Monthly Web Magazine May 2014
Top page Back number Subscribe/Unsubscribe
■■■■■
トピックス
■■■■■
秘境が好きという訳ではないが、ずっと気になっている場所の多くが秘境にある。
それらは秘境にあるがために実態があまり知られておらず、資料が少ないから当然かもしれない。
今回の連休は主に九州の秘境を回った。目的地のテーマは以下に大別される。
1.かくれ切支丹の社会と文化
2.棚田の重要文化的景観
3.六号満山の神仏習合
4.山村の経済社会
1.のかくれ切支丹については、「長崎のキリスト教遺産」の世界遺産暫定登録リストがあるが、これだけではかくれ切支丹の実態がわからない。コミュニティが最後まで残っていた長崎県の平戸島、生月島を再訪し、じっくりと調査を行った。さらに、国東半島の北側、国東市の岐部にペトロ・カスイ・岐部の出身地を尋ねた。彼は「日本のマルコポーロ」とも呼ばれ、イエルサレム、ローマを訪問後司祭となって帰国したが拷問の末殉教した。
2.の棚田に関しては、同じく平戸島、生月島に美しい棚田の文化的景観が拡がるので、これもあわせて調べることができた。平戸島は大きく、あちこち立ち寄ったので二日では足りなかった。訪問は6回目なのだが、いつになったら完了するのだろう。
3.の国東半島の六号満山の神仏習合に関しては、以前から積み残しとなっていた真木大堂、鍋山磨崖仏、城山四面磨崖仏、「西の高野山」とも称されたが大友宗麟に焼き討ちにされた旧千燈寺跡と五辻不動を訪ねた。五辻不動は修験道にふさわしい岩峰で、見晴らしは良いが周囲は危険に満ちている。
4.の山村の経済社会については、宮崎県の椎葉と並ぶ秘境、熊本の五家荘を訪ねた。車が崖にぶつかるか谷底に落ちるかというような細道の連続で、途中で日が暮れてしまった。椎葉も五家荘も大秘境ではあるが、エコでサステイナブルなライフスタイルが注目される今日、ふんだんに得られる水力エネルギーと木材などのバイオ資源が豊富で、その点では最も先進的なライフスタイルが得られる土地であると思えた。要するに、ハイテク化が進めば、情報や教育はネットで、モノは通販で、医療は遠隔で、食料は植物工場でと、どんな田舎でも暮らせる時代が来る日も近い。高コストでストレスフルな大都会で汲々とするライフスタイル以外にも幸せな道がある。
もちろん、シリアスな調査の合間に、人吉のループ鉄道と鉄道遺産(大畑、矢岳、真幸)を楽しんだり、出水の麓や佐敷城、九州の名水を調査したり、各地の温泉と新鮮な食を楽しんだりと、質素ではあるが充実した旅ができた。やはり大分の長湯は好みだ。ぬるくて、ラムネのような炭酸の泡がまとわりつき、極上の温泉の一つだと思う。
この時期、三年連続で福島県に観桜に出かけています。
福島では毎年こんな番付が発表されます。
赤枠が今年訪れた桜、青枠は過去に訪問しJ.Gに投稿済の桜、今年訪問した桜でも
滝桜と合戦場のしだれ桜はすでに投稿の実績があります。すなわち、複数回訪問しています。
黒枠は過去に訪問済で、J.Gに投稿していない桜です。
今年は番付上位ではなく関脇以下の桜にねらいを定めての観桜です。
三春を取り囲むような田村市を中心とした地域で、たくさんの見事な大桜が存在しています。
最初は大聖寺の紅しだれ桜です。船引三春I.Cを降り、カーナビの指示通りに合戦場のしだれ桜目指して車を走らせていたら、左手の高台に赤い屋根の寺と桜の大木が目に入りました。
車を止めて確認すると後で訪ねる予定の大聖寺の紅しだれ桜でした。番付では前頭四枚目の桜です。
紅しだれと言われるだけ花の色も濃く、高台に立つ桜を下からみあげると青空に映えさらに美しさが際立ちます。
樹齢250年の太い幹の傍らの仏に手を合わせて、次の桜に向かいました。
近くに仲森のべにしだれがあるはずと気をつけて運転しているとこれも通り道沿いの高台の民家の庭に姿良く花を咲かせていました。
関脇だけあって、堂々と立ち、傘のかたちに咲いた花の下で人々を守ってくれているようです。
個人のお宅にある桜で、持ち主の方とお話ができ、この桜を大切にされていることが伝わってきました。
この桜も樹齢250年、持ち主の方のご先祖が幾代も大切に育ててこられた賜物を、今楽しんでいると実感できました。
