MONTHLY WEB MAGAZINE Aug. 2013
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トピックス
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■■■■■ 「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」 瀧山幸伸
この夏休みは暑さと大雨をかいくぐって紀伊半島を巡りました。
どうしても訪問したかったのは玉置神社。この神社は熊野本宮の奥社とも言え、観光目的にはおすすめしません。地霊が穢れます。
修験者あるいはそれに近い目的で大峰奥駈道を体験したい人はぜひこの神社と近辺の縦走を。
麓は晴れていましたが、山頂の神に辿り着いたちょうどその時驟雨に見舞われ、体も機材もびしょ濡れになりましたが、社殿と背後の杉の巨木をよぎる霧がこの上なく美しく、感動しました。
大峯山への修験者の登山基地洞川は、ちょうど行者祭り。貴重な体験でした。
大台ケ原はかつての神秘性が薄らいでいるといいます。こちらは観光訪問にも良いでしょう。
熊野三山も良いですが、野迫川の平家落人伝説とか、丹生川上神社中社の古事記や日本書紀伝説など、今に続く神秘を味わいたい人にはこの地はお勧めです。
世界遺産とは関係ないですが、特別名称/天然記念物の瀞峡では小舟をチャーターしたのですが、たまたま川霧が出て神秘的でした。この映像は感動ものです。
詳しくは8月の索引から辿ってください。
■■■■■ 常陸太田 川村由幸
水戸のお墓参りのついでに震災のダメージが癒えた弘道館でも撮影しようと考えていましたが、調べてみると未だ震災のダメージは残ったままの様子。
震災ダメージの残っている状態は撮影済みでしたので弘道館訪問は諦めて、少し足を延ばして常陸太田市へ。
最初に訪れたのが、佐竹寺、徳川の前に常陸を治めていた佐竹氏ゆかりの寺。本堂が重要文化財に指定されています。
山門の屋根瓦に震災の傷跡が見て取れます。落下物注意の立て看板も出ていて震災のダメージがそのまま残っています。
茅葺の本堂には震災の影響は全く感じられません。なかなかに趣のある落ち着いた建造物です。
本堂に向かって左右の石灯籠が倒れているのも震災の落とし物でしょう。
そして本堂に近づくと驚くほどの三社札が貼られています。禁止の注意書きがなく貼って良いとの認識なのでしょうか。
文化財を守ろうという気持ちは持てないものなのでしょうか。
もう一つの国指定の重要文化財の建造物、旧茨城県立太田中学校講堂もたずねましたが、ここは屋根瓦をおろし周囲に足場を巡らせて解体修理と言えるほどの工事中でした。残念ながら撮影の意味がない状況でした。
確認はしていませんが、震災で大きなダメージを受け、それからの回復修繕だと考えます。
太田第一高校内にある建造物です。危険な状況のまま長くは放置できないでしょう。
常陸太田で皆さんがご存じなのは水戸黄門の隠居所の西山荘でしょう。
よく整備され、光圀が住んでいた時代を感じさせる雰囲気はよろしいのですが、ここの入場料がなんと¥700超、公営でなく徳川ミュージアムという法人の経営となっているからでしょうか、あまりの高額におどろきました。
建造物一棟と少し雰囲気の良い庭があるだけですから。
昼食に街中に出て、お蕎麦をいただきました。常陸太田市の金砂郷はそばで名高いところですから、もちろんおいしい蕎麦をいただき満足しました。
街中でも歴史を感じさせる建造物を多くみかけましたが、そのいくつかに生々しい震災の傷跡が残されていました。
ここも震災を引きずったまま、時間が止まってしまっているようでした。
最後に面白いお顔の仁王様がいるというので来迎院に向かいました。
ここは、茅葺の屋根も修繕されていて、震災を感じさせるものは何も残っていません。阿弥陀堂山門と阿弥陀堂が茨城県指定の文化財となっています。
山門左右の仁王像のお顔はコミカルで印象的です。本堂もそこそこの彫刻で飾られていて、三間堂ばかり見てきた私には特に立派な阿弥陀堂に見えました。
まだまだ、東日本大震災の影響が色濃く残る常陸太田市。八月の暑い一日を過ごしてみました。
