものです。花崗岩製で定印を結んだ阿弥陀如来坐像は高さ約1.6mほど。表情が豊かな室町時代の作です。観音寺城の対岸にあたるこの場所に建立されました。

当初は48躯ありましたが、鵜川には33躯、天海僧正を祀る慈眼寺(大津市)に13躯安置されており、残りの2躯は盗難に遭い不明です。

14−岳山(だけ) 高島市

シダが覆う幅1m弱の登山道が昔からの参詣道。比良山系縦走の北の出発点。標高565mの琵琶湖を見下ろす円錐の山容は信仰の対象でした。

長谷寺の横から登り始め、途中に建つ「賽の河原」や菩薩像を過ぎると岩の上に建つ石造石灯籠に出合います。景観が素晴らしい。いよいよこれから先が本番ですが、単独行でしたので不安を感じ引き返しました。(後で聞きますと正解だったようで、一人では難しいコースのようでした)

     

奈良長谷寺の観世音菩薩はこの山の谷から流れ出た霊木に刻まれたともいわれます。岳山の中腹には観音堂跡があり、山頂には十一面観音を祀る石窟があります。ここが長谷寺の奥の院でしたが、江戸時代に大溝城主が参詣者の便宜を考え観音堂跡に移したとされ、さらに近年山麓に移されました。

石窟と現在の観音堂、長谷寺、岳山 十一面観音は国重文で秘仏、33年毎に開扉されます。長谷寺は「岳観音」ともいわれました。

    

長谷寺は677年開創の歴史を持つ古刹。毎年7月19日には「千日会」が行われ参拝の列が山頂まで続いたようですが、今は誰一人登りません。

15−大荒比古神社 高島市 七川祭は滋賀県無形民俗文化財指定

          

大荒比古神社派、鎌倉時代に佐々木高伸が佐々木氏の祖神を勧請して合祀して以来、高島七頭と呼ばれる武家達の氏神となりました。

もとは、安曇川が平野に流れ出る変化点を見下ろす用水の神ともいわれます。

祭礼の七川祭は湖西最大の祭りで、佐々木一族が出陣の際に戦勝祈願をし、凱旋の時にお礼として12頭の流鏑馬と12基の的を神前に奉納したのが始まりのようです。今年初めて見ましたが、戸数僅かな8集落の人達が交代交替に受け持ち、7年間に溜めた自費で行う手作りの祭りです。継承された踊りや祭具に歴史が感じられ感銘を受けました。他の集落にも独特の歴史ある祭事があるようで、高島の奥の深さに触れました。

16−酒波寺 高島市

      

奈良時代行基によって開かれ興福寺に属し僧坊56を有した大寺でした。平安時代「昭光観音堂」と呼ばれ、その素晴らしさが都でも評判だった観音堂は江戸時代に入って「観音行院」と呼ばれ、明治の廃仏毀釈後「本堂」と改称されました。現在の本堂は江戸時代に再建されたものです

山門への石段を登る途中に樹齢約400年とされるエドヒガンサクラがあります。一字樹勢が衰えピンチでしたが立ち直ったようです。境内は桜の名所で、山桜、エドヒガンサクラ、ソメイヨシノが順番に咲きます。境内の裏山にヒガンサクラが約140本密集しているのは珍しいことです

若狭からの風が吹き溜まる本堂前には毎年1m程の積雪があり、道路面の3倍ほど積もると聞きます。本堂裏には弁才天を祀る池があります。


■ ベルモンド・エル・エンカント  柴田由紀江

 

甥の結婚式に招かれカリフォルニアのサンタバーバラにあるベルモンド・エル・エンカントというリゾートホテルに滞在しました。

フォーブスの5つ星を獲得したこのホテルは、ロケーションもサービスも素晴らしく、前夜会、結婚式、ブランチパーティと3日間の滞在中もまったく退屈せずに休日を満喫出来ました。

ホテルは丘の上の広大な敷地に、レストランやバンケットのあるヴィラやプールは見晴らしの良い斜面に建てられ、客室はよく手入れされた植栽に囲まれた庭にコテージが並び、バレーパーキングなどは滞在中は目に入らない場所に造られています。