訪問予定であった桜を偶然みつけ、幸先良い福島観桜がスタート、ここからは二本松の合戦場のしだれ桜にまっすぐ向かいます。
昨年も訪れた合戦場のしだれ桜、その姿の良さ故に人を集めるのでしょう。この桜、画像のように二本の桜なのです。
その各々はさほど巨木なわけではありません。造形の妙というしかない美しさなのです。
美しい姿が番付で大関の価値があるとの評価をされたのでしょう。
一段下がったところから、菜の花越しにこの桜が見える場所はカメラマンであふれています。
満足のゆく撮影ができたでしょうか。
ここからすぐ近くに福田寺のしだれ桜があります。この桜は前頭七枚目です。樹齢300年背の高いしだれ桜です。
昨年訪れたときは3〜5部咲きでしたが、今回はほぼ満開、樹木自体が大きくみえます。
こんな桜の下でおべんとうでもと、ふと考えてしまいました。桜の花に癒され、のどかな気持ちになったのでしょう。
のんびりとはして居られません。まだまだ訪れる予定の桜がたくさん残っています。
ここから三春町に向かう途中に蛇塚しだれ桜があります。この桜も個人所有の桜で側がすぐ畑で撮影に気遣いが必要です。前頭二十九枚目と番付の最後に近い桜ですが、それでも見ごたえ充分です。
ただ、この桜はいささかわかりにくいところにあり、たどり着くのが大変でした。
次は三春町に向かいます。滝桜ばかりが人気の三春ですが、滝桜以外にも桜の巨木が多数存在しています。
その内の二本の大桜を今回は訪ねました。
まず芹ヶ沢桜、磐越自動車道からも見ることができる位置にこの桜はあります。ただ、近くには駐車場もなく道路の端に駐車して桜を見ることとなります。車の往来は多くありませんが迷惑駐車とならない配慮は必要です。
ただ、小高い丘の上のこの桜の存在感は圧倒的です。
滝桜がもしなれけば、三春の名桜となっていたに違いありません。樹齢350年、木の勢いも十分に感じられ姿も美しいしだれ桜です。番付では関脇となっていますが、不動桜や地蔵桜に負けているとも思えません。
こんな桜がいつまでも残って行くことを望んでいます。
次は芹ヶ沢桜から遠くない八十内公園の中にある八十内かもん桜です。
樹齢は同じく350年、番付も同じ関脇です。
滝桜のライトアップ期間、この桜もライトアップされます。八十内公園はこの桜のための公園のようです。
枝の張り方が独特で子供が暴れているような感じを受けるのは私だけでしょうか。
ここで昼食、三春に白河のとら食堂系の「はし軒」というラーメン屋さんがあり、ここでいただきました。おいしかったです。
午後三時過ぎにこの店の前をもう一度通りましたが、麺完売で本日閉店でした。
さあ、国道349号を小野町の方面に下りましょう。田村市にはまだまだ見るべき桜があります。
今回の観桜行で唯一のソメイヨシノです。小沢の桜。なんでも映画の舞台となったようでそれなりに有名な桜のようです。
私自身は映画のことは知らずに訪問しました。ソメイヨシノで樹齢100年、稀有な桜です。
でも、樹勢の衰えを感じます。幹の太さに対して、枝張りが少ないようです。瀧山さんが以前に取材されている時と比べてもいくつかの枝を失っているように見えます。樹勢回復の手立てが必要だと思います。決定的になる前に。
さらに下って、永泉寺の桜、樹齢400年関脇です。
満開前の五分咲きでしょうか、枝張りも多く勢いのある桜です。いつも感じるのですが、寺に桜は良く似合います。
京都がそうであるように、日本人の遺伝子に入り込んだ感性なのでしょうか。仏様と結びつくことで桜も大切にされます。
ここで田村市とは別れ、小野町に入ってすぐ国道の脇にその桜はあります。吉野辺の種まき桜です。
しだれ桜でないため番付には載っていません。樹齢の400年間、道端で人々の営みをずっと見てきたという風格を感じる桜です。名の通り、この桜が咲けば種を蒔いてきた人々の暮らしに寄り添って生きてきた桜です。
こうして、桜の巨木を追いかけ、みごとな花をつけた木々に出会う度に、自分も豊かでゆっくりした気分に浸れます。
毎年繰り返される生き物の生きるための営みが人を癒し、生きることへの息吹を与えてくれた気がします。
さらに下って夏井千本桜にも行きましたが、3〜5部先でいささか早すぎでした。
本当はライトアップされた滝桜を見るつもりで計画していましたが、待ち時間があり過ぎましたので、このまま滝桜へと引き返しました。