柳生街道を圓成寺から奈良まで歩いた。初めて歩く道である。いつものとおり単独行である。メインルートは東海自然歩道だから心配ないが、芳山二面石仏と地獄谷石窟仏への道が未知数である。中型のリュックサックにカメラ2台、交換レンズ少々、三脚など詰め込んだので、結構重たいが、久しぶりのフル装備で何やら誇らしい。
奈良市東方の山については、心穏やかならぬ思い出がある。33年くらい前に小学生の息子とその友達を連れて、若草山の裏に入り、小さな谷の奥(鶯の滝の手前)で、首を吊った仏様を見つけたことがあった。後ろ姿が見えたので、近づいていくと、息子の友達が「ハエがたかっているからやめよ。」といってくれた。そういえば、両足の裏が見えていた。近くの旅館から警察に通報し、検死官の人たちを案内した。真夏の死後6日だった。その帰り、子供たちを連れて興福寺南円堂にお参りして、「亡くなった人は何にも怖くない。ご冥福をお祈りしてもう忘れなさい。」と言い聞かせた。しかしながら、わたくし自身は、とても忘れられない。その後、山歩きをしていて、誰かの後姿を見るとドキリとしてしまう。
その後、この辺りに近寄らなかったのは、このこともあったから。
日曜日である。JR奈良駅から円成寺に行くバスの便は午前中に2回しかない。午前9時34分発に乗る。7から8人の高齢者ハイキンググループと一緒だった。はしゃぐ声がうるさい。近鉄奈良駅前でさらに高齢者グループが乗ってきて超満員になって、さらにうるさい。
午前10時15分頃、ほとんどの人と一緒に忍辱山で降りた。彼らはまず圓成寺に行くらしい。私は直ぐに東海自然歩道に入り、奈良方面に向かった。木立の中の山道を快調に歩いた。途中、雨でV字型に掘れて歩きにくい登り道があったぐらいでたいしたことない。
午前11時30分頃、上誓多林の集落に着いた。石灯篭と地蔵石仏の写真を撮ってから、午前11時50分に八王子神社横に入り芳山へ向かう。近くの峠の茶屋のご主人が書いた略図がインターネットにあったのでそれだけが頼りである。
竹林から杉の植林地帯に移り、途中まではしっかりした道だが、やがて踏み跡程度になり、分岐を間違えないように注意を要する。略図にない分岐が少なくとも2か所あった。正しいルートだと白や赤のテープがあるので、確認できる。最後はきつい登りで立ち止まって休んだこともあったが、午後12時10分に二面石仏にたどり着いた。
この日一番驚いたのは芳山の帰りだった。誰もいないのに、30メートルほど離れた杉の木が突然メキメキと倒れ始めた。こちらに向かってこないし、途中でほかの杉の木に引っかかったので危険はなかったが、明らかに根本が朽ち果てて自然に倒れたのだった。山の中で倒木にはよく出くわすが、倒れる瞬間に立ち会うのは珍しい。
峠の茶屋でわらび餅を食べて、石切峠から地獄谷への道に入ったのが、13時10分だった。細い山道を進むと両側が崖の尾根道となり、始めは少しづつ下り、続いてジグザグに下ると崖に沿いう鎖場が出てきた。緊張しているのでアドレナリンの分泌も充分らしく、怖いとも思わず自動的に足を動かしている感じだった。雨の日は特に危険らしい。
少し登って、水平の道に入った。ただ、ルートが正しいのかどうか何の表示もないので、間違った枝道に入り込んだのではないかという不安は続いていた。何となく谷底に石窟があり、そこから反対側のドライブウェイに出るにはかなり登り直さなければならないとも思っていた。僅か20分くらいのことなのに、「先のことがわからない、迷ったと判明したら、上に戻るしかないが、しんどいやろな、戻れるかな」と弱気になった。すると、突然、中高年夫婦らしきハイキング人とすれ違った。地獄谷石窟はと聞くと、「あと100m位」とのこと。ホッとした。こちらからは、「これから石切峠までは結構きついですよ」とアドバイスした。
結局、石窟に着いたのが13時45分だったから、石切峠から半時間である。
地獄谷石窟仏から奈良奥山ドライブウェイまでの数百mは水平のしっかりした道なので、石切峠側に比べると散歩道みたいなものである。
国土地理院の二万五千分の一の地図でルートを顧みると、芳山がここらで一番高い山であり、石仏は頂上の直ぐ北にある。また、石切峠から地獄谷のコースはこのあたりでは珍しい岩場を下り、その後は水平に進んでいるのがわかる。また、地図の上部には、昔、「仏様」を見つけた鶯の滝がある。
