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JAPAN GEOGRAPHICMonthly Web Magazine Mar. 2017
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福岡県 飯塚市 旧伊藤伝右衛門邸 Kyu Ito Denemon residence,Iizuka city, Fukuoka pref.
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宮崎県 高千穂町 Takachiho Town,Miyazaki |
岡山県真庭市 醍醐桜 Daigosakura,Maniwa city,Okayama |
宮崎県西都市 西都原古墳群 Saitobaru kofungun,Saito city,Miyazaki |
熊本県
南阿蘇村 Minamiaso village,Kumamoto pref. |
岡山県備前市 旧閑谷学校 Kyu Shizutani gakko,Bizen city,Okayama |
三重県熊野市
熊野古道(伊勢路) Kumanokodo Iseji,,Kumano city,Mie |
三重県志摩市 各地 Shima city,Mie 三重県鳥羽市 沿岸部 Toba coast,Toba city, Mie |
和歌山県田辺市 紀州石神田辺梅林 Kishu Ishigami Tanabe Bairin,Tanabe city,Wakayama 和歌山県みなべ町 南部梅林 Ume grove of Minabe. Minabe town, Wakayama |
岡山県岡山市北区
岡山後楽園 Okayama Korakuen, Kitaku, Okayama City, Okayama Pref. |
岡山県倉敷市 倉敷美観地区周辺 Kurashiki historic area, Kurashiki city,Okayama |
兵庫県姫路市 姫路城 Himeji castle,Himeji city,Hyogo |
■■■■■ Topics by Reporters
■■ 南方熊楠の曼荼羅 瀧山幸伸
南方熊楠記念館がもうすぐ改装オープン。それにちなんだちょっと固い内容ですが、歴史好きには楽しい話題でしょう。
南方熊楠について学ぶなら、田辺にある南方熊楠旧居と南方熊楠顕彰館および白浜にある南方熊楠記念館を訪ねるのが良い。
南方熊楠も牧野富太郎も世界的に植物学を極めた。牧野が植物を極めたのに対し、南方は博物学的な見地から民俗、文化にまで論及し、今でいうエコロジスト的な活動も行っていた。そういう点ではジャレド・ダイアモンドが南方に近いと言える。
最近、南方が活動した「南方曼陀羅の風景地」が国の名勝に指定されたので、その調査に出向いた。
名勝「南方曼陀羅の風景地」は、神島 闘鶏神社 須佐神社 伊作田稲荷神社 継桜王子 高原熊野神社 奇絶峡 龍神山 八上神社 田中神社 九龍島 金刀比羅神社 天神崎 で構成されている。
文化財の分類としては名勝となっているが、これは文化財の分類に適切なものがないからであり、実態は史跡と名勝と天然記念物と重要文化的景観とを統合したようなものだ。
実際、神島は天然記念物、闘鶏神社は重要文化財、継桜王子 高原熊野神社、八上神社 田中神社がある熊野古道は史跡にも指定されている。
各地の写真(紹介順)
この中には、奇絶峡のような団体客も訪問する観光地、個人旅行者に人気の熊野古道中辺路にある継桜王子 高原熊野神社などポピュラーなものもあるが、私がぜひおすすめしたいのは白浜の金刀比羅神社だ。
ここは熊野本宮の神様が最初に上陸して社をしつらえた地だという。あまりにも海の音がうるさいので熊野本宮に引っ越したとのことだが、いかにも航海者が選びそうな上陸地点であり、地理に詳しい方にはそれなりの合理性が感じられるだろう。
現在は白浜空港の滑走路の真下だから、神様はやはり引っ越しを希望するだろうが、崖に立って目の前に広がる浜辺と大海原を俯瞰すれば、「これは俺様の海だ」という思いに浸れる。
金刀比羅神社からの展望
歴史に詳しい方には、「熊野」とはそもそも何か、熊野参詣はなぜ絶大な人気を誇っていたのか、熊野水軍はなぜ日本史を左右するほど強力だったのか、同じく当地に多く残る「徐福伝説」とを重ね合わせて歴史の源流を探るのも興味深い。
