Monthly Web Magazine Aug. 2015

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トピックス

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■■■■■ 弘法じゃないから筆を選ぶ 瀧山幸伸

いつもどんな機材で撮影しているんだろう?と興味がある人には有益な情報です。

「弘法筆を選ばず」との格言がありますが、こと撮影機材に関しては筆によって結果が大きく左右されます。

機材は日進月歩ですし、各通信員には個別のニーズがあり、相談にのったり、通信員どうしで情報交換することが多々あります。

私自身、「まず隗より始めよ」で、率先して機材を導入しますが、やみくもに導入しているわけではなく、徹底的に情報を調べます。

残念ながら日本の情報サイトは、価格情報サイトほか、消費者向けプロ向けともにあまり役立ちません。

特に動画に関しては日本の情報は相当遅れており、ハリウッドほか欧米でのプロ向けの情報、あるいはプロ向けの機材展示会などでのメーカー開発者レベルの情報が必須となります。

動画撮影の特殊機材に関しては日本にはメーカーもほとんどなく、お手あげ状態です。

私の撮影の必要条件を挙げます。

1.静止画と動画を一台の軽量な機材で撮影できるカメラ

身軽な行動が最優先です。(私は基本的に動画撮影、家内は基本的に写真撮影です)

2.静止画8K,動画4Kで撮影できる高解像度のカメラとレンズ

静止画あるいは微速度撮影(タイムラプス)は将来のスーパーハイビジョンを見越して8Kのサイズが好ましいです。

動画は4Kが美しいですし、劇場上映向けに使えます。4Kであれば静止画の切り出しも可能です。

3..暗所、高感度に強いカメラとレンズ

寺院や古民家など暗所での自然光による撮影が多いので、高感度も必要です。フラッシュやビデオライトは臨場感を損ねるので使いません。

4.街歩き番組のように歩きながら動画を撮影できる安定装置(ジンバル)

京都あるいは祭りのように三脚不可の場合も多いですし。

これらの条件を満たすのは、1台で静止画8Kと動画4Kが撮影できる小型軽量の高感度カメラ、明るく解像度に優れたレンズ、手持ちで動画が撮影できるジンバル、の3点です。

使用機材名を挙げるのは好きではないですが、今はこんな感じです。

カメラ(2015年8月15日以降): Sony A7RII+EFレンズアダプター (メーカーにはこだわらず、その時点で最も合理的な機材を調達していますが、手持ちのCanonレンズが多いので、それらが使えることが重要です。)

レンズ: Canon TS-E17mm F4L (あおりレンズは建物や街並撮影に最適で、解像度もトップクラスです) 他にEF24mm F1.4Lなど、その場に応じていろいろ。

ジンバル(2015年8月1日以降): DJI Ronin M (手持ちでも安定した動画が撮影できます)

マイク、録音: Rode stereo video mic pro + Zoom H6(音は臨場感の源泉で、映像よりも重要です)

ハリウッド映画のように性能にこだわればきりがないですが、妥協も必要です。思い起こせば数年前、RED ONEという映画用の4Kカメラが出た時、重いカメラとレンズ、プロ用のザハトラという超重量級の三脚で撮影したことがあるのですが、腰が痛くなったり船から落ちそうになったりと、身の危険を感じたのでやめました。

新しいカメラとジンバルを使って撮影したのが8月15日の丸の内明治生命館銀座日本橋浅草です。

4Kビデオのジンバル撮影のサンプルはこちらの浅草です。そのページに2Kですが秋田竿灯でのジンバル撮影のサンプルもあります。

能書きの割には下手ですが、ジンバル撮影は初めてで試行錯誤中です。今までの三脚とスライダーによる動画撮影に比べ、はるかに表現力と機動力が増しました。

ちなみに、最近の家内の撮影機材は、高感度に強いCanon 6D/5DIII+EF70-200mm IS II F2.8L(またはF4)と、広角と機動力に優れたCanon M3+EF-M 11-22mmです。