最後の滝坂の道は石畳とはいえ、比較的平坦な自然石を並べただけだから、歩きにくいし、周囲は春日山原生林で山深く不気味である。
■■滋賀県の天然記念物に指定されているハスの一種「近江妙蓮(みょうれん)」、 守山市の市花でもあります。
■守山市中町の近江妙蓮公園で見頃を迎えています。約800本、淡紅色の見事な花が次々と咲きます。
■■現在500品種ほどあるとされるハスの花の中で、妙蓮だけの特徴があります。 「常蓮 (じょうれん 普通のハス) との比較」です。
■常蓮は外側に8層ほどの花弁がらせん状についていて、その内側には多数のおしべ群が、そして中央にはめしべと花托があります。
妙連には、おしべ群やめしべ群、花托がありません。
■■常蓮と妙連の横断面
両方のハスのつぼみの輪切り面。妙蓮は、めしべやおしべが変化した花弁がいくつもの群に分かれまとまっています。
■ 妙蓮は、一茎につぼみは一つですが、2〜12個の大花弁群がつきます。数は開くまで分かりません。
昔の人は、一茎二花は双頭蓮、一茎三花は品字蓮、一茎四花は田字蓮・・・・一茎十二花は十二時蓮などとそれぞれに固有の名前を付け花弁群をそれぞれ一つの花とみていました。が、植物学的にはすべて一茎一花です。
■大花弁の中は、更に中花弁群,小花弁群に分かれます。最小の花弁は米粒ほどの大きさです。
花全体の花弁数は2000〜5000個ともいわれ、最低2000個以上あると確認されています。
■中花弁群〜小花弁群〜大小の花弁
■常蓮は花が散ると花托の中に蜂須ができ、種も出来ますが妙蓮は花托が無いことから蜂巣がなく、種もできず、増殖は蓮根だけで行われます。
■■近江妙蓮さまざま
■つぼみ
■開花中
■終末
■■変遷
■伝来
妙蓮は、インドから中国へ、そして日本に伝えられたとされ、三国伝来のいわれをもつ珍奇なハスです。
妙蓮を日本に運んだのは、藤原鎌足の長男・定恵上人とも慈覚大師ともいわれています。
残存する記録によると、応永11年(1406)明国から足利義満に贈られた献物の中に「瑞兆」とされている妙蓮の蓮根が含まれていたか遣明使節が持ち帰ったとされ、義満がハスの生育に適した琵琶湖の辺で育てること田中左衛門尉頼久に命じられたとあります。
そして、応永13年(1408)には義満に妙蓮が献上されたとも書かれています。
江戸時代に入ると、天皇家、将軍家、大名、寺院に献上され、平和な時代の象徴のように珍重されたとも書かれています。
■■田中家は近江源氏の流れをくむ家柄で、現当主で三十八代を数えます。
この田中家には代々「妙蓮」に関する古文書が多数伝わっており、最古の古文書は「江源日記」で、応長元年(1311)から天文23年(1554)迄244年間の出来事が記録されています。
■中国からもたらされて少なくとも600年以上の期間、田中家で守り続けられ、今日、日本で品種名が固定できるもっとも古いハスといえます。
■■ピンチもあった妙蓮
室町時代からの記録を持つ妙蓮が原因不明で、明治28(1895)年を最後に一つも花を咲かせなくなりました。
このため大正15(1926)年「大日堂並びに蓮池保勝会」を設立し再生に立ちあがりました。
昭和33年(1958)、ハスの研究者大賀一郎博士が招請され、博士による妙蓮の再生研究が開始されました。
■江戸時代に、加賀藩主が田中家の妙蓮を移植した持明院(金沢市)に咲くハスを、大賀博士宅で移植栽培して、昭和38年(1963)実に68年振りに花がつき復活しました。現在は近江妙蓮保存会が結成され、大事に育成されています。
■蓮の花は白亜紀後期(約1億年前)には地球上に繁殖し、恐竜が棲息していた時代に「蓮は誕生」を見たとされます。
そして恐竜の絶滅後今日に至るまで、その姿を太古のままに伝える極めて貴重な植物です。
人間がハスを生活の中に取入れたのは、5〜6000年前とされ、その利用法は、衣食住すべてに亘っていたようです。
■現在のハスは、花の色が赤・白系である東洋産と黄色の花を咲かせるアメリカ産の2種類に分けられます。
■■大賀ハス
昭和26年、千葉県にある東京大学検見川厚生農場内にあった落合遺跡で、丸木舟の木片が見つかり、アメリカ・シカゴ大学の研究室での検査の結果、2000年以上も昔のものと判明しました。
それと同じ地層から3粒のハスの種が発掘されました。その内、一粒が大賀博士の手により奇跡的に発芽、翌年開花しました。
