Monthly Web Magazine Mar. 2016
Top page Back number Subscribe/Unsubscribe
■■■■■■■■■■
目次
■■■■■■■■■■
■動画のプレビューチャネル 瀧山幸伸
■看板考 「金太郎玩具店」 ゆはらきみこ
■あわただしい京都の1日 野崎順次
■モノクロ画像のほうがよく伝わる 田中康平
■近江八幡の瓦と瓦屋根 中山辰夫
■予定どおりには… 大野木康夫
■毛利家のゴルフ場 かまちまさこ
■今度は突発性難聴 川村由幸
■オバカメ (おばちゃんカメラマンが行く) 瀧山Bカメ
■■■■■■■■■■
トピックス
■■■■■■■■■■
試験的に 1月から始めた公開動画が40を越えました。アップした動画をご紹介します。
■■■■■ 看板考 「金太郎玩具店」 ゆはらきみこ
所在地:栃木県矢板市
しばらく立ち止まって見入った看板。見入ることを計算に入れている看板かと思ったくらいです。
店舗1階の案内の『ミニカ』。上の単語は四文字分あるので『ー』を入れて『ミニカー』と余裕でできるのに、あえてミニカ?う〜ん、三菱ミニカは結構な人気なので、三菱ミニカばかり山ほどある玩具店ですか……。
看板下方の赤枠の中は花火の宣伝。花火師まで雇ってありそうな大々的な宣伝看板。煙火部とあるので金太郎玩具店の中にいろいろな部門があってそのうちの一つの花火部門ということかしら。
それに、一番下の、玩具花火卸いたしますって、ナカグロ点の「・」が挿入されていないので玩具と花火は通して読むもので玩具花火って、一般家庭で夏の夜に親しむ線香花火の類と理解したほうがいいてことカシラ?
看板の前に立ち止まること20分。お店は閉まっていましたが、なんだかレトロな感じでした。
ネットが便利な時代になりました。帰宅して調べてみると、掘り出し物のおもちゃがある玩具店とありました。地元ではなかなかの人気店のようで、ネットで調べて遠くから買いに来るお客さんも多いとのこと。花火のことはどこにも出ていなくって看板の下の赤い部分は謎のままに終了。ちょっとおもしろかったのは、支店があるようですが、ナビに載っていないので地図を持ってくるようにと注釈が出ていました(笑)。
なかなかおもちゃを買ってもらえない境遇で過ごした子ども時代でした。唯一買ってもらったのはマヨネーズの看板のようなキューピーさん。脱がせたり着せたりしているうちに一張羅のお洋服はすぐに破れてしまいました。裸ではいやだと言ったら、明治生まれのおばあちゃんがくれたのは渋い布ばかり。
それらを体に巻き付けて、若年寄りのようなキューピーさんと遊んだほろ苦い思い出があります。
■■■■■あわただしい京都の1日 野崎順次
ある日、家内が京都和食の祭典に行こうといった。2月28日(日)に祇園の歌舞練場で10:00〜16:00開催される。有名料亭合作の特別点心限定200食@¥3000とか、和食料理人による粕汁を食べたいそうだ。こうして、この日の京都行きが決まった。自宅から会場まで約1時間半かかる。が、家内は朝が弱いので、私が先行することになった。
思わぬ強行軍の1日になるとは知らず、当日、7時前に起き、寝ている家内に行ってきますと云って、8時に家を出た。河原町へ向かう阪急電車の快速急行(特急があるのは9時以降)の中でウェブサイトのプリントを改めて読み直すと、点心は先着順でお一人様1食限定、発売開始は11:30とある。家内や母の分まで買うつもりが、暗雲が立ち込めてきた。でも、9時半に着いて、2時間行列すれば、家内の分1食は買えるだろう。
ところが会場に着くと、10:00前なのに400人くらいの雑踏である。入り口の二張のテントは粕汁と大根炊きで、それぞれ40人くらい並んでいるし、二手に分かれてザーッと並んでいるのは、入場を待つ人でその多くが点心目当てである。係員に聞くと点心はもう無理とのこと。
家内に携帯で事情を説明し、人混みが少なくなる14:30頃に待ち合せて入場してみることになった。
まだ10:00前でそれまで4時間余ある。梅の花を見に行こう。京都で見ごろなのは、南の城南宮と北西の北野天満宮である。とにかく、京阪祇園四条駅に行った。最初に来た電車が北行きだったので、出町柳からバスで北野天満宮に行くことにした。市バス1日乗車券500円也を購入。