雲が出てきて、散り際の花の色をさらにくすんだものにしています。平日だというのに、ここは人であふれていました。
今、福島に人が集まることを素直に喜びたいと思います。
今年も滝桜はみごとな花を咲かせました。来年も再来年も見事な花を咲かせ、たくさんの人を集める滝桜でいてください。
そして、私は来年も福島への観桜行実行しているでしょう。まだ見ぬ、大桜を探して。
唐津(からつ)街道は江戸時代に唐津から長崎街道の木屋瀬宿(こやのせしゅく)までの道を言います。
唐津藩や黒田藩が参勤交代で利用した街道です。
現在、博多の町の旧唐津街道は狭いですが、今でも裏道として市民に利用されています。
道沿いには九大の工学部(現在今宿へ移転中)や病院、そして崇福(そうふく)寺などがあります。
崇福寺は黒田家の墓所であり、藩祖官兵衛孝高(如水)や初代藩主長政の墓碑があります。
今回、博多の道に残る唐津街道の軌跡をたどり、JR箱崎駅から天神までをのんびりと歩いてみました。
5月になると青葉が一斉に茂り、まだ若い緑を見るだけで目も心も休まるような気がします。
建造物を撮影するには茂った青葉に隠れて不向きなのですが。
5月以降に撮影したものから、青葉や草花が写っているものを集めてみました。
東福寺の青もみじ
岩戸落葉神社の大イチョウ
南禅寺三門からの青もみじ
永観堂の青もみじ
蓮華寺の青もみじ
自宅の青葉
滋賀県甲賀市水口町
4月20日(土)水口曳山祭りに合わせて、発掘現場説明会がありました。
水口曳山祭
豊臣秀吉の命で1585年に築かれ、関ケ原の戦いの後に廃城となった「水口岡山城」(滋賀県甲賀市)が巨大バルーンで復活し、城跡のある古城山(283m)山頂に設置されました。市のシンボルとして城の復元を目指す市民団体が企画。専門家らの意見をもとに業者に製作を依頼したもので高さは11m。段ボールで作った一昨年の城よりは本物らしくなったとPR。約70人のボランテイアによって組立てられた。水口曳山祭とも重なって人出も多く、アピール効果は満点でした。
この城は、豊臣秀吉が1585(天正13)年に建築を命じ重臣らが居城にしたもので、豊臣が天下を支配する段階で近畿の拠点とした城であり、徳川家康を意識して築造されたとされます。
関ケ原の戦い(1600年)の後で徳川の手で「破城(はじょう)」とされましたが、旧東海道からも良く見え、見せしめとしての破城の効果は抜群だったといえます。
第一次発掘調査が行われ、破城の跡が確認されました。豊臣政権期の城址で城を壊した状況が確認された事例は県内初で、近畿でも珍しいようです。
水口岡山城と城下町(建教育委員会資料)、天主調査区、概略図、天主推定位置
平成25年度の第一次調査の結果、城の正門とみられる入り口付近などで石垣が見つかり、その手前に崩れた多数の石が散乱しているのが確認されました。続く26年度の二次調査で、8〜9mの高石垣の存在が推定されました。
想定断面模式図と現場
石垣の裏込石とみられる栗石が多数散乱してあった。城下町があった南側の発掘現場からは、長さ1メートルを超す石材が出土。威容を示すため意図的に巨石が使われたらしい。他に拮梗文を中心飾りに持つ軒平瓦と巴文軒丸瓦も多く出ました。
現存する本丸石垣
石は花崗岩だけでなく、古城山で産出する菫青石ホルフェルスを使っている。現地調達もあったようです。
また、城下町から城への主要道と考えられる「大手道」周辺では、全長約5メートルの石垣を発見。城の主要部分周辺は総石垣だった可能性があるという。
旧大手道「正面にあるお寺は山の上にあった大岡寺」
水口岡山城は秀吉の重臣が1585年に築城。石垣で囲まれた城であった。1600年の関ケ原の戦いで当時の城主長塚正家が西軍についたため攻められて開城。戦後処理として廃城になった。その後水口は幕府直轄地となった。
1634(寛永14)年新しい水口城「将軍家御茶屋御殿」が築造された。その時には、水口岡山城の石材を転用したとされる。
市教委は「城の全容を解明し、国史跡への指定を目指し、調査を継続していきたい」としている。
≪参考≫
秀吉の城郭ネットワーク
豊臣秀吉は政権を取った後、信長が琵琶湖の周囲に築いた城をベースに新たな城郭網を形成した。湖城としては、安土城に代わって八幡山城を、坂本城に代わって大津城を新たに築いた。内陸部街道の抑えとして、水口岡山城と佐和山城を修築した。新たな拠点には、信頼のおける家臣を城主に配置した。