福岡の「宗像」が「胸にカタ(入れ墨)を持つ人々」、いわゆる航海交易者であるという説と同様、「熊野」が「顔にクマ(入れ墨)がある人々」、こちらも航海交易者という説も考えられる。日本各地に残る「徐福伝説」も航海交易者に由来するものだ。
三重県熊野市の波田須にも徐福の宮があるが、波田須(ハダス)は秦(ハタ)氏として上陸した人々の居住地だったという言い伝えもある。
徐福の宮
全国の沿岸には歴史ある神社が多い。それらの鎮守の森、特にタブノキを切ってはいけない理由は、いざという時に伐採して船を作って逃げるためだと、大神社の関係者に聞いたことがある。航海交易者ならではの発想と技術だ。
全国各地の古墳から発掘されたおびただしい量の銅鏡や、馬具、防具、身装品などを見れば、弥生時代からの農村が発展した王よりもアジア沿海部をまたにかけて航海交易を行っていた首領のほうが力を持っていただろうと考えるのは無理がない。その後も遣隋使、遣唐使、源平水軍や戦国水軍、朱印船や北前船が日本の政治経済に深く関わったのも自然なことだ。
そうなると、歴史の源流を知るにはタブノキなど広葉樹による造船と航海の源流、すなわち黒潮の源流にまで辿らなければならない。
東南アジアのバジャウなどと同じ日本各地の捕鯨文化、同じく日本各地に残る浦島伝説、アマ族ゆかりといわれるアマ(海部、海士)など、日本史の探求だけでは終わらない、世界規模の博物知識が必要だ。
今や人類学は遺伝子レベルに達しており、未来の南方熊楠が歴史を解明してくれる日は遠くないだろう。
しかるに今日、同じ源流にある人々が国レベルで激しく争っていることがどれほど無意味なものか。世界には良い国悪い国があるのではなく、たまたま悪い人が実権を握り、横暴にふるまっているだけとも言える。
2月26日(日)Japan Geographic交流会の翌朝である。昨夜はビール、焼酎、日本酒を飲んで、帰宅してからワインを飲んだので、二日酔い気味でしんどいが、明日香村に出かけた。明日香に行くときはもっと早く(7時過ぎ)に家を出るが、今日は10時20分出発で、10時30分の電車に乗ろうとしたが、途中でスマホを忘れたことに気付いた。歩きながら今日は1万歩を超えるかなと思ったときに歩数記録機能のあるスマホのないことに気付いたのである。結局電車は10時50分発になった。近鉄阿部野橋に着いたのが、11時30分で50分の急行でもよいのだが、車中でコンビニ弁当を落ち着いて食べたいので、510円エクストラで11時40分の特急に乗った。
橿原神宮前駅の東口に出て、明日香めぐり赤かめバス乗り場に行くと、この季節にしたら多めの10人くらい並んでいた。ほとんどがリュックサックをしょったジーさんバーさんである。私も並んでいると、次に来たバーさんが、尋ねてきた。
バーさん「柱跡を見に行くバスはこれでいいのですか?」
私「どこの柱跡ですか?」
バーさん「なんか寺跡ですわ。」
その時、はっと思いだした。2、3日前に「飛鳥寺西方遺跡」の発掘調査で建物跡が出てきたとの新聞記事を読んだ。家内が切り抜いておいてくれたのである。でも、固有名詞が出てこないバーさんにお灸をすえたくなった。
私「何寺ですか?固有名詞がないと答えようがないです。」
バーさん「何寺やったかなー?」
仕方なく、私「飛鳥寺とちゃいますか。飛鳥寺西方遺跡のことでしょう。」
バーさん「さーそんな寺やったかなー?」
私「固有名詞がないと答えようがありません。」
バーさん「とにかく行ったら人が並んでるから分かると思って。」
バーさんはバスに乗り込み、運転手にも聞いていた。
バーさん「柱跡を見るのはどこで降りたらいいの?」
運転手、すげなく「さー、聞いてまへんなあ。」
すると、一番前の席に座っていたおばさんが「飛鳥で降りたらいいですよ。私も行きますから。」と教えてくれた。
なるほど、飛鳥でジーさんバーさん数名が下りた。南の方を見ると、田んぼの真ん中に白いテントが見えて、人が集まっている。飛鳥寺西方遺跡の説明会らしい。こういう催しは暇を持て余したジーさんバーさんが大挙して押し寄せ、狭いあぜ道に延々と列を作ることが多いので、私は嫌いである。ひっそりと遺跡に向き合いたいのである。
私は明日香小山で降りて、狭い農道を東へ大官大寺跡に向かって歩いた。田んぼに入ってあぜ道を進むと幅約3m、深さ約2mの小川があり、幅30cmくらいの橋代わりの鉄板がかかっていた。その橋を渡れば、寺跡まで直ぐなのだが、自信がないのである。昨年の晩秋に耳の帯状疱疹になり、その後遺症で平衡感覚が悪いままである。その前ならドーってことのない橋であるが、わたる途中でふらついて落ちたら、川底にちゃんと足から着地できるかさえ心配である。何度か足をかけたが、大事をとって、200mほど下流の自動車道まで遠回りした。約1時間で大官大寺跡、奥山久米寺跡を撮影した。明日香村の北のはずれになるので、ほとんど観光客はいない。