私の機材は4Kg程度ですが、一日持ち歩くとかなりこたえます。家内の機材も二丁拳銃、時に三丁拳銃で重く、苦労をかけています。

一般的な通信員向けの撮影ガイドラインはこちらです。


■■■■■ 熱波の記憶 大野木康夫

今年の夏は高温が続き、初老の身にもこたえるような状況となっています。

この状況の中で、今まで経験した中で一番暑いと感じた日の記憶がよみがえりました。

平成9(1997)年の8月末、台湾の台南で経験した暑さです。

その頃、職場の大先輩と一緒に、たびたび台湾旅行に行っていました。

大抵の名所はほぼ行き尽くしたので、その夏の旅程は、すごく変わったものになりました。

関空→桃園空港→花蓮(泊)→バスで梨山経由→台中(泊)→日月潭(泊)

→水里→台南(泊)→天池→台東(泊)→台北(連泊)→帰国

といったもので、台湾の高山地帯を横切る中部横貫公路(花蓮〜台中)と南部横貫公路(台南〜台東)のバス旅がメインでした。

残っている紙焼き写真(APSカメラで撮影したものであまり質がいいとは言えません)でこの旅程を振り返りたいと思います。

8月23日

台湾の玄関口桃園空港で復興航空の小型機に乗り換えて空路花蓮へ

花蓮といえばタロコ(太魯閣)ですが、すでに訪問しており、市内でのんびりしました。

8月24日

今では運行されていない直通バスに乗って台湾有数の山岳道路である中部横貫公路越え。

東海岸の花蓮からタロコを抜け、大禹嶺から梨山を通って西海岸の台中まで、普通にいっても10時間超の長丁場です。

花蓮駅を8時に出発

アクシデント発生。

タロコの手前でバスが落石を車軸に引っ掛けて故障、長時間の足止めになりました。

6時間後、替えのバスがようやく到着して運行再開。

天祥から大禹嶺を越えるあたりまでは数枚の撮影をしていますが、景勝地梨山はすっかり闇の中、台中到着は深夜の0時過ぎになってしまいました。

8月25日

台中からバスで、台湾最大の湖である日月潭へ。

標高が高いので、暑さもましでした。

8月26日

日月潭からバスで水里へ行き、そこから鉄道を乗り継いで台南に行きました。

この日は快晴、台湾でも暑いといわれる台南はひどく暑く、赤嵌城の見学中に気分が悪くなり、観光を切り上げてホテルで涼んでいました。

後にも先にも、暑さで観光をあきらめたのはこの時だけです。

8月27日

台南から南部横貫公路越えで台東へ

台南駅から里芋アイスで有名な玉井を通って天池までは興南客運、天池から台東駅までは台湾客運(当時)の2本のバスを乗り継いで行きました。

最高所で標高2,775mのところを通る高山道路です。

途中、梅山口から先の乗客は私たち二人だけ、台湾客運のバスの運転手は名所で止まって写真を撮影させてくれました。

台東に着くと、大型で強い台風16号が台湾に向かっており、風が強くなってきました。

 

8月28日

台風接近に伴う強風の中、復興航空で台北松山空港に向かいました。

台北到着後は陽明山に行きましたが、強風で観光もままならず、早々にホテルに向かいました。

8月29日

台風16号の直撃により、1日中暴風雨の中で過ごしました。

8月30日

帰国前に、早朝から鉄道を乗り継いで、十分瀑布に行きました。

雨の中、線路脇を歩いていくのは楽しかったです。

台風の影響で滝は増水しておりすごい迫力でした。

本当は危険なので観覧禁止だったのですが、受付の人に徹底されておらず、私たちだけが見ることができたようです。

この頃の紙焼き写真を見ると、撮影数も少ないうえ、何を撮っているのかわからないものも混じっており、記録としては物足りないものになっています。

デジタルカメラや大容量の記録媒体、ハードディスクの出現によって、記録量が増え、大量の写真データを安価に蓄積できるようになった便利さを、暑さの記憶をたどることによって、今更ながら実感することになりました。


■■■■■ 御笠(みかさ) 〜宝満山の里〜 末永邦夫

筑紫野市に御笠と言う地区があります。

この地区は積極的に市のまちおこし活動を行なっています。

御笠まちづくり振興会が「御笠地区 歴史・自然散策マップ」を作成していました。

これを見て、映像化することを提案。

「マップ」をベースに映像化するプロジェクトを発足。

約1年かけて、四季の風景とお祭りを取り入れて作成したものです。

 

 