水口岡山城と佐和山城はいずれも徳川に破城された。
今年もゴールデンウイークの季節となった。焼き物の里と呼ばれているところはどこも5月の連休には焼き物市を開くような気がしていている。去年の初めまで住んでいた宇都宮では近くの益子でもこの季節きまって陶器市が開かれていた。
転居してきた九州では有田の陶器市が昔から有名のようだ。有田焼は磁器なのに陶器市とはいささか妙だが磁器市では語呂が良くないのだろう。ずっと以前に九州にいた時も訪れたことがなかったのもあって平日を選んで様子を見に行った。家には陶磁器には事欠かないというより溢れている状態ではあるのでなるべく買わないようにとは決意を固めて出向く。
福岡市の自宅からの道順は九州道ー長崎道経由有田というのがナビですぐに出てきて標準的の様だが、今回は距離的にやや短い唐津回りで出かけてみた。走ってみるとこちらの道のほうが気楽で高速区間は短いものの時間もそれほど変わらないような気がする。勿論道路代も安い。消費税アップで節約の気持ちがこんなところにも出てくるのかもしれない。
懸念した渋滞もなく有田駅前の駐車場に到達し難なく停められる。駅前からすぐに有田焼の店の列が始まる。価格は高いものも勿論あるが店先の安いものが面白い、100円、300円などという特価品が目を引く。取りあえずは抹茶茶器として使えそうな茶碗を探す。
磁器の抹茶茶碗というのは一般にはない、日本の茶道が確立した時代では日本では陶器しか作れなかったことと関係しているらしい。それなら磁器で飲むとどうなるのか、やってみたくなる。
店ごとにというか窯ごとに違う趣向の陶磁器が次々と並ぶ。益子の陶器よりは随分とバラエティに富んでいてゆっくり見ていると果てしない。
驚くほど軽い薄いコップなどと言う物があってつい買ってしまう。使ってみると中の液面が外から透けてわかるほどに薄くて面白い、また増えてしまう。
コーヒーを飲もうとすると器込みで300円という店がいくつもある、これはいいとつい飲んで器を持っていくはめになる。2km位の店の列を往復するとその他にも茶碗やガラクタを含めて何だかんだと買ってしまう。店の列はもっと長いが2kmくらいが限界だ。
茶碗で音階が出るように並べてシロホンのように普通の茶碗をたたいて演奏しているところもあったりしてこれもなかなか面白い。
思いの外楽しい陶器市だ、価格にとらわれず焼き物を見るのに自由な気持ちになれるのがいい。買出しに行くというより遊びながら買ってしまう、それができるということのようだ。
日本の磁器はこの地で始まったという歴史がそうさせてしまうのだろうか。五月の風が心地よい。
■■■■■ 看板考「森永ドライミルク」 ゆはらきみこ
疲れたときに体が甘いものを欲しがりますね。体というか脳がダイレクトに「欲しい!」と指令を出しているような気がするときもあります。人間の母乳は他の哺乳類のお乳に比べると低蛋白で糖分が多いそうです。このことは体よりもまず脳を育てて、ゆくゆくは生物の頂点に立とうという野望をもった人類の作戦だったようです。お乳成分の作戦は成功して、脈々と遺伝子を繋いで立派な脳を持つヒトとして人間は発達してきました。
母乳が不足の時にはもらい乳をしてそれでも足りない時は重湯や水あめを飲ませたそうですが、それらの糖分補給も脳の成長を守るための智恵だったそうで、粉ミルクがある現在ですが、母乳は大切だよ!という指導は現在の産院でも徹底しています。
森永といえば昭和30年におこしたヒ素ミルク事件を思い出します。それまでは乳業業界では最大手でしたが、そのことで雪印乳業に抜かれます。その雪印乳業も牛肉偽装事件で明治乳業に抜かれます。現在の業界一位は明治。森永は二位になっているそうです。
看板は豊島区雑司が谷で見つけました。ひっそりと地面に置かれていました。「おちち」という単語。なぜか温かい気持がします。
人前でも平気でおっぱいを飲ませていた時代、ブラジャーのことを「ちちあて」「ちちバンド」と言っていた時代。婚前交渉だの、できっちゃった婚だのを眉八の字にして良識ある方々が騒ぐ今ですが、「足いれ婚」や「夜這い」なども公然とあった時代が「おちち」という日本語から見えてきて、おおらかな時代のほうが生きやすかったのではないかと看板見ながら思ってしまいました。