明日香奥山のバス停に着くとちょうど橿原神宮駅東口が来たのでバスに乗った。豊浦で降りて、以前に撮り残した向原寺周囲に行こうと思ったのである。バスはいったん飛鳥資料館に行き、明日香小山を経由して、飛鳥を通過した。14時12分である。西方遺跡の方を見ると、人が集まっているのが見えるが、それほど多くは無さそうである。行ってみるかと決心した。たまには遺跡説明会もいいではないか。このように突然迷って予定を変更するのも独り外出の醍醐味である。次の甘樫丘で降りて道を戻り、徒歩10分くらいで現地説明会会場に着いた。
まとまった説明を聞く時間がなかったが、よくできたパンフレットを貰って、展示物を写真に撮って、この遺跡に深く惹かれてきた。壬申の乱の軍営や、辺境の人々を招いた饗宴、また、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いなど、飛鳥時代の歴史の重要舞台となった「槻樹の広場」の遺跡らしい。見学通路は合板を敷いただけだから、あまり安定していないが、何とか三脚撮影がしたかった。担当の係員さんは見学者がすいてきたのをちらっと見てから、快く許可してくれた。いくつか発掘担当者に質問したが、次のバスの時間が迫ってきた。聞き残した疑問がある。建物のわりに柱跡が大きいのが意外だが、高床式建物というから柱は床までだったのだろうか。また、石組溝は石と石の間に粘土でも詰めて水密性を確保したのだろうか。
最後に聞いたのは、飛鳥寺一帯の伝統的地名「真神原」の読み方である。「まかみのはら」、「まかみがはら」、「まがみのはら」、「まがみがはら」の4種類が流布しているが、どれでしょう。発掘責任者のような人に聞いたら、若い担当者に話が回って、結局、「まがみがはら」ということになった。少し困ったような顔をしていたから、正解は一つではないのかもしれない。
バス停に歩く途中で、梅の花を見つけた。遠目にはよかったが、近づくと盛りを過ぎていた。飛鳥発15時12分のバスに乗った。
バスの中で橿原神宮前駅の反対側にある久米寺が梅で有名だったような気がして、行くことにした。久米寺の梅はまだ早すぎたが、大塔礎石や七重石塔が面白かった。
スマホによれば、この1日で約1万5千歩歩いた。
萩往還梅林園は、地域づくり推進事業として平成4年3月27日にオープンし、園内には、11種類約300本の梅の木があります。
紅梅性(緋梅)で最も早く開花する八重咲きの「蓮久」が1月下旬から咲き始め、一重の「豊後」「白難波」、枝垂れ性のある「玉垣枝垂れ」など、3月中旬頃まで楽しめるとのこと。
萩へ向かう途中で立ち寄ってみました。
この梅林園の近くに「涙松跡」があります。ここは江戸時代、萩城下から山口へ通じる藩主御成街道は、萩市大屋から左へ折れるので、城下が見えるのもここが最後となり、幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られるときに萩城下を振り返り、
「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな」と詠んで有名になったそうです。
石碑の近くに平成2年に植樹された梅が美しく咲いていました。
春は花が咲き、色鮮やかですが、反対に哀しい思いがある地ではなおさら花を美しく見せるのではないでしょうか。
■懸想文(けそうぶみ)売り ユニークな節分行事−須賀神社(京都市) 中山辰夫
2月の2〜3日、全国の神社仏閣で節分に因んだイベントが行われました。その内容は様々ですが、聖護院から約100mの所にある須賀神社のイベントも独特のものです。
須賀神社は平安時代初期に創建された古社で、縁結びや安産にご利益があるとされ、安全を守る交通神社も同じ境内に祀られています。
この神社の節分に行われるユニークな行事は、平安装束の烏帽子に水干姿、布で顔を隠した覆面の二人組の懸想文(けそうぶみ)売りが梅の枝を担ぎ、境内で「懸想文(恋文)」を売り歩くことです。
縣想文は、相手への気持ちを綴ったラブレターに相当するものです。節分の恒例行事になったのは1947(昭和22)年以降のこと。
起源は不詳で、一説には平安時代に、位の低い貴族が小遣い稼ぎに恋文を代筆したのが始まりとされています。江戸時代に、京都では懸想文を売っていた風習があったともいわれていますが定かでないようです。懸想文の内容は毎年変るようです。(引用:日本経済新聞)