大賀ハスと名づけられ、花の直径が25センチにもなる大輪のハスで、千葉県は天然記念物に指定しています。
■■■■■ 博多湾をヨットで遊ぶ 田中康平
50年ぶりの福岡の夏をすごしている。暑い日ばかりだ。
7月の平均気温は福岡が30.0℃で全国929の観測地点中最高となった。
暑いわけだ。平年より2.8℃も高い。中国から熱気が押し寄せているようだ。
暑い時は海へ行くか山に行くか冷房の効いた美術館等どこでもいいから涼しいところへ逃げるほか無い。
そういう訳でもないがこの6月からヨットを始めている。
海の上は市街地より3−4℃は気温が低いが直射日光からは逃れるすべが無く思ったほど優雅な風情は無い、体育会系の遊びだ。
しかし体は動くうちは動かしたほうがまあ面白い。
遣隋使、遣唐使の昔から、というより縄文時代の昔からゴホウラ貝は南西諸島から全国に運ばれていたようだから帆船の歴史はその頃までに遡る。
蒸気船になる前はすべからく帆船の時代だった。博多湾に数多く浮かぶヨットの姿は形は変わるとも古代よりの姿なのだろう。
ヨットを学ぶのは全くの初めてだ。ジブセール付きのディンギー(キャビンの無いヨット、通常1−2人乗り)でタッキング(風上ターン)、ジャイビング(風下ターン)の練習をしながらコースを走っているがなかなかうまくならない。
主に使っているのは全長5m弱のシーラークという艇だ。メインシートだのジブシートだの(それぞれロープのこと)ヨットは日本には明治の初めに伝わったイギリス系の遊びだから少しくせのあるカタカナ用語で埋められている。
用語を覚えるだけで結構時間を費やす。そこには船を操る日本の伝統の残滓は見出すことができない。
ヨットで困るのは風が無くなった時だ。手持無沙汰にただただ喋っているほかない。しかし殆ど初対面の同乗者と四方山話をするそれがまた面白いようにも思えている。
こんなことは帆船の時代から同じように繰り返されてきたのだろう。こんなことに何か文字として伝わらない海の世界のかけらがあるようにも思えている。
内陸の栃木から福岡の街に戻ってきて改めて感じるのは海だった。海を巡る歴史であり、海そのものだった。
元寇の歴史、博多の港から船出した神功皇后の三韓征伐の伝説や遣唐使、遣隋使、防人。
もたらされた金印ばかりでない、稲作の文化も船で最初にこの地に大陸から伝えられている。
神社も住吉神社にしろ宗像神社にしろ志賀海神社にしろ海にまつわるものばかりだ。
しかし今に伝わる古代船の遺跡があるわけでもなく船の技術が残されているわけでもない。船を操ることの歴史はこの地では殆ど見つけることができない。
とはいえ博多湾という地形、島伝いに半島や大陸に至れるその位置、そこに吹く風、潮の流れ、それが海を行きかう歴史そのものを見るものに感じさせる。
伝わる歴史というものは文字や言葉でない変わらぬ舞台そのものということもあるのだとの気がしてくる。
穏やかな博多湾に遊びながらここに流れる長い時間を感じるのも夏の過ごし方としてはなかなかだ。
今年の夏は七月末からずっと暑く、撮影にもあまり行きませんでした。
そんな中、撮影したものの中からダイジェストで紹介します。
7月21日は午前中に禅寺を二箇所回りました。
暑さの影響か、訪れる人が少なかったです。
わりと多くの人が訪れていました。
方丈の屋根の修理が終わり、こけら葺きに復原されていました。
障壁画や天井画はキャノンの技術により複製されたものになっており、すべて撮影することができます。
8月1日は子供の夏休みの宿題を兼ねて、家族で奈良を訪れました。
時ならぬ土砂降りが降った時間帯は、幸い東大寺ミュージアムに入っていました。
8月3日には午前中に五箇山と白川郷を訪れました。
日中の高山市街の撮影は暑すぎて失敗を重ねたので紹介できる水準ではありません。
旧遠山家住宅
8月16日の夜、子供を連れて送り火見物ですが、今年は、嵯峨鳥居本の鳥居形松明を間近で見ることにしました。
鳥居形の撮影といえば広沢の池や嵐山で燈籠流しと一緒に撮影するのが定番ですが、どうしても送り火そのものが遠く小さくなるので、清滝道ぞいに麓に近い鑑賞スポットで撮影しました。
点火の瞬間、種火から松明を持った保存会の方が走るのが見どころで、その瞬間を狙っていたのですが、直前にやってきた東海地方の某バス会社のツアーバス3台が前をふさぎ、あわてて移動している間に松明の移動はほぼ終わってしまったのは残念でした。
