Monthly Web Magazine June 2019
日本史の教科書に登場する白村江の戦いや防人システム。当時の大和朝廷の防衛最前線が対馬の金田城だった。この背後には大宰府を守る水城や補給拠点の鞠智城などがあった。
対馬への旅は何度も挫折している。国際的観光地にもなっておりハイシーズンは宿が取れない。オフシーズンの冬は天候が悪い。
今回ようやく3泊のフェリー旅で訪問することができた。
金田城は事前に調べた情報よりもはるかに奥深いもので、天候にも恵まれ大いに有意義な訪問だった。九州各地の朝鮮式山城との対比も興味深い。
対馬には秀吉の朝鮮出兵の遺産も残るが観光ガイドには掲載されていない。対馬に多く残る近代史の戦争遺産もほとんど知られていない。
ほとんどの日本人が知っている重要な歴史的事象は、教科書に載っていることを丸暗記するだけで精いっぱい。それがどこにあるのか、なぜそうなったのか、その後どうなったのか、今後の国際関係に参考になるか、などの重要な情報は、入試というフィルターで遮断されてしまっており、よほどの歴史好きしか現地を訪問しない。
対馬には多くの文化財があるが、思ったよりも広く、道は曲がりくねっており、各地の美しい街並や海岸風景に魅了されて時間を費やしたこともあり、自然林などの天然記念物を訪問する時間は全く取れなかった。今回は下見で、あと数回訪問する必要がある。
今年は、可能な限り、各地の祭の撮影をしたいと思っており、5月18日に、10年ぶりに行われた島根県松江市のホーランエンヤ(松江城山稲荷神社式年神幸祭)の渡御祭を見に行きました。
祭礼の中には、式年祭として、何年かに1度開催されるものがあり、有名なものとしては、鹿島神宮の御船祭(12年に1度、午の年に開催)、香取神宮の式年神幸祭(12年に1度、午の年に開催)、御柱祭(数え年で7年に1度、寅と申の年に開催)があります。
ホーランエンヤも式年祭ですが、開催間隔は当初は10年に1度、明治以降は原則12年に1度とされており、今回は当初に戻って10年ぶりの開催となりました。
式年祭で、過去には財政的な事情で開催間隔が変更されたこともあるため、昭和60(1985)年の開催以降は、祭祀については松江城山稲荷神社式年神幸祭奉賛会が、櫂伝馬踊や船行列については伝統・ホーランエンヤ協賛会が組織され、計画的に開催準備が行われるようになりました。
ホーランエンヤでは松江城内の城山稲荷神社から、東出雲町出雲郷(あだかえ)の阿太加夜神社に神様が渡御され、7日間の祈祷を行った後、城山稲荷神社に還御されますが、最大の見どころは、大橋川河口の五大地(ごだいじ)と呼ばれる5つの旧村が披露する櫂伝馬踊です。
初日の渡御祭では松江市中心部の大橋川の4つの橋(宍道湖大橋、松江大橋、新松江大橋、くにびき大橋)の間の3箇所を2〜3周して披露され、その後、東出雲町の出雲郷(あだかえ)地区の意宇川でも披露されます。
夜行バスで松江まで行き、松江大橋の南東付近で撮影しました。
10年に1度ということで、相当な人出を想像しましたが、櫂伝馬踊の披露の1時間半前に行けば、護岸の最前列から撮影する琴ができたと思われるくらいでした。
松江大橋の見物客
櫂伝馬踊
宍道湖大橋・松江大橋間の2周が終わった後、もう少し撮影したくて新松江大橋の北西の護岸まで移動しました。
人の頭越しの撮影でしたが、前の場所よりも櫂伝馬船が近く、色々な撮影ができました。
今まで、動かない建造物や自然風景を中心に撮影していたため、撮影結果はあまり満足できるものではありませんでしたが、今後も試行錯誤しながら、祭の撮影を続けていきたいと思います。
午後はレンタカーで近くの文化財建造物を撮影した後、その日の夜行バスで家に帰りました。
駆け足の撮影でしたが、充実した一日となりました。
桜が終わり次いでツツジが咲き、その後もお花の開花が続いています。花や木々に関心がないと名前は何度聞いても頭に入りません。
この時期、当地周辺の田畑・土手・川原・住宅地の空地などに群生している雑草が目につきます。5〜6月になると子猫の尻尾のような白い穂をなびかせます。
調べると、「チガヤ イネ科」と命名されているイネ科の多年草で、平均的に40〜60cmほどの細長い葉がツンツンと立つのが特徴のようで、ほぼ全国に分布しているようです。