「おちち」に変わる粉ミルクですがそれを飲ませるための器具がなければ赤ちゃんに提供できません。器具は1871年に哺乳瓶「乳母いらず」が販売されたそうです。1917年には日本で和光堂が国産の粉ミルク「キノミール」を発売し、当時は牛乳と水の割合を2:3としてさらに糖質を加えた調合乳を粉末化したものだったそうです。
現在では粉ミルクの成分も高品質化しているそうですが、今の技術では本来母乳に含まれる免疫成分(IgA)までは配合できていないそうです。脳を限りなく発達させてきた人類。この先、粉ミルクの中に「おちち」の成分が配合できるように期待したいところです。
3ヶ月前くらいにマッサージのおばはんに、「あんたの白目おかしいよ」と云われた。鏡で見ると黒目の横に白いふくらみがある。白目に小さな虫がもぐりこんだようで不気味である。そういえば、目がゴロコロして少し不快である。帰宅して、家内に言うと、「少し前からそうなってたよ」という。ほな、はよいわんかえ。
目の異常を見てもらう場合は、当たり前だが、相手の顔が10cm以内に接近する。顔には唇があり、両者の唇も近づく。これが若いころなら、さぞ、ドキドキしたろうと思う。若いころなら。
いつも行く眼科に行った。院長先生は私より少し年配の女性で、小学校から大学に至るまで同じ学校の先輩である。もちろん、大学での学部は違う。ちなみに近くの皮膚科の女先生は小学校から大学に至るまで同じ学校の後輩である。
先生いわく、「よくある症状で、結膜の下に水がたまった水ぶくれです。この水は自然に消滅することもありますが、長引いたり、大きくなったら、注射針を挿して水を抜くことができます。たいした処置ではありませんが、処置後充血することもあるので、取りあえずは、アレルギーの目薬を日に3回さして様子を見ましょう。」
眼に注射針を刺すなんて、想像しただけでも怖い。知人に目の手術をした人がいて、目にメスが近づくのが見えるのは本当に穏やかでないと親切に教えてくれた。
2ヶ月くらい、目がゴロゴロすると目薬を差していたが、その直後はゴロゴロ感は少しましになるものの小さくなる様子はない。その間に眼科は駅に近い場所に移転して息子さんが参加し、最新の検査診療設備を備えたようだ。
目薬もなくなったので、ある朝に眼科に行くと、院長先生はお休みで息子先生だけが診察していた。いつもの眼圧や視力の検査の後で診察を受けると、
先生 「どうします。水抜きますか。どっちでもいいですよー。」
私 「どのくらいかかりますか。」
先生 「5分おきに麻酔の目薬を3回さすので15分、切開と水抜きは直ぐです。」
私 「20分くらいですね。それならお願いします(と言ってしまった)。」
麻酔が効いてから、まぶたをあけておく小さな器具をつけ、メスと注射器で処置してもらった。痛みはないし、老眼で近くが見えないし少し横を見ているので何も分からない。おそるるに足らずであった。
水は袋の中に入っていて、その袋ごと取り出せばよいのだが、下に強くくっついているので、
今回は水だけ取った。だから、また、水がたまるかもしれないそうだ。措置後の充血もごく僅かであった。
その後、ふと、病名をきちんと聞いてなかったことに気が付いた。インターネットで「白目」と「水ぶくれ」で検索すると、「結膜浮腫」で、「お子さんに多いのですが、大人でも時々白目が水ぶくれ様(ブヨブヨ、ゼリー状などといった表現が使われます)にふくれて眼科を受診されることがあります。程度は様々で、白目のほんの一部にしわがよったようになる場合から、黒目のまわり全周がとび出して、マブタがうまく閉じないほどひどい場合もあります。(森村眼科クリニックウェブサイト)」だそうだ。
今日は処置後2週間になるので、眼科に行った。
先生 「また、水がたまり始めてますねえ。今の目薬がなくなるまで、様子を見てから、
必要なら大きく切開して袋ごと取りましょう。」
私 「これは結膜浮腫ですね。」
先生 「違います。結膜嚢胞です。」
また、インターネットで調べてみた。
「結膜嚢腫とも呼ばれます。結膜の一部が水疱になった状態で,原因不明の突発性,外傷,術後などがあります。症状は通常ありません。異物感や整容的に除去を希望する場合は針で穿刺することがあります。(新川崎眼科ウェブサイトより)」
■■■■■■■■■■■■■■■■■
Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
■■■■■■■■■■■■■■■■■