境内には特設テントの専用売り場が設けられ、市内は勿論、大阪・神戸から女性が買いに訪れます。1枚1000円の懸想文は、2日間で約1千枚売れるとか。
初日の早い時間に訪れたので参拝者の姿はまばらでしたが午後には増えるようです。
「結果的には満足している」と話す女性や、「昨年は宝くじがよく当たった」とほほ笑む男性など、買う人の中にリピーターも多いようです。買ってる人、買って帰る人の表情がとても嬉しそうに見えました。
2日間のみ限定販売の「須賀多餅」も手に入れて足早に帰る人、きっと一年間大事なお守りとなるのでしょう。
“ラブレター”…淡い若干の思い出が残っておりますが、今の時代は忘れられた存在でしょうか。
『意』を伝える手段は色々あるのでしょうが、悩み・難しさだけは共通して残っているようですね。
■滝の話 田中康平
少し暖かくなってきた。近頃はなんとなく滝が気になっている。日本の自然の特出した姿のような気がしている。
冬場は滝にはあまり訪れる機会もないが、冬の滝見の一つに氷瀑見物というのを時折耳にする。
福岡にも福岡市の南東の仏頂山山中にある難所ヶ滝というのが氷瀑で知られている。しかし年齢からもう行くのは無理かな、と思っている。必要装備はそれほどでもないようだが一人で行くのはやはりためらわれる。
勿論引っ越す前の栃木には雲竜渓谷という氷瀑の名所があったが、相当の装備が必要なようで行かずじまいになってしまった。歳を重ねていくとできないことが増えていくのはどうしようもない。
これまで見たなかで最も印象に残っている滝としては尾瀬の三条の滝という名前が頭にまず浮かぶ。
9年くらい前の九月に紅葉が始まっている尾瀬を見ようと御池から見晴しに向かって燧裏林道を歩いていた。
途中に三条の滝にわかれる分岐点がある。何度も行きか帰りにこのルートを通ったことがあったが下ってしまうと上り返しのきつさを思って素通りしていた。この時は余裕があったこともあり意を決して滝への道を下った。
200m位の標高差があったと記憶にある。まだ十分元気だった。戻りの登りのきついのは覚悟がついているので、ひたすら無心に下り続ける。次第に地響きのような滝の音が近づいてついに川面にせり出した滝見台に到着した。空気を揺るがす振動がすごい。想像を超える迫力で大量の水が落ち続ける。
尾瀬中の総ての水がここに集まって只見川に落ちていく。こんな轟きがあって当然といえば当然だがすごい。こんな風に滝の轟音と景観だけが頭を完全に占めてしまうというところがいい。
堪能したあとまた200m登るのだが川沿いに早瀬になっている平滑ノ滝なぞを眺めながらゆっくり登れるので思ったほどつらくもない。ゆっくり歩いてその日の宿、温泉小屋につく。そぞろに歩きながら色づき始めた草木を心行くまで眺めて過ごす。
8年半たった今思い出してもいい山歩きだったとその思いに浸る。
今年は何を見て過ごそうか。
次第に弱くなっていく体はしかたがない、それが生き物としての定めだと思い切りながらも春の訪れがうれしい。
今でも鮮明に記憶に残っています。
激しい地震の時都内で仕事をしていた私は、身の回りに特に被害はなかったものの電車がストップし、元の会社の同僚と都内で一晩過ごし、翌朝やっと動いた電車に無理矢理乗り込み、7時間かけて自宅にたどり着いたのを。
そしてテレビで、仙台平野を真っ黒な津波がすべてを呑み込んで進んでゆく画面や津波の中でも燃えている気仙沼の火災の画面に涙が止まらない時間を過ごしたことを。
今までの人生で自分の無力さをあれほど強烈に認識させられたこともありませんでした。
あれから6年、東日本大震災に心を寄せる人々がすごく減ってしまったような気がしています。
この国の首都ではオリンピックと築地に豊洲で大騒ぎです。復興五輪なんて誰かが言っていましたがほぼ関係なし。
逆にオリンピックの建設ラッシュで建築資材と人件費の高騰で震災復興に遅れが出る始末。
大震災で壊れたコミュニティを仮設住宅でなんとか取り戻したにもかかわらず、住宅再建のできた被災者と今でも仮設暮らしの被災者のコミュニティは再び分断されています。
今でも避難者は123,000人、仮設で暮らす方々は宮城・岩手両県だけで32,700人も居ます。
福島県の一部はそこに住めないのですから、岩手・宮城よりも厳しい現状が続いているのは間違いないありません。
それなのに今度は大阪万博。熊本の被災者のことも少しは考えていただきたいと想うのは私だけでしょうか。
東京オリンピックが決まった時、震災復興の遅れが危惧され、結局その通りになってしまいました。