大陸からの伝来でしょうが、その歴史は古く、万葉集には「浅茅(あさじ)、浅茅原(あさじはら、 あさつばら)」と詠まれ、枕草子には「草は浅茅(あさじ)、茅花いとおかし」とあり、ほかに風土記、徒然草にも詠まれています。古代から繁殖力の強さから聖なる植物とされたようです。
その名残の一つに「茅輪くぐり」があります。毎年6月に行われる神社の「夏超の祓(なつこえのはらえ)」に作られる「茅輪」は茅萱・薄(すすき)・萱(すげ)、などが用いられたようです。その由来や、輪の作り方、作法は各神社で異なり諸説あるようです。
昔の人は土手崩れ防止や家畜の飼料、堆肥に利用したようです。茅根や若い花芽(ツバナ)、白い穂花は薬用として利用されます。
しかし、周囲で目にするチガヤは今や嫌われものです。世界の侵略的外来種ワースト100にも選ばれています。
チガヤは種による繁殖だけでなく、地下茎を伸ばしその広がりが旺盛で、一旦蔓延るとその防除が困難な強害雑種の位置付けです。
根こそぎ早目に刈り取らないと効果がないとされています。対策としては防草シートで覆う方法もあるようです。
チガヤの花穂は白い絹毛をもった穂です。「絹毛」と書かれていることが多いです。若い花穂はツバナと呼ばれ甘く、サトウキビに似て食されていたともいわれています。
この絹毛が飛散して増殖の役目を果たします。たまには耳穴にも入るとか。今は、洗濯ものに付着したら取れないとの苦情が多いようです。
チガヤの「絹毛」に対して、タンポポやアザミは「綿毛」と書かれています。その違いはよくわかりません。
タンポポ
アザミ
極めて薄っぺらい内容です。少しわかりましたが、すぐに忘れてしまいそうです。
5年半ぶりに奄美大島に遊びに行った。
前回見損なった所をいくつか観れればいいという位だ。
また感じたが奄美は雨の島だ。予想通りのしっかりした雨で旅は始まった。
今回は奄美の梅雨入りのタイミングでもあり雨模様なのは自然なのだが、前回の12月も雨、昔皆既日食を見に行こうとして果たせなかった時も雨、その他知り合いからも奄美というと雨の話をよく耳にしている。客観的にはどうかと気象データを探してみた。
年間降水日数の平年値は見つからなかったが2017年のアメダス地点の降水日数データが見つかった(気象庁:2017 年(平成 29 年)の日本の天候(速報))。
それによれば年間1mm以上の降水のあった日は名瀬は144日で全国153地点中31位であった。
屋久島は154日で名瀬より多いがその他の上位ランク地点は日本海側等冬豪雪となる地点が殆どで九州沖縄では名瀬は屋久島に次いで第2位の雨の多さとなっている。
2017年というある年のデータではあるが雨の多い島ということは正しそうだ。天気図にしばしば出現する日本南岸に前線が張り付く形では奄美は何時も雨になるということなのだろう。
前に見損なった所として記憶にあったのが島の唯一の重要文化財建造物である泉家住宅だ。
前回はガイドブックにも記載がなく近くまで行っても表示もなくてたどり着けなかった。
今回は奄美を世界遺産に申請しようとしていることもあって文化的資産にアクセスしやすくする配慮は改善された印象はあった。
しかし雨だ。まずは訪れた奄美民俗資料館で行き方を細かく教わって泉家住宅に向かった。
ここで教わらなければやはりたどり着けなかったかもしれないと思うほどに道標等は見つかりにくい。
最後は道が細くなって手前の土産物屋の駐車場にクルマを置いて歩いていけばいいようではあったが雨だ。
とにかく近くまで車でそのまま行く。ここというところにつくとどう見ても個人の家だ。ちょっと入って写真に撮るのもためらわれる。
なかなか来れるところではないがどうしても気弱になってしまって車の中から見た光景だけを写真に収めるだけとなる。
高床の倉庫があるところが特徴的な住宅のように見える。
資料によれば明治期の建造だがこの地方の民家の形態をよくとどめているとして重文になったようだ。
座敷棟(おもて)と台所棟(とぉごら)は良く見えないが高倉は何とか見える。
高床になっているのは湿気除けとネズミ除けとされている。