■■■■■ 安楽寺のカボチャ供養 中山辰夫

住蓮山安楽寺(京都・左京区)、普段は非公開ですが春と秋、カボチャ供養の日だけは特別公開されます。大野木さんの投稿にある通り11月の紅葉は見事なものです。安楽寺は、1207年に起こった「建永の法難」時の住蓮上人・安楽上人・松姫・鈴姫を今も手厚く供養しています。

安楽寺では毎年7月25日 「中風まじない鹿ケ谷カボチャ供養」が行われます。当日お参りすると、煮込んだ鹿ヶ谷カボチャが頂け、中風にならないよう祈願してもらえます。220年続く伝統行事のようです。

寺伝によると、鹿ヶ谷カボチャは、寛政年間のはじめ(1790年頃)、京都の粟田に住んでいた玉屋藤四郎(たまやとうしろう)が青森県に旅行した際にカボチャの種をお土産に持ち帰り、鹿ヶ谷の庄米兵衛に与え、当地で栽培したところ、突然変異して、ひょうたんの形になったといわれています。

この頃、当寺の住職、真空益随(しんくうえきずい)上人が本堂でご修行中、ご本尊阿弥陀如来から「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る舞えば中風にならない」という霊告を受けられたそうです。以後7月25日を供養日に定め、今日に至っています。

 

会場は書院です。瓢箪型をした鹿ケ谷カボチャは1987(昭和62)年に、『賀茂なす』『聖護院かぶ』『壬生菜』『堀川ごぼう』『九条ねぎ』『すぐき菜』などと共に、京都の伝統野菜に指定されています。

参拝客で一杯です。当日の受付・調理・配膳などは、檀信徒の方々のお手伝いですべて準備されます。ホクホクの甘みのある味付けでした。

頂いた後は、風鈴の音を耳にしながらゆっくり庭をながめ、虫干しを兼ねて公開されている本堂の「安楽寺縁起絵」「剃髪図」「九相図」などの宝物(掛け軸)十数点の秘宝を鑑賞し、説法を聴いて終わりです。

この日は、京都の年中行事である「神光院 きゅうり封じ」「真如堂の宝物虫干会」も行われます。

 


■■■■■ 東北の夏祭り 川村由幸

8/2〜4の三日間、東北の夏祭りを見て廻りました。

東北も暑くて、体力ばかり消耗するあまり感動のない時間を過ごしてしまいました。

まず第一の失敗は祭りの混雑から旅行の段取りを自分でせず、旅行会社のツアーに乗ってしまったこと。

それを実感したのが最初の青森ねぶた祭りでした。

ツアーでは観覧席を予約しておいてくれます。座って見物できるのだから、写真撮影も楽にできるのだろうと想像していました。

ところが、決められた場所に座っているということは、自分の望む画角でカメラを構えることができないのです。

今回の観覧席が丁度交差点の角で見物人が横断歩道を渡るため、警備員が目の前に常駐状態で常にファインダーに入っていました。

さらに残念だったのは画像を見ての通り、ねぶたがビニールシートで覆われているのです。

カミナリがゴロゴロ、祭り開始直前には雨も降ったようですから、祭り初日でねぶたを雨に濡らせないのは当然です。

仕方がないとは言え、ただ四角いねぶたはあまり美しくもなく感動もしません。

二日目は秋田竿灯まつり、ここも観覧席の一番前で、見物するには最高の席でした。

ただ、竿灯を撮影するには、真上を見上げるようにカメラを構えるしかありません。画像の歪みは極限です。

さらに最初のねぶたの時も同様でしたが、目の前を移動する祭りの演者たちを撮影した画像は全てブレていました。

三脚とリモートシャッターを使用していましたが、シャッタースピードが遅く、その間に人が移動してしまうのです。

要するに夜の撮影ノウハウを知らな過ぎるという、自分の撮影に対するスキルの低さを実感させられたのです。

最後は盛岡のさんさ踊りを屋内での見学です。この日の盛岡は35℃超、とても屋外での鑑賞は無理でした。

さんさ踊りはミスさんさばかりがもてはやされますが、実はそれ以外のもっと地域別にその土地特有のさんさ踊りがあるようで、そこにこそ、このお祭りの神髄があるように思えます。