私が滞在したデラックスバンガローはいわゆる大きめなスイートで、特に床暖房の入った総大理石の浴室の広さには驚きました。

バスタブとシャワーブースとドレッサールームとクローゼットが広々としたひとつの空間になっており、ブルートゥースのスピーカーで好きな音楽を流して寛げました。

広い敷地にはヤシの木が揺れ、立体的に造り込まれた植栽は熱帯植物園のようでした。花壇の草花もよく管理され、花がらもきちんと摘まれてすくすくと育っていました。

甥の結婚式風景のスライドショー


■ 大正天皇をめぐって その1貞明皇后  野崎順次

今となっては、大正天皇について話題になることはないが、偉大な明治天皇と昭和天皇の間にあって、体が弱く、決断力に乏しく、政治に疎かったというのが、当時の一般的なイメージだった。私は昭和21年生まれだが、子供の頃に大人からそういう話を聞いたことがある。

ところが、大正天皇は、確かに体は強くなかったがきちんと四人の皇子をもうけ、きわめて聡明な方だった。

天皇が神とあがめられた時代にあって、

① 庶民に対して非常に気さくで、全国を回り、いろいろな人々に話しかけた。

② 側室を持たず、貞明皇后ただ一人を愛し、後の昭和天皇を含む四人の皇子をもうけた。家庭と家庭の団欒を大切にした。

③ すぐれた詩人であり、その短い生涯に1367首の漢詩を遺した。歴代天皇中の第一位である。第二位は後光明天皇(110代、江戸初期)の98首、第三位は嵯峨天皇(52代、平安初期)の97首に過ぎない。

これらの背景には、貞明皇后と漢学者三島中洲の存在がある。今回は貞明皇后について述べる。

最近、能勢町野間の大ケヤキを見に行った時、妙見口から道中(バスと徒歩)が一緒だった老人が妙な話を教えてくれた。ケヤキの向こうに見える改装工事中の元茅葺の家は皇后さまに関係があるというのである。このあたりには壇ノ浦で水死したはずの安徳天皇が能勢に逃れてきたという伝説があり、野間出野にご陵墓まである。そのことかなと思ったが、時代があまりにもさかのぼり過ぎである。どうも、貞明皇后の生母、野間幾子に関わるらしいと後になって分かった。

   

「貞明皇后実録に"御母は九条幾子"とあるが、道孝の正妻ではない。本名は野間幾子。二条家の家臣、野間頼興の娘で、嘉永2(1849)年の京都生まれである。幾子は数え16歳で九條家に仕えた。やがて道孝の側室となり一男三女をもうけ、末娘の節子をうんだのは36歳の時だった。晩年は京都に居住。浄操院と称して茶の湯や能楽に親しみ、大正4年11月10日の読売新聞によれば"小鼓は頗る御堪能にて(中略)京都婦人界にて右に出るものはないさう"だったという。」

(産経新聞連載 川瀬弘至「朝けの空に−貞明皇后の66年」第2回より)

 

浄操院幾子は昭和21年4月5日に行年98歳で亡くなり、東福寺九條家墓地に眠る。野間家は清和源氏の流れだが、公家ではなく庶民である。明らかに能勢の野間にルーツがある。。

九條家は五摂家の一つでれっきとした公家である。道孝の姉は江戸期最後の天皇、孝明天皇の正室(子供はなかった)で、道孝自身は維新後公爵に叙せられた。

道孝と幾子の間の末娘、節子が後の貞明皇后である。その幼少期は実にたくましいものがある。1884年(明治17年)に東京で生まれ、すぐに近郊の農家に里子に出され、裸足で栗拾いやトンボ捕りをするなど元気に育った。日によく焼けていたのだろう「九條の黒姫様」と呼ばれた。1888年(明治23年)には九條家に戻り、その後、華族女学校(後の女子学習院)に入学した。1900年(明治33年)2月11日、15歳で、5歳年上の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と婚約した。彼女が健康であることが、病弱な親王の妃となる大きな決め手にもなったようである。

「大正天皇との夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見たという。また皇子を4人儲け、一夫一妻制の確立に寄与し、宮中での地位は絶大なものがあった。」

(ウィキペディア「貞明皇后」より)

という訳で、野間に由来する庶民の元気な血筋が天皇家に活力と新しい家族観をもたらしたのである。

  

野間幾子の話を最初に教えていただいたのは、築100年の酒屋「嶋田商店」の店主にして、歴史小説家/郷土史家の家村耕氏である。天皇家の系図、「朝けの空に−貞明皇后の66年」抜粋のコピーをいただいたし、浄操院の写真もその店で撮らせてもらった。同氏に謝意を表します。