庭に花火を撃ち込まれ、毅然とした対応も取れず、少し前に頭を撫でられた親分を頼るだけの国のトップ。
そんなトップの任期を長くする取り巻き。私たちの国には国を心から憂い、そして守る政治家はいないのでしょうか。
と怒ってみても、じゃぁ、お前は何をしたのか、できたのかと問われれば沈黙するだけ。
せいぜいできたことと言えば、年に一、二回福島に観光に出かけ少しのお金を使ってくることぐらい。
大言壮語が虚しく響くばかりです。
ただ、2011年3月11日午後2時46分をずっと忘れずにいようと強く想っています。
■ 東京見物 大野木康夫
私の出た高校の全体同窓会は、8月に京都、2月に東京の2回開かれます。
昨年、京都の同窓会の実行委員会に入り、手伝ってもらった下の学年へのお礼も込めて東京の同窓会に出席し、ついでに東京の重要文化財建造物を撮影しました。
東京同窓会は3年連続の出席、おととしは増上寺、築地本願寺、浅草神社、寛永寺旧本坊表門、上野東照宮、明治神宮宝物殿を回り、去年は日帰りだったので旧前田家本邸、尊經閣文庫、円融寺しか回れませんでした。
今年は1泊できたので多くの建造物を撮影することができました。
2/18、京都駅7時前発の新幹線で東京に行き、代官山の旧朝倉家から池袋付近、神宮外苑付近を回りました。
旧朝倉家住宅(渋谷区)10:00-11:00
自由学園明日館(豊島区)11:50-12:10
雑司ヶ谷鬼子母神堂(豊島区)12:20-12:50
新宿御苑旧洋館御休所(新宿区)13:30-14:00
聖徳記念絵画館(新宿区)14:20-14:30
旧東宮御所(港区)14:50-15:50
この後目黒雅叙園で開かれた同窓会に行き、同級生たちと終電まで目黒駅前で楽しい時間を過ごしました。
翌朝は文京方面と白金台を回って最後は東京駅を撮影する予定でしたが、文京で時間をかけてしまって白金台は瑞聖寺だけになってしまいました。
根津神社(文京区) 7:10-8:00
旧加賀屋敷御守殿門(文京区)8:15-8:30
旧東京医学校本館(文京区)9:00-10:20
護国寺(文京区)10:30-11:15
瑞聖寺(港区)12:00-12:15
東京駅(千代田区)13:00-13:20
東京は学生時代4年間を過ごしましたが、文化財はあまり回れていません。
重文建造物の密度が濃いところでもあるので、今回撮影に失敗した赤門も含め、機会があれば再訪したいと思います。
今回は姫路城に行き撮影した。数回訪問したことがあったので、もう撮影する物もないだろうと思ったが、意外にもいろいろ新鮮でついついシャッターを切ってしまう。
先月、香川県小豆島町岩谷の大坂城石垣石切丁場跡に行き、城の石垣を調達するのは想像以上に大変なことだと知り、石垣好きでも歴女でもないのだが、ほんの少しだけ城の石垣に対する見方が変わってきた。
とそこに《なんじゃこれ〜》 「ほの門」近くにある「姥が石」だ。
(羽柴秀吉が姫路城を築くとき石集めに苦労していました。城下で餅を焼いて売っていた貧しいお婆さんが、そのことを聞いて、使っていた石臼を寄付しましたので、秀吉は喜んでこの石を使いました。この評判はすぐ町中にひろまり、国中からたくさんの石が寄付され、お城の建築は急速に進み、立派に完成したと語り伝えられています。)姥が石の説明より
このように姫路城も石垣の石の調達には苦労したようで、探すとあちこちに所謂転用石を見ることができる。石棺や燈篭や墓石まで転用されていたらしい。
姫路城はそもそも有力者の古墳が多く存在していた姫山という丘陵の地形を利用して作られ、石垣には大きさ的に都合の良い古墳の石棺なども積極的に利用されたようだ。
現在は中が空洞なので強度的に問題があり、レプリカがはめ込まれているものもあるようだが、いたるところで転用石ではないかと思われるものを見ることができる。
また石棺の本体や蓋、家形石棺の蓋などが無造作に保管されている。
備前門
ぬの門の渡櫓の前 手前の石棺の底板は葵門から、奥の二つの石棺は備前丸の石垣から移されたもの
石垣オタクの方にとっては常識なのだろうが、改めて探すと奥が深い。
古墳の埋葬者にとってはたいそう迷惑な話で、そのままになっていたら石棺一つで十分国の史跡として大切に扱われていただろうに、気の毒な事だ。
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Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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