さんさ踊りもねぶた、竿灯と同様、夜に目抜き通りを踊りながら行進するというのが祭りの本番ですが、今回それは見学せずに帰京しました。ツアーですから仕方ありません。

そして、さらにさらにの失敗がありました。

今回、もちろんお祭りの動画を4Kで撮影したのですが、いままで建造物ばかり撮影していて、動くものを撮影する知識がないために動画は全て失敗でした。

それも、帰宅して撮影したものをPCで確認して初めて認識する事態で本当にがっかりしたものです。

対象が激しく移動するため、カメラが自動でピント合わせを行う時にピントがズレ、画面がぼやけるのです。

その後ピントが合いますので動画にボケた画面が挟まる結果となってしまいました。

暑い中、機材を抱えて(今回軽くはしましたが)出かけた割には、成果の少ない三日間でした。

もう少し、撮影知識とスキルを高めなくてはいけないと実感しております。

 


■■■■■ レクイエム 酒井英樹

先日某工事の完成検査で滋賀県長浜市余呉の山中に行く機会があった。完成検査とはいえ工事内容は今まであった施設の撤去工事であり、本来計画されていた構造物の完成検査ではなかった。

当初の計画ではこの場所に今から5年前の平成22年(2010)までに堤高145mという国内屈指のロックフィルダムを完成させる予定であった。京阪神の水需要を賄うため計画され昭和55年(1980)に事業を開始した利水と治水の両方の機能を持った総合ダムの高時川ダム(丹生ダム)の建設事業があった。

しかし、最近になって下流域の水需要の減少による水余剰問題が発生し、経済的な都合で計画は大幅に変更され、総合ダムから治水ダム(洪水を抑えるために特化したダム)として建設されることになった。しかし、ダムを作るよりより安価な遊水池等他の事業でダムの治水機能を十分補えるとされ、昨年ダム計画自体を中止することとなった。しかも事業が開始され四半世紀以上経過し、後はダム本体とダム関連の工事(地盤改良、輸送用の道路や県道の付け替え)を始めるだけの段階での中止であった。

ダム建設における哀愁と言えば、ダム湖に沈む村々となる。かつて住んでいた故郷が水の底に沈んで消え去ったという話は全国各地でしばしば聞くことがある。

高時川ダムの水没地にもいくつかの集落が点在し、各々林業(製炭)を生業としていた。今回その一つである、鷲見という集落・・いや集落跡地を訪れた。ダム事業で建設段階を迎えると言うことは集落の移転が完了しており、鷲見も平成7年(1995)に廃村となっており、現在では住民はゼロで住居も全く見当たらない。

現地に立った時、言葉を失った。

鷲見は滋賀県の湖北地方に位置し山間にある集落で、冬は多いときで6メートルを超す積雪がある豪雪地帯でもある。そのためかつては『伊香造余呉型住居』と呼ばれる湖北地方独特の住居が並んでいた。

 

<写真1> 『伊香造余呉型住居』の典型例として重要文化財に指定された田中家住宅(長浜市西浅井町にて、平成27年撮影)。屋根は本来茅葺きだが、現在は鉄板に覆われている。

<写真2>かつての鷲見集落。川沿いに茅葺きのままの『伊香造余呉型住居』が並ぶ。【「日本の集落第2巻」より】

<写真3>現在の鷲見集落跡。<写真2>と同じ場所。建築物は全て撤去されており、草木に覆われている。

鷲見の集落は往時(昭和30年代)には21戸、人口100人が住み、ダム計画が進んだ平成3年(1991)でも16戸、人口37人が暮らしていた。<写真2>がカラーということでも分かるように建物は近年まで残っており、昭和52年(1977)公開の松竹映画『八つ墓村』のロケ地となり冒頭で散見できる。

だが、現在ではかつての姿を容易に想像できない。草むした石垣跡やかつて利用されてたであろう小さな橋の鉄骨が残っているのみだ。

<写真4>集落跡地の石垣

<写真5><写真6>往時には幾つもかけられた生活用の小橋(写真2にも見受けられる)の残骸 

<写真5>平成22年頃撮影

<写真6>平成27年撮影

 