■ 東日本大震災から7年が過ぎた真壁で思うこと 川村由幸

東日本大震災から7年4ヵ月が過ぎました。復興も道半ばまだまだ多くの問題を抱えています。

特に福島はこれから30〜40年間、復興という文字がつきまとうことになる現実に未だ打ちひしがれる自分がいます。

そんな気分で被災地と呼ぶには被害が軽微でいささかおこがましい感もありますが、まだその傷跡の残る真壁を訪れました。

以前にもここで同じ発言をした気がしていますが、同じ重伝建でも千葉の佐原と比較して真壁は被害を受けた歴史ある建造物の再建が遅い状況です。

佐原は元に復原されたと言える状況なのにも拘わらず、真壁は7年前の被害を受けたままの建造物が残っています。

観光地としての商業的価値の差なのでしょうか。遅い再建ではありますが、その現状を画像でお知らせします。

先ずは良いほうから、左の画像が再建前、右が再建後です。

  

観光駐車場のすぐそばの平井家、少し造りに変化はありますが、風情を残してきちんと再建されました。あとは風雪という

時間の問題を残すだけです。

  

花屋を営んでいた木村家、左側の門が未再建ですが、これも美しく復元されています。ただ、新しい家には人の気配がないのです。

花屋は再建されないようなのです。やはり家は人が住んで家、人の住まない重伝建はハリボテは言いすぎでしょうか。

重伝建は済む人の生活があっての重伝建ではないでしょうか。

次にやっと再建が始まった建造物、上と同様左が再建前、右が現在の画像です。

  

  

工事中です。特に上の市塚紀夫家は曲屋で歴史的な価値の高そうな建造物で私個人的にもこのまま朽ち果てる建造物になってしまうのではと心配していました。やっと再建が始まり一安心しています。

下の土谷家も震災後しばらくは無人であったと思います。前回ここに訪れた2016年9月には人が住んでおられましたのでそれで再建が進んだのではと推測しています。

  

村井醸造さんです。酒造会社で建物の規模が大きくて再建が大変です。工場ですから自主再建の道だけなのでしょう。

まだまだ多くの時間が必要だと感じました。

中途半端のものもあります。

  

塚本茶舗の蔵。屋根のみきちんと再建されていますが、他は手つかずの状態です。

なぜこのようなことになるのでしょうか。持ち主の事情も絡むのかもしれません。

最後が手つかずの状態の建造物です。

  

右の画像は2016/9のもので、今回撮影していませんが、現在もこのままの状態です。

手つかずの建造物はこの二つぐらいですが、この状態がさらに進めば、再建も困難になることを危惧しています。

まあ、とてもゆっくりではありますが、再建が進んでいることは進んでいます。ただ、ゆっくり過ぎるのです。

真壁は重伝建というだけで観光で賑わう町ではありません。

そんな中で、古いものを古いものなりに再建することには大きな障害があるのだろうと想像しています。

災害のあとで、文化を守ることより人の生活が優先されて当然です。経済的価値の乏しい建造物の再建が優先されるべきでもありません。

ただ、文化は一度失われると二度と元には戻りません。失ってから気づくのではなく失う前に気づき手を入れるべきだと

思うばかりです。


■  格安の北京旅行  田中康平

3か月ほど前、格安の中国旅行を見つけて物見遊山に行ってきた。

つい最近大学の同窓会があって雑談していると、そこでも格安のアジア旅行にいくつか行ったとの話に及んだ。

よく知らなかったがどうやら格安の海外旅行は知る人の間では有名なようだ。

格安とは1日あたり一万円以下で食事ツアー全部込みの旅行を指すようではある。

今回のは北京3泊4日で3.5万円だった。

宿は十分立派なシティホテルで決して安宿ではない。

booking.comなどで調べてみると4つ星ホテルで食事なし一人1泊1.2万円位でネット販売されている。一応シェラトンだ。

飛行機代や食事代・ツアー専用バス代・ガイド代・入場料はどこから出ているのだろうか。

ショッピングとして計4か所の店にそれぞれ一時間近く行くことになっていて差額はこのショップが負っていることにはなるのだろうが、法外に高いものを無理に買わされるということもない。それにしても安い。不思議だ。