火災を恐れてか集落ごとに集落から少し離れたところに高倉を数棟作ることが奄美大島では行われていたようで大和村大和浜に群倉(ぼれぐら)としてその形が保存されている。
これは野生生物保護センターの近くにあって翌日に見ることになった。
高倉風の復元建造物も島のあちこちでも見る。
泉家住宅のすぐそばにもあった、奄美の象徴的建物のようだ。
ともかく見ると南洋の建物という雰囲気がある。建物一つをとっても面白い。
今回の奄美の旅も主眼は野生生物を見ていく旅で、全ては写真にはとれなくても島特有の珍しい、奇妙な、或いはちょっと怖い生き物に次々に出会った。
見るべきところも色々残ってまだ回りきれたという感じがまるでしない。
アフリカで生まれた人類が日本人として極東の地に辿り着く過程では必ずこの島を通っていったはずだ。
旧石器時代からの重層した遺跡もあってとても面白い島だとまた思う。
懸念したがその後は大した雨にも合わず3泊4日で戻る。
調べるほどに興味深い島だがまた来れるだろうか。
近頃は旅するたびにどこへ行ってもそう思うようになってきた。
(写真は順に泉家住宅(2枚)、大和村大和浜の群倉(2枚)、高倉風の復元建造物)
久ぶりの休みに石柱渓を歩こうかと思っていたら、前日は警報が出るほどの大雨、歩き回るのは止めて、ちょっとだけ見に行った。
看板によると神秘的な仙境として入る人はいなかったが大正時代に紹介され、石柱渓として命名されたらしい。
全体は1キロメートルぐらいあり、40ぐらいの滝があるみたいだ。
さすがに大雨の後、奥まで入るのはやめておいた。次は天気のいい日に散歩してみたい。
帰りにぶらっと立ち寄った道の駅、つばめが巣を作っていた。せっせと餌を運ぶ親鳥をながめながら、「燕の子っていいよね、巣の中にずーっと居て、親が帰ってきたとたん、餌を早くくれ、今度の餌はなんだ?と言ってるみたいで楽よね」とつぶやくと、隣にいた夫がじーっとこちらを見て、「それは僕に言ってる?」と。
にやりっ。
こちらは巣立った子供たち。やはり巣が恋しいのか、他のつばめの巣に入り込もうと、大渋滞。この子たちもじきにせっせと餌を運ぶ側になるのだろう。
われわれは兵庫県立神戸高等学校16回生で1964年に卒業した。我楽多会は、旧2年4組(担任は木村先生)の男子有志の集まりである。現在の年齢は73〜74歳。詳しくは、2013年12月のウェブマガを参照されたい。
メンバーは計19名であったが、一人亡くなり、一人去って、現在は17名である。
横須賀在住の小舟君の企画で5月31日と6月1日の両日に横須賀を巡ることになった。小舟君は国際的土木コンサルタントとして活躍し、退職後よこすかシティガイド協会に属している。今回の参加者は、大西、小舟、田畑、中野、坊岡、野崎の6名である。体調不全や月末多忙で参加できない会員が多かったのは残念であった。
令和元年5月31日
京急汐入駅に着き、まずは軍港めぐりの45分間クルージングに向かう。
右手に米軍横須賀基地を見る。潜水艦だけは日本艦。1500億円もするイージス艦が7隻停泊中で、計1兆500億円の眺めとか。
出港する日本の護衛艦「ゆうぎり」、北部埋め立て地(夏島町、追浜町)の諸施設
笑顔を絶やさぬ一行だが、船上ではそれぞれの思いにふけることもある。
自衛艦隊司令部前の潜水艦救難艦「ちよだ」、新井掘割水路を通って、掃海艇「はつしま」、掃海艦「ひらど」「あわじ」
護衛艦「はたかぜ」、補給船「ときわ」
ヴェルニー公園
日本の近代化を支援したフランス人技術者レオンス・ヴェルニーに名前が由来する公園である。ヴェルニーは1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導した。われわれ関西人には耳慣れない外人で、おおいに勉強になる。戦艦「陸奥」の主砲身はでかい。
ヴェルニー記念館
フランス・ブルターニュ地方の住宅を模した急傾斜の屋根と石の壁が特徴で、ヴェルニーの功績を紹介している。また、旧横須賀製鉄所(横須賀造船所を経て横須賀造兵廠)で使用されていた3トンと0.5トンの鍛造・圧延用スチームハンマー(国重要文化財)が移設保存されている。
どぶ板通りは、スカジャン発祥地にして横須賀きっての歓楽街である。夜になると、基地からのアメリカ人であふれる。