途中通過した他の水没予定地の集落跡も同じであった。何も残っていない。現地に立って私が感じたのは虚しさであった。何かが込み上げ、なぜだか目頭が熱くなった。

ダムによって水没するため消えた村ならいざ知らず、ダム事業に翻弄され消えた村。消える必要の無かった村。

「自分は何をしてきたのだろうか??」

よかれと思って事業を進めた側の立ち位置のある私にとって、現在の状況はとても正視することができず、ひどく胸に込み上げるものを感じると同時に痛む思いであった。

そして、なぜ20年前に訪ねなかったのか・・何も残せなかったことへの苛立ちと・・後悔している自分が哀れにも立っていた。

 気分を変え、帰路休憩に余呉町菅並集落に立ち寄った。

<写真7>〜<写真13> 『伊香造余呉型住居』が立ち並ぶ菅並集落

菅並集落は高時川ダムの建設予定地の下流にあったためダムによる水没予定地を免れた。そのため、『伊香造余呉型住居』が多く点在していた。

残念ながら、<写真1>の重文の田中家住宅と同様に茅葺きの屋根を鉄板で覆われており趣を減少させてはいるが、積雪時には絵になるだろうなと思える風景であった。「1棟くらい茅葺きの屋根があるだろう・・」と時間があったので集落をくまなく探したが、集落の北端にあった旧社務所でさえ鉄板に覆われており、見つけることが出来なかったが、最南端に1棟だけ茅葺きの屋根が見える家を発見した。偶然にも覆われていた鉄板をはがしていたところに出会えた。

だが残念なことに、取り壊しの最中であった。

<写真14>〜<写真17>取り壊し中でかつての茅葺きの屋根を露出していた住宅

案内してくれた近所の人に聞いてみたところ、「子供たちが都会に出て・・、そして住む人がいなくなって・・、取り壊して処分している」とのこと。

未だに多く残っている菅並の集落でさえ、よくよく見ると更地が目に付く。最盛期には集落で80棟以上の『伊香造余呉型住居』が存在したそうだが、現在では30数棟になっており、そのうち現住住宅は20棟ほどで、しかも、住人のほとんどが60歳以上だそうだ。

<写真18>かつて住居があったが取り壊され更地化した土地

重伝建造物地域にも指定されていないため、行政等に保護されることなく無住の住宅もいずれは壊される運命だそうだ。

「ダムが完成すればこのあたりももっと良くなるはず・・・」

と案内してくれた人は言うが、期待に顔をほころばせる彼女にダム事業が中止になったことを私はとっても口に出せなかった・・。

そして、ここでも「なぜ20年前に訪れなかったのだろうか?」と大いに後悔。

「積雪時期にもう一度訪ねてくださいね・・雪景色は一見の価値がありますから・・。でも、それもあまり時間が無いし・・もうその時にはこの家はないけど・・」と寂しそうにしていた案内してくれた人の言葉にうなずき、今後もこのままで残っておいてくれることを願って菅並を後にした。


■■■■■ 雑草雑感 田中康平

 暑くなった、草がよく伸びる。もう2年半になるが九州に来て思うことの一つは雑草が多いことにある。

北関東では見たことのない草花がここ福岡では湧くように庭に現れる。土壌は火山性の砂のような土地でとてもいいとは思えないが雑草はよく生えてくる。

雑草という草はないとよくいうが、こちらに来ると繁殖の獰猛なところや姿かたちから雑草としか呼べない気持ちになる草が多いように思う。

例えば、ウラジロチチコグサと呼ぶ草は抜いても抜いてもはびこってきて花も気持ちよくない。南アメリカ原産で国立環境研の侵入生物データベースに登録されていて、侵略的となりつつあるとの注記がついている。関東以南の分布となっているが宇都宮では見かけなかったように思う。庭に張り付くようにして広がっていく様はいかにも雑草だ。

そんな嫌われ者ではなく、いつともなく庭の中に現れ根づいていく雑草のような植物もある。この時期目立つのはヤブミョウガだ。これも同様に関東から九州に分布とあるが北関東で見た記憶はなく福岡では目立っている、雑草というほどに不快さを与える植物ではないが丈夫で枯れて空になった鉢がたちまち占領されてしまうところなどは雑草としての資格があるような気がしている。もともと東アジアだけの植物なので侵略的という気はしない、正統的雑草というべきかもしれない。ともかく南では蔓延る生き物が多い。