万里の長城や北京市内の世界遺産、紫禁城、頤和園、天壇公園、および天安門広場などを回る。北京観光としては十分な感じだ。

日程が中国の春の連休に重なってどこも大混雑だったが、それがいかにも中国らしくていい感じもする。

見て行くと、今残る北京の世界遺産は万里の長城であれ何であれ殆どが明の時代に築かれた建造物だ。どれも立派で明は国力も充実し強国であったと思わせる。

秀吉の朝鮮出兵は明を征服するという野望からだったが、現実に明軍に直面するとたちまち敗走する羽目になったと伝えられる。さもありなんと思わせる。

その他北京の思いの外よく流れる交通事情など学ぶことが多い。

今となっては、気楽に出かけられる旅を見つけて時を過ごす、こんな生き方が楽でいい。

写真は順に、万里の長城(2枚)、天安門広場、紫禁城、天壇公園、頤和園

      


■  看板考 No.67 「アサヒ靴」 柚原君子

 

看板の所在地:東京都板橋区南町庚申通り商店街

要町と熊野町の交差点の中間くらいに山手通りに寸断された「南町庚申通り商店街」があります。

昔の農道のような細い曲がりくねった一本道を池袋方面に続いていく商店街ですが、どのお店も昭和人々が現役で経営しているような、ある意味素朴な商店街です。

写真撮影は今から4年前の2014年でしたが、このお店は2018年の今はシャッターが閉まったままです。

そう思って見わたしてみるとこの商店街はすでに半分くらいが一般住宅になっていました。

看板の「アサヒ靴」はマークが日の出の朝日で、どこかで見たマークと足を止めました。

アサヒビールと似ていますので、アサヒビールは靴も造っていたのかと調べましたら、むしろブリジストンタイヤの会社と縁が深いことが判明。

古看板は「えっ!?」と思う単純な驚きや、日本の歴史・風俗が隠されていることが多く、古看板に出合うと立ち止まってしまいます。

さて「アサヒ靴」ですが、福岡県久留米市に本社を置くゴム靴メーカーです。

創立者は今から126年前の1892(明治25)年に「志まや」として足袋の製造が出発点です。

20年後に、シンボルマークを「太陽を背に波を打つ」印に(アサヒビールと似ていますが、良く比べるとアサヒビールの方が波がダイナミックでした)。

足袋はその後、地下足袋の開発につながります。

地下足袋は底にゴムを貼り付けた物で、今は安全靴がありますが、当時の建築現場や農作業は地下足袋でした。

現代の身近な物で言えば、お祭りの時にはく底がゴムになっている足袋でしょうか。

このゴム扱いがタイヤ部門として成り、のちに国産第一号のタイヤが生まれます。

やがて分社化されて「ブリジストンタイヤ」の前身となる、と社歴にあります。

時代は産業近代化の真っ只中。その流れに上手に乗っていく知恵や度胸や財力を供えた経営者が現在も残っていることになりますが、アサヒ靴も2代目経営者は、従来の徒弟制度をやめて給料制にしたり、裁断機や石油発動機の導入をしたり、戦争勃発を予見して生地や糸などの原料を大量買いして利益につなげるなど、時代の波を乗り切って行きます。

しかし、1998(平成10)年に、バブル崩壊後の時期なのでしょうか倒産してしまいます(全国で関連53社)。

が、3年後には更生計画が認可されて、三井物産やサンリオなど15社から出資援助を受けて事業を続けます。

2017年には会社更生手続の終結決定を受けて、新社名「アサヒシューズ」として再出発します。

当該ブリキ看板の右上の垂れ幕のピーナッツのスヌーピーは何故?と思いますが、「サンリオ」が出資援助した会社のキャラクターということで、なるほど、たどり着けました。

時代の波に乗って行くのは上手な企業というイメージがあります。

キャラクターシューズなども造って子どもたちの世界にも人気の靴屋さんですが、ポケモンブームが来た時期と重なって、ジャンプ出来て浮上したという一説もあるそうです。

その他にもヒット商品は多くあり、大人用の靴には「通勤快足」というビジネスシューズ、介護の現場やお年寄りに優しい「快歩主義」という靴シリーズもあります。

それらのネーミングには優しさや親しみやすさが感じられて、やっぱり浮上するだけの会社であると感心します。

余談ですが、創業者より2代目の石橋 正二郎氏の長女である安子さんは鳩山由紀夫、邦男さんたちのお母さんです。こちらはまあ、庶民には縁遠い世界ですが。

(参考資料:ウィキペディア及び会社概要)