まだまだ残暑が続きますが、なんとか撮影を続けていこうと思っています。
というか、編集して投稿するのがのびのびになってしまっているのが少し情けないです。
(江東区亀戸にて撮影)
初めの製品名は「ゴキブラー」しかし類似品を防ぐために販売に待ったがかかる。
「ごきぶりホイホイ」は会社更生法を適用されて大塚製薬の傘下になったアース製薬を3年あまりで再建させた救世製品である。
1970年、社内で除虫菊の研究をしていた西村昭がごきぶり生態の研究に着手。
1971年、ごきぶり誘引剤の開発に成功。アメリカの家庭用品雑誌の『ワンダーラットボード』という粘着式のネズミ捕りの広告を見つけ、粘着剤で捕獲することで「ゴキブリを見ないで捨てる」ことが可能になると思いつく。
1972年3月、西村をチームリーダーにした社内プロジェクトが本格的に動き出す。
当時のアース製薬は粘着剤の技術が低かったため、粘着シートではなくチューブ入りの粘着剤を採用する。
ゴキブリの習性を研究し、壁に密着させるために断面を五角形にしたり、入り口を登り坂にすることでゴキブリの触覚が粘着剤を感知するのを防ぎながら後ずさり出来なくするなどの工夫を施した。
1972年5月、試作品が完成し、社内公募によって製品名も「ゴキブラー」に決定。
ところが、大塚製薬の大塚正士社長から「非常に面白い商品だ。ただ、今市場に出すとすぐに類似品が出回る。1年待ってその間にもっと練り上げなさい」との指示が出る。
西村は約1年間を費やして、さらに細部を改良して他社の捕獲器との比較テストなどを繰り返した。
そして正士社長が「“ゴキブラー”はおどろおどろしい」との理由から、もっと親しみやすい「ごきぶりホイホイ」という商品名を考案しパッケージデザインをアースの正富社長自身が筆をとって描き、ようやく製品が完成する。
一年後、市場に出る。当初250円の予定が価値ある製品なので450円と決定!
1973年、アース製薬は満を持して、世界初の粘着式のゴキブリ駆除製品の「ごきぶりホイホイ」を市場に投入する。
テレビCMには、アース製の蚊取り線香「アース渦巻」も担当した由美かおるを起用した。
これまでのゴキブリ駆除器と比べて圧倒的な捕獲力で、大ヒット商品となる。生産が追いつかず、スーパーの担当者が問屋を通さずに坂越工場(兵庫県赤穂市)まで直接トラックで現金を持って仕入れに来るほどの事態となった。
製品価格は、当初は250円の予定だったが、正士社長の「原価が安くても消費者にとって価値のある商品だから450円にしなさい」との指示が出ていた。
収益率が高い「ごきぶりホイホイ」の大ヒットにより、アース製薬は、倒産(会社更生)から3年あまりで再建に成功するとともに、害虫駆除メーカーとして不動の地位を確立した。
その後、他社から類似製品が発売されたが、アース製薬は、殺虫・防虫業界のシェア48%のトップメーカーとなっている。
(以上、社史そのほかより抜粋)
気の毒だけど、ゴキブリは衛生害虫。
衛生害虫(えいせいがいちゅう)とは、人間の衛生環境を悪化させる害虫のことだそうです。
人の血を吸うもの、咬んだり刺したりする害虫、人や食品などに触れることで不潔にし、場合によっては感染症の病原体を運び、人々や食品加工業などに多大な影響を与える害虫のことをいい蚊、ダニなどもその中に入ります。
ゴキブリが撒き散らす菌は、大腸菌やコレラ菌や赤痢菌、チフス菌、サルモレラ菌などだそうで、研究ではピロリ菌も持っているという説もあるそうです。
食中毒の大きな原因になる細菌が歩いているって思ってもいいそうです。
同じ様な形のカブトムシが大事にされているのに……と思わないでもありませんが、やっぱり、気の毒でもごきぶりホイホイを買ってしまいます。
しかし、価値あるものは高く売れる、という企業経営者の判断はすごい!と思いました。
企業の命のかかった製品。社長自らが筆を取って製品名を書いたごきぶりホイホイの文字。
街で見るたびに、ごきぶりには悪いですが、親しみを感じます。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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