最近気になっているのがこれも空いた鉢に勝手に伸びあがってきたイヌホオズキの仲間だ。今も花が咲いて実もなっている。実のなり方から見てカンザシイヌホオズキと呼ばれている種類のテリミノイヌホオズキのようだと判る。可愛い花で雑草とも思えないのだが調べていくと雑草と扱われているようだ。実には毒が含まれているとあり食べられない草となっている、生命力が強く大豆畑に多数発生することがあるという。役に立たない雑草として駆除法がいくつか示されていて、農業生産を妨げる厄介な雑草とされている。北アメリカ原産の植物ではあるが帰化したのは古いらしく、昔から国内で蔓延っているようだ。庭に現れるとそんな迷惑な様子は感じられず、哀れにも思ってしまう。

この他ハゼラン、ユリズイセン、シラーペルビアナ,マツバウンランなど、見たこともなかった草花がいつの間にか庭に次々に現れなんとヤマノイモの花も咲き開いている。

いずれも勝手に現われてきた植物だ。十把一絡げに雑草というのも抵抗があるがほっておくと庭や鉢が次第に占領されていくので適当に抜いている、抜くのも一仕事だ。やはり雑草といいたくなる。

南に来ると生き物の活動が活発で自然と調和するより負けるものかとばかり自然に対抗していく心が少しばかり強くなるような気がしている。

地球温暖化は人以外の生き物にとって力を与え勢力を拡大させる、そんな潜在的な恐怖が温暖化対策に人の心を駆り立てているのではなかろうか、全地球の生き物に平等に発言権があれば温暖化支持が圧倒的に多いのではないか、地球を守るとは何なのだろうか、そんなことも考えてしまう。

雑草であれ結局は共に生きていくしかない、と言うべきなのかもしれないが。

写真は順にウラジロチチコグサ、ヤブミョウガ、テリミノイヌホオズキ、ハゼラン、ユリズイセン、シラーペルビアナ、マツバウンラン、ヤマノイモ

 


■■■■■ タクシーの運転手さんとの対話 野崎順次 

親父が生きていたころ、いつもタクシーの運転手さんと長話をしていた。私はそれが嫌で、「男の喋りはみっともない。」と内心思っていた。ところが、自分が年をとると同じように話しかけるようになった。そうすると、思いがけない情報や身の上話がきけることがある。

そんな話を三つばかり。

秋田県秋田市

交通の便など考えあわせると、大阪から一番遠いと感じる都市は秋田である。せっかく東北の最奥部に来たのだから、ズーズー弁が聞きたいと思った。とりあえず、タクシーに乗って、どこに行ったら聞けるかと尋ねた。すると、「お客さんの大阪弁は面白いなあ。まるで漫才を聞いているみたいだ。」と運転手さんに云われた。

静岡県静岡市

浅間神社の賤機山古墳を見た後、タクシーで静岡駅に戻った。運転手さんは土地の人である。

私 「あの古墳は石室に扉が付いて勝手に入れないけど、昔は自由に入れて、子供たちののよい遊び場だったんでしょう。」

タクシーの運転手さん 「よくご存じで、子供のころはよく中に入ってました。小学生5年のころ、友達数人とあの古墳の近くの斜面に体がやっと入るほどの穴を掘ったことがありました。私が中に這って入った途端に天井がつぶれて塞がってしまいました。直ぐに友達が足を引っ張って外に出してくれました。友達がいなければ身動きもならず、死んでいたと思います。その体験が余りに怖かったので、それ以来、じっと同じところにいるのが嫌になりました。」

私 「閉所恐怖症なんですか。地下鉄が怖いとか、トンネルが怖いとか。」

タ運「いいえ、地下鉄やトンネルはその中で自由に移動できるから怖くありません。とにかく、一箇所にじっとしているのが嫌です。だから、普通の会社勤めができません。自由に動けるタクシーの仕事を選んだのです。」

私 「ほな、天皇陛下にはなれませんね。」

タ運「絶対に無理です。」

岐阜県岐阜市

岐阜にちょっとした用事があり、娘夫婦と一緒にタクシーに乗った。私は助手席に座った。岐阜市内に金華山という小さいながら急峻な山があり、その山頂に岐阜城が立つ。車に乗り込んですぐに運転手さんに話しかけた。