三笠公園。戦艦「三笠」が保存・公開されている。日露戦争日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した時、連合艦隊司令官東郷平八郎が乗船指揮した旗艦である。東郷平八郎の身長は153cmで低いなと思ったが、これは当時の日本男子の平均値である。モールス信号の利用価値として、人前で卑猥な言葉を伝達できると、不良じーさんがつぶやいた。例えば、トンツートントントン、ツートントントンツー……。
中甲板の資料展示
この後、汐入駅前のホテルにチェックインし、再び、横須賀中央駅あたりまで歩いて、飲み放題魚料理の宴会を開いた。
疲れていたせいか、カメラのフォーカスポイントがずれたことに気付かず、宴会の写真は全てピンボケ。
ホテルに帰還後、この日の万歩計は2万を超えていた。
先月は佐原でしたから真壁の今も見ておく必要があると思い出かけました。佐原ほど完璧ではないものの、真壁の東日本大震災からの復興もほぼ完了でしょうか。比較的最近になって震災の傷が癒えた建造物を震災のダメージが残る画像と比較して紹介します。
まずは駐車場のすぐそばにある平井家です。
前回、2018年6月の訪問時には修繕が完成していました。赤い自販機のみ変化がなく、他は震災の被害をを感じさせなくなりました。今後いくらかの風雪が建物に風格を加えてくれたら言うことがありません。平井家の近くの土谷家の蔵も見事に修繕が終了しています。
この蔵は修繕着手が遅く、2018.06月も工事途中でした。小型ですが雰囲気の良い蔵でしたから、元の姿に修復され我が事のように嬉しいです。この土谷家、一時住んでいる人がいない時期があったようで、住民が戻って修復工事も進み今に至っているように思えます。続けて蔵です。塚本茶舗の脇蔵です。とてもひどい被害を受けていました。
屋根の葺き替えが完了しています。足場がありませんから、漆喰の壁このままということなのでしょうか。内部の骨組みが露出しているところもあり、このままでは劣化が進むのではと危惧を感じます。壁の剥離も進んでおりもう少し手を加えるべきではと感じるのは私だけでしょうか。この蔵の側に修復が完全に完了した建物があります。木村家です。
もともとは種苗屋というか花屋というか焦点でありましたが、修復が完了してみると人の気配がありません。家はやはり人が住んで価値のあるもの、無住で外観のみ残ってもいささか寂しい気持になってしまいます。佐原にも無住になってしまった古民家があります。住宅から暮らしを無くしてしまったら住宅と呼べなくなってしまいます。最後は真壁伝承館から見える蔵です。
大きな蔵で文化財の指定はないようです。ここは外壁が完璧に修復されています。今回の真壁訪問では、震災前に戻ったなと強く感じました。ただ、村井醸造は未だに工事中です。
登録文化財ではないようですが、修繕の手が全くはいっていない建物も残されています。
いくつかの課題は残されているとは言え、重伝建を散策するのには十分な修復が完了しています。
これを将来とも維持してゆくためには、やはり観光収入しかないのでしょうか。
この日も朝は早めでしたが、誰一人として観光客には出会いませんでした。
観光での維持も簡単てはないようです。
所在地:岐阜県不破郡垂井町の垂井宿内
父は下戸でしたのでお酒に縁はなかったのですが、トリスウィスキーのCM のキャラクター「アンクルトム」がテレビ画面にウィスキーを片手にチョコチョコ歩いて登場すると、家族はみんなで笑いました。
顔の形とチョコチョコ歩く短足がまさに父そのものだったからです。
短足では二大爆笑事件があります。松坂屋でズボンの裾上げを依頼して帰宅したら、すぐに電話がかかってきました。採寸はしたのですが、本当に切ってもいいものかどうかと。裾上げのためにズボンの半分くらいは切り落とさねばならないほどの短足だったのです。
もうひとつの事件は、正座した人にはすぐにすり寄って膝に乗ってくる飼い猫が、うまく丸まれずに滑り落ちること(アンクルトムのようにやや太りめで短足なので、正座をすると腿から膝がほぼ直角になる)。猫は丸まろうと必死に努力をして爪まで立てるのですが、父の短足に勝てず転げ落ちて去って行くのです。