11:00前に北野天満宮に到着。1時間ばかり梅を中心に境内を撮影した。七分咲き程度であろうか、あまり感動しない。
バスで今出川通を戻り、鴨川、百万遍を過ぎて、銀閣寺道で降りた。中華そば「ますたに」を目指していたのだが、バスから見るとなぜか閉店のように見えたので、近くのよく似た味の「しらかわ」で食べた。
再びバスで白川通を南へ、13:00過ぎに東天王町の「はなふさイースト店」で定番のサントススブレンド(ウェイトレスの人が「サンブレ」と云っていた)を飲んだ。京都で初めてサイフォンを採り入れた店で、「二度上げ」による濃厚な味わいである。
バスで祇園に戻り、八坂神社をぶらぶらしていたら、14:00頃家内から連絡があり、早目に着いたので、先に会場を見ておくという。その時、下腹が痛くなってトイレに行きたくなった。神社境内のトイレは和式でびちゃびちゃしている。嫌だなと思って、その向こうを見るときれいな建物がある。八坂神社常盤新殿という結婚式場らしい。中に入ると両方から「いらっしゃいませ」と云われてビビるが、お腹の方がもっとビビっている。ロビーは喫茶室になっている。その奥にトイレがあった。入ると清潔な洋式であった。よかった。玄関を出る時に別に何も言われなかった。でも、あまり他人には言いふらさないでおこう。トイレだけの使用が禁止になったら困る。
また、家内から電話があり、会場でめぼしいものはみんな売れてしまって何もないという。花見小路の四条通側で待ち合わすことにした。
14:00過ぎである。さて、どこに行くか。こちらは歩き回って疲れてもう家に帰りたいくらいであるが、家内は京都に出てきたばかりである。城南宮に行くことにした。が、昼食を食べていないという。会場で何か食べられるだろうと昼食抜きで来たそうだ。そこで、大和大路市場下ルの「純喫茶ラテン」に行った。近くのフランソワで修業したおかみさんの店で、ステンドガラスだらけの奇妙な空間である。ネルドリップの珈琲が美味しい。家内は昼食代わりにパンケーキを食べた。
京阪祇園四条、丹波橋、近鉄に乗り換え竹田駅からタクシーで城南宮へ向かった。
15:15 城南宮に着いた。神苑春の山のしだれ梅が満開であった。今まで見た中で最もきれいな梅林である。天気もタイミングもベストで嬉しくなった。少し疲れを忘れた。断面がハート形の切り株もあった。
城南宮もトイレが少ないが、西側駐車場のトイレは男女とも清潔で空いていた。遅い時間(16:10頃)だったからか。
夕食は京都で食べようということになった。家内は祇園四条駅近く、南座前のレストラン菊水がいいという。そこで同じコースを戻って、祇園に戻ったのが17:00頃。本日3度目の祇園である。まだ少し早いので、何必館・京都現代美術館で女性写真家「マルティーヌ・フランク展」を見た。
その後、舞妓さんでも歩いていないかと花見小路の路地をウロウロしていたら、家内がいち早く舞妓さんを見つけ、「追いかけて」という。足は痛く疲れも溜まっていたけれど、動画を取りながら走って追いかけ、追い抜いてストロボ撮影した。しんどい、しんどい。
18:10にレストラン菊水に着いた。特にビーフカツレツが美味しい。おあつらえディナーコースで、前菜二品、スープ、メインディッシュ、デザートなどを選んで¥3,800(税別)というのがあり、ビーフカツも選択できる。実にお得である。
河原町から阪急電車に乗って、家に帰ると21:00だった。家を出てから11時間、スマホの万歩計は2万3千歩だった。
昨年の11月に思いついて軍艦島を訪れた。
東シナ海から動いてくる低気圧が長崎上空を丁度過ぎていく頃に当たり天気は大層な荒れ模様で、上陸は疑わしかったが、低気圧の中心部が予想外に穏やかで、なんとか上陸できた。
カッパを着て横殴りの雨に打たれながら廃墟を見て回って写真を撮る。廃墟らしい雰囲気に満ちている。
写真は水滴が写りこんだりピントがぼけたり、散々だが、それでも、というか、そのほうがむしろ後で見直して見ると一層生々しく雰囲気が蘇ってくる。
モノトーンにしてみると尚更だ。幾つかの写真を添付する。堤防の穴に打ち寄せる波のように部分的にカラーがついている写真の方がいい場合もある。
モノトーンの方がその雰囲気をよく伝えてくるというのも不思議だが、人の感覚というものはそういうものなのだろう、選択的に情報を取り入れる、必要なものだけ見ようとする、そんなメカニズムが体のどこかにプログラムされているようだ。廃墟の色を脳は見ていなかったのだろう。