昭和の色が残る古い商店街の靴屋さんの埃にまみれた1枚の「朝日の絵柄の看板」。その看板からたどっていった色々は、やっぱりおもしろいものでした。


■ おばちゃんカメラマンが行く @北海道 子育て真っ最中  事務局

1.ナキウサギ

6月初め 昨年のナキウサギがっかり旅の無念を晴らすべく、再度の挑戦だ。

今年は然別湖付近のガレ場に向かう。

すでに多くのナキウサギ撮りたい族が待機しており、あーだこーだと結構賑やかだ。

ナキウサギがなかなか出てこないせいか、暇を持て余したカメラマンは和気あいあいと話しをしている。

後から来た私たちにもウェルカムで、出てきたウサギに、あれは親だ、子供もこの辺に出てくるなど親切に教えてくれる。

当のナキウサギは、やたらちょこちょこと顔をだし、気が抜けない。

しまいには撮ってくれとばかりにカメラアングルでサービスしてくれているようだった。

昨年あんなに苦労したのはなんだったのか、ピンボケ写真を後生大事に持っていた自分が情けない。

数匹の親と子供を見ることができて幸せだった。

北海道鹿追町 然別湖 ナキウサギの親子

Pika,Shikaribetsuko,Shikaoi town,Hokkaido  

 

2.エゾフクロウ

周辺の人皆幸せだったのだろう、いろいろな情報を教えてくれる。

「エゾフクロウの子育てを見られるから行ったほうがいいよ。」

夜中に何時間も待機するならちょっと考えるのだが、意外に簡単に見られるらしい。撮った写真も見せてくれた。

鳥撮り初心者にとっては願ってもない情報だが、鳥撮りは大変だと聞いていたので、半信半疑で現場に向かう。

すでに数人カメラを構えて見ている。自分の土地でもないのに近所のおじいさんが自慢げにフクロウの話をしている。

初めて見るフクロウの赤ちゃんに感動ものだ。写真はともかく、やたらしぐさがモフモフしていてかわいらしい。

釧路湿原 エゾフクロウの親子 (北海道釧路市・鶴居村・釧路町・標茶町) 

Owl,Kushiro wetland (Kushiro city,Tsurui village,Kushiro town,Shibecha town),Hokkaido 

 
 

3.タンチョウ

後から来た若い鶴撮りのお兄さんが、「鶴のひなが見られるから行った方がいい」とまた場所を教えてくれた。

自分の撮った写真もいろいろと見せてくれたが、どれもプロ並みで、望遠レンズを双眼鏡代わりに使っているおばちゃんをかわいそうに思ったのだろう。

鶴撮り青年の言う通りの現場に行くと鶴の親子がエサ取りの真っ最中だ。

北海道根室市 風連湖 タンチョウの親子

Furenko Lake,Nemuro city,Hokkaido 

 

4.クマゲラ

ほかのおじさまからは、クマゲラの情報もいただいた。

クマゲラもこれこそ見られたらラッキーぐらいで、ふらふら現場に行くと10人ほどの迷彩柄で大砲みたいなレンズを構えている人の集団に出会う。

雨が降り寒かったが、数分すると親鳥が巣に餌を運ぶシーンを二回も見ることができた。しかも長老たちは、雄の次は雌だったと言い合っていた。

なんと幸運なことだろう。

北海道北見市郊外 クマゲラの親子

Black Woodpecker,Kitami city,Hokkaido 

 

ナキウサギ、エゾフクロウ、丹頂鶴、クマゲラと、北海道の動物に一気に出会え、しかも全て子育て真っ最中の親子だ。

ここで運を使い尽くしたと思われるぐらいラッキーな数日だった。

ナキウサギつながりで、教えてくれた鳥撮り専門のおじさま方に感謝である。

これを機に鳥撮りおばちゃんに挑戦したいと結びたいところだが、広く浅くをモットーのおばちゃんは絶対に深みにははまりません。

今月のにゃんこ

保戸島 「だるまさんが転んだ」みたいにじんわりとつかず離れずついてくる猫群

 


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Editor Yukinobu Takiyama

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