父を笑いものにする不肖の娘ですが、昭和の半ばにこのCMで大笑いした家族とまだ若かった父をなつかしく思い出します。(サントリー社発売、爆発的人気だったトリスウィスキーCM 柳原良平氏作品)
中山道歩きを趣味にしていますが、古い商店街に入ると当該看板とときどき出合います。看板にあるサントリーの社章「中央三角向獅子」は明治31年に商標登録されたもの。両側に立つ獅子は百獣の王として強さと威厳とさらに併せ持つ美しさから、紋章には多く使われるそうです。
楯にある二つのSは、ラテン語の「スピリタス サンクタス(SPIRITAS SANCTUS)」の頭文字。ウイスキーやブランデーは、昔「生命の水」と呼ばれており、良質な水を基本とするサントリーにとって意味の深い文字となります。
会社の名前には創業者の名前が入っていることが多いのですが、サントリーもご多分に漏れず、鳥井さんという創業者の方の名前です。当時の社のメイン商品であった赤玉ポートワインの赤を太陽に見立てて「サン」(SUN)に、名字の「鳥居」をつけて「サントリー」としたと社史にありますが、巷節ではトリイサンをサンを先にして読むとサントリイ→だからという説もあり、こちらの方が創業者の会社への思い入れが強く出ていていいのになぁ、と思います。
トリスウィスキーは国内では初めてサントリー社から発売されたウィスキーです。命名のトリスは矢張りトリイサンがらみで「Torys」で「鳥井の」という意味を持つそうです。
いづれも自社や自社商品に対する愛情がタップリ感じられます。そういえばサントリーレッドの「すこし愛して、なが—く愛して」という大原麗子のハスキー声のコマーシャルもありましたね。
商いは仕事を愛しながら飽きずに長く続けること。うん。サントリーの看板。地味ですが良い看板でした。
わが家は父譲りの下戸ばかり……しかし「サントリーの天然水」を愛していて、いざの時のためにも物置にも積んでいます。
89歳になる母のかね子さんは、大のカステラ好きで、私が子供の頃からカステラ系のおやつが家にあるのが普通だった。
切り分けて食べるカステラより個別包装してある文明堂のカステラ巻きが特にお気に入りだ。
文明堂のカステラ巻きはカステラをカステラで巻いたものだが、元祖カステラ巻きの伝播を調べると興味深い。
家の向かいにあるお寺の住職からおすそ分けで「かずまき」を頂いた。
奥様が大分県保戸島出身で、あんこを薄いカステラ生地で巻いたものだ。
昔、保戸島の漁師が対馬沖までカジキ漁に出かけた際、対馬から持ち帰って定着した郷土菓子だという。
先月対馬を訪れた際、ありました! 名物「かすまき」。語源はあんこのカステラ巻だ。
保戸島のよりもずんぐり太く、甘めのあんこがたっぷりと巻いてある。
参勤交代から帰った藩主をねぎらうための献上菓子だったらしい。当時、対馬は朝鮮貿易で繁栄し裕福だったようだ。
カステラ巻ならばやはり長崎が元祖なのだろう。出島から入ってきた「かすていら」は島原半島へ伝わりこちらにも同様の「かすまき」が存在する。
以前、小城の羊羹の話で、長崎街道シュガーロードの話をした。出島に入った砂糖は、長崎から佐賀、小倉、最終的に江戸へ運ばれて行く。
まさに「かすまき」は当時の最高に贅沢な菓子だったに違いない。
貴重な砂糖を惜しみなく使ったあんこを南蛮渡来の甘いカステラで巻いた夢のような食べ物だ。
「かすまき」は島原地方から発祥し、佐賀、熊本の一部そして壱岐、対馬にも伝わる。島原の乱の後、入植者が対馬に伝えたという説もある。
おそらく萩、津和野の「源氏巻」もかすまき系なのではないだろうか。
カステラ大好き母に「かすまき」を恵方巻きのように持ってガブリと食べさせてあげたいが、誤嚥が心配で今は刻み食。残念ながらどら焼きも今川焼きも区別がつかないだろう。
今月のニャンコ
世界遺産崎津のシンクロネコ
三歩進んで上見て振り返る。ふたり一緒だ。
猫がのんびり暮らしている地域は人も優しいのだろう。心地良い海風が教会に吹く。
Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
yuki at JAPAN GEOGRAPHIC (atを@に入れ替えてください)
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