音を録音する時はそのことは顕著で、人は雑踏の中でも人と会話はできる、録音してみると雑音に埋もれてしまうような声を現場ではよく聞き分けている。
心理学ではカクテルパーティー効果として知られている選択的な聞き方を人間はしているということらしい。生理学的には左脳が主にその機能をになっているともいわれているようだ。
同じことが見ることでも起こっているような気がする。写したそのままではその時の現場で感じられたことは十分にはというか全くとさえ再現できないことがあるような気がする。
それだから写真は面白いのだろう。写真よりもよく伝わる絵の価値が写真技術がいくら進んでも薄らがないのだろう。
伝統的建造物保存地区に選定されている滋賀県の近江八幡市は、豊臣秀次が八幡山城を築城した際に築いた運河・八幡堀、近江商人の邸宅、赤レンガのヴォーリズ建築群の周辺、水郷、などが丁寧に保存され、歴史のある街並みとして訪れる人々に素晴らしい景観を呈しています。
その近江八幡では江戸時代初めから、琵琶湖に堆積したきめ細かな土を使ったいぶし瓦「八幡瓦」の生産が行われており、瓦のもつ美しい光沢が豪商たちに喜ばれたようで、瓦屋根の古い街並みを今に留める役目を果たしてきました。
現在、製瓦所は皆無ですが、八幡瓦の長い歴史を伝える施設「かわらミュージアム」が、八幡堀沿いの製瓦所跡地に設けてあり、過日そのミュージアムで「八幡かわら人形展」が開催されました。鬼師と呼ばれた職人の飾り瓦の展示で、鮮やかに彩色された「浮世絵のおいらん」や「恵比寿天と寿人形」などの展示でした。
近江八幡は近江商人発祥の地で、難行苦行の末に成功した豪商の心のふるさと日牟礼八幡宮(創建 伝131年)や、豪商がこぞってバックアップした江戸時代以降の寺院に、本瓦葺や手作りの飾り瓦が多く残っています。その一つ、円満寺の建物や境内に建つ金毘羅大権現も手作りの飾り瓦で覆われています。
円満寺は、1367年草創、平安時代作の木造十一面観世音菩薩立像(国重文)を本尊とする古刹で、一時衰退しましたが、1757(宝暦7)年頃再建されました。これが現在残っている建物です。織田信長も戦勝祈願に訪れたことがあるようです。
この寺には、「千石船絵馬額」と千石船模型が保存されています。代々続いた近江商人西川伝右衛門(住吉屋)家から金毘羅大権現に奉納されたものです。
初代西川伝右衛門は、僅かな資本で始めた行商から身を立て、1650(慶安3)年、25歳で蝦夷地に渡り漁場の開発を行い、松前藩の御用商までになりました。
奉納した絵馬額には、堺港に浮かぶ住吉屋の所有する6艘の千石船の雄姿が描かれています。(引用:近江八幡の歴史)
現在、社寺で葺きかえられた古い瓦は「瓦礫」となる運命にありますが、この円満寺も相当傷んでいますが瓦礫の運命を辿らないよう願っています。
それら「瓦礫の山」は、日本の歴史を物語る「宝の山」ともいえますので・・・・。
ここで少し瓦屋根について記憶を辿ってみました。
日本の瓦の歴史は崇峻天皇元年(588年)に、僧や寺工と共に四人の瓦博士が百済から遣かわされたことに始まります。
瓦博士は、瓦の成型・焼き上げ・屋根に葺く技術を日本に伝え、飛鳥寺・法隆寺を建立しました。この時点から日本独特の「甍の美」がスタートしました。
飛鳥時代から江戸幕末までの約1300年間は、造瓦の技術・工程に殆ど変化はなく寺院や城を中心に使われてきました。
江戸時代初期の1674(延宝2年)瓦の歴史にとって画期的な考案がなされました。それは、近江大津の瓦職人西村半兵衛による「桟瓦」の発明です。
瓦の葺き方
唐招提寺東室の本瓦葺(唐招提寺東室)、本瓦葺と行基葺(元興寺)、本瓦葺と桟瓦葺(今井町)
桟瓦により明治以降は瓦葺屋根が広く普及し、各地で機械による大量生産の瓦がつくられるようになり、さらに釉薬をかけた色付きの瓦も量産され、黒一色から彩り豊かなものも出て、現在に至っています。
瓦屋根に乗っかっている「飾り瓦」にも時代の変遷があります。種類も多く魅力的です。ここでは触れませんが、ただ一件思い出しましょう。
国宝:唐招提寺・金堂の鴟尾
天平の鴟尾(1400年間風雪に耐えました)が最古で、平成の大修理で2009年に平成の鴟尾にバトンタッチしました。(引用:唐招提寺)