私 「(全くのヤマカンで)あなたは78歳でしょう。」

タ運 「当たりです。」

私 「金華山の上の岐阜城はコンリートですね。」

タ運 「そうです。戦争中まで(再建)木造のお城が残っていましたが、浮浪者が住み着いて、たき火で火事を出して焼けました。戦後に、コンクリートで再建されました。それはそうと、あの山頂には水がよく出る泉があって、今はそれほどではないですが、私が子供のころにはゴボゴボと水が湧いていました。」

私 「へーえー、山頂にゴボゴボとねえ。今はロープウエーがありますが、歩いて登られたことがありますか。」

タ運「500回以上登っています。」

私 「時間はどのくらいかかりますか。」

タ運「普通の人で2時間くらいかなあ。私は登山をしてたので、金華山くらいは走って登ってました。日本の3千メートル以上の山は全部登りました。」

私 「そーですか。山岳部だったんですか。」

タ運「えー。岐阜じゃなく名古屋の大学の山岳部でした。」

私 「冬山や岩もやってたんですか。」

タ運「冬山もロッククライミングもしてました。岩壁でぶら下がって寝たこともあります。」

私 「仲間で亡くなった方もおられますか。」

タ運「けっこういました。穂高では親友が死にました。私は麓にいたのですが、彼は上で新人を訓練してました。馬の背のような所で、ロープで繋がっていた新人が滑落したので、同じ方向に落ちないように親友は反対の谷にわざと落ちたのです。でも、宙づりのまま結局死にました。」

私 「そーすると、滝谷側に落ちたのですねえ。」

タ運「ええ。」

私 「ヒマラヤには行かなかったんですか。」

タ運「海外にはいきませんでした。お金がなくて。でも、国内の3千メートル級は全部行きました。北海道にもいきました。」

野武士のような運転手さんだった


■■■■■ 看板考「せんたく屋」 ゆはらきみこ

所在地:千葉県佐原市

カウンターで洗濯物の受け入れを行うチェーン店ばかりが目につく昨今ですが、昔のせんたく屋さんは、家の中で洗って、ドライの湯気を外に勢いよく放出して、ワイシャツを丸味のある台でプレスして、その後におじちゃんが汗をかきかき、細かいところの皺のばしをして、仕上がると竹とんぼのような長いさおで天井近くにある横渡し鉄の棒にぶら下げていました。あきもせず、そんな光景を見ていた昔が、この看板を見て思い出されました。

昔、同じ町内にせんたく屋さんがありました。優しいおじちゃんとおばちゃんでした。が、おばちゃんはナントカ宗教の熱烈幹部で、道で出会うと今度うちにビデオ見に来て!と誘われるのが常でしたので、道で出会いそうになるとオットトと横道に逸れたものでした。おじちゃんもとても人がよく、趣味は植木……自分の家のみならず隣の家も隣の家も剪定ばさみを持って見回りに歩くのです。せんたく屋さんのおじちゃんが来たら大事な植木を隠せ!というのが町内の合言葉でした。うちも被害にあいました。子どもが種から植えた柿ノ木をやっと接木をしたその翌年に、朝起きたら主枝が思い切り剪定されてありました。

せんたく屋の仕事の合間に、盆栽をいじっていたおじちゃんの小さな後姿、大きなおばちゃんの良く笑う口元にいつも長い髭が生えていたことも思い出しました。小さいおじちゃんに大きいおばちゃんのノミの夫婦でしたが「親の決めた縁談だから、父ちゃんのところに嫁に行くしかないでしょう」と笑っていたおばちゃん。「あんたねぇ、この間、外国人がワイシャツ買いに来たんだよ、200円、手にもってさぁ。うちは洗うところ!ワイシャツ200円はせんたく代!だよ、って言ったら、OKだって、おもしろいねぇ」。

おばちゃんとおじちゃんが相次いでこの世を去り、受け継いだ息子は家業を継がずにすぐに家は売却された。もちろんせんたく屋の看板も下ろされて今は無い。剪定ばさみを後ろに隠し持つおじちゃんと、よくしゃべるおばちゃんにもう一度会いたいなと思う。


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Japan Geographic Web Magazine

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Editor Yuki Takiyama

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