残念なことですが、「棟飾瓦—飾り瓦」の手作りができる鬼瓦師の数が、最大の産地・三州でも激減しているようです。
日本独自の「甍の波」の景観。その中のシンボルである鬼瓦を含めた手作りの飾り瓦。—その独特の姿を、瓦礫となる前に見直しておくことも大事かと思います。
記憶に残る瓦屋根
(国宝:法隆寺・金堂)、(国宝:元興寺・極楽坊本堂と禅室)、(国宝:富貴寺・本堂)、(国宝:霊山寺・本堂)、(重文:東福寺開山堂)、(国宝:東寺金堂)、(国宝:東大寺周辺)、(特別史跡:旧閑谷学校)、(国宝:宮島周辺)、(重文:道後温泉周辺)、(伝統的構造物群保存地区:倉敷周辺)(伝統的構造物群保存地区:今井町周辺)
終わりがないので止めます。
■■■■■ 予定どおりには… 大野木康夫
毎回、撮影に行くときは事前に予定を立てて行くことにしています。
しかし、最近は予定どおりに撮影できないことが多々あります。
2月28日の日曜日、三重中部などを回る予定で撮影に行きました。
事前の予定は、
自宅5:00−6:30松阪来迎寺6:50−7:00御城番長屋7:20−8:00高田本山専修寺10:10−10:40関地蔵院11:00−11:30高倉神社12:00−12:30観菩提寺13:00−13:30加茂御霊神社13:50−14:00岩船寺14:30−14:40浄瑠璃寺15:10−16:10自宅というもので、予定超過があれば観菩提寺で切上げることになると考えていました。
京都山科の家を出たのは夜明け前の5時過ぎ、名神、新名神、伊勢道経由で松阪市内のコインパークに夜明け時の6時30分に着き、白粉町の来迎寺には6時40分過ぎに到着した時点で予定を10分超過していました。
主目的の来迎寺本堂は、宝形造の内陣と寄棟造の外陣からなる複合建築で、全体撮影が難しいので周囲を一周して狙おうと思い、外陣正面から撮影を始めました。
撮影を始めてほどなく、御住職に声をかけていただき、本堂全体が撮影できる鐘楼門の上に登らせていただきました。
めったにないうれしい誤算ですが、門の上で20分にわたって撮影をしました。
この後、本堂回りを一周して当初予定していた撮影をしました。
来迎寺を出たのは7時47分でした。(約1時間の予定超過)
この時点で御霊神社以降の予定はあきらめました。
次の御城番長屋は来迎寺から徒歩移動、7時54分に到着しました。
建物周辺の撮影に加え、松阪城の石垣上からの全景撮影をしました。
撮影したかった松阪城の石垣を予定超過で割愛しても、撮影終了は8時32分となり、さらに12分遅れてしまいました。
次の高田本山専修寺へは自動車で移動、9時12分に到着しました。
専修寺は重文建造物が13棟あるこの日のメインの目的地です。
1棟10分で130分(2時間10分)を予定していましたが実際は…。
唐門(9:12-9:23)
山門(9:24-9:40)
太鼓門(9:41-9:59)
対面所、大玄関、賜春館の屋根(10:00-10:14)
鐘楼(10:15-10:20)
トイレ休憩の後また大玄関(10:23-10:26)
茶所(10:27-10:36)
御影堂、山門裏側(10:37-11:00)
通天橋(11:01-11:09)
如来堂、唐門裏側(11:09-11:23)
御廟唐門、拝堂(11:23-11:48)
また如来堂、御影堂など(11:49-57)
最後に唐門(11:57-12:00)
大幅に予定を上回り、2時間40分かかりました。(1時間50分の予定超過)
次の関地蔵院へは車で向かいます。
30分で到着する予定でしたが、この日は関宿でひなまつり市が開催されており、旧東海道が歩行者天国になっていたうえ、観光駐車場が満車で、関小学校の駐車場に回りました。
予定外のひなまつり市の撮影をすることにしたのでさらに到着は遅れます。
地蔵院に到着したのは12時52分、2時間12分の予定超過です。
この時点で、専修寺での大量撮影による満足感の影響もあり、この日はこれで切り上げようと決めました。
最後の撮影を楽しみました。
この日最後の撮影は駐車場に戻る途中の旧東海道、13時38分でした。
家に戻ったのは15時少し前と記憶しています。
結局、9箇所の予定が4箇所となりましたが、想定外も楽しめますので、それなりに充実していたと思います。
想定外といえば、今年は雪景色がすべて平日なので撮影できていません。
3月1日、出勤前の自宅庭の梅と雪の撮影だけになりそうです。
こういう想定外は楽しめませんが、また来年の楽しみとしておきたいと思います。
■■■■■ 毛利家のゴルフ場 かまちまさこ
ゴルフが趣味でよく夫婦で出かけるが、先日、山口県防府市のタカガワ新山口カントリー倶楽部へ行ってきた。
そこは山口県で最も古く開場したコースで、開場が戦後まもなくだったため全くの手作りで作られている。
コースは自然の地形がそっくり残されており、起伏がとても多い。行ったその日はあいにくの雨だったため、クラブハウスの床にもいくつかバケツが置かれていた。きっと雨漏りでもするのだろう。
このゴルフ場は戦後、毛利邸が財産税の対象となったことから山口県の経済界を代表する人たちが毛利家を救うべくゴルフ場を作りその賃貸料で物納を防いだものらしい。
毛利庭園の回りをぐるりとコースがあり、カートに乗って移動していると、突然文化財らしき建物が現れる。あまりの突然の出現で何の文化財なのかを確認することができなかったが、こんなところにボールが飛んでくることはないのだろうか、と心配になるほどだった。経営交代によりゴルフ場名を平成20年9月から「タカガワ新山口カンツリー倶楽部」として地元の学校法人によって運営されることになったが現在も昔のままのコースである。
きれいな新しいコースもいいが、古い歴史のあるゴルフ場もまた趣があっていい。ゴルフをしながらカメラ撮影ができたらいいが、ボールの行方を探すのが大変で、とてもそんな余裕はないな。
■■■■■今度は突発性難聴 川村由幸
2月末に又、入院しました。今回は突発性難聴、突然に耳が聞こえなくなりました。
テニスが終わり、後片付けをしていましたら突然耳に大きな違和感があり、自分の話し声が耳にガンガンと響くようになりました。
自宅に帰り、落ち着いてみると右耳が聞こえなくなっていました。
慌てて医者に駆け込んだところ、突発性難聴の診断で5日間の副腎皮質ホルモンすなわちステロイドが投与されることになりました。
入院でも通院でもと言われましたが、効果を確実にするためにもと入院を選択しました。
この突発性難聴、年間3〜4万人が発症しており、発症してから48時間以内に治療を開始すると治療の効果が高く1週間を超えると治療の効果が期待できなくなります。
適切に治療を開始しても、その治療の効果は1/3はほとんど改善せず、1/3は改善しても元には戻らず、1/3が完全に回復のレベルでなかなかに難病です。
さらに発症の原因も、ウィルス起因説や毛細血管の血流阻害等がありますが特定されていません。ストレスも原因の一つに挙げられています。
入院してステロイド点滴をするだけで他はベットで静かにしているだけ、五感の一部を失う恐怖に打ちのめされていました。
昨年の肺炎に続いての入院、不運を嘆く気持ちばかりが強くてなかなか前向きな気持ちになれません。
その上、耳が聞こえなくなる可能性もある。落ち込むなというほうに無理がある状況に陥っていました。
救いは左耳がほぼ正常で人との会話等に不自由はなく過ごせたこと、チョッピリまあなんとかという思いにもなれました。
5日間のステロイド点滴治療の結果は、予想以上の回復で継続治療(ステロイド投与は無し)で元に戻るのではと医者に言われています。
治療の効果は年齢も関係し、若年層ほど回復経過が良いようですから、私の場合は強運としか言えません。
今はまだ、耳に若干の閉塞感を感じることもありますが音は良く聞こえます。
完治にはしばらく時が必要なようですが普段の暮らしに障害は全くありません。ほっとしているところです。
しかしながら、病はどこから飛んでくるかわかりません。いくら自分が気を付けていても、今回の突発性難聴など避けようもありません。
昨年の肺炎も免疫力が下がっていたと言われましたが、自覚できるわけでもなく対応が取れないのです。
検診チェックしても早期発見できるわけでもありません。
健康第一が大切なことは理解していますが、どうもそのためにできることは意外と少ないのではと懐疑的になっているこの頃です。
■■■■■ オバカメ (おばちゃんカメラマンが行く) 事務局
以前「話を聞かない男、地図が読めない女」という本を読んだ事を思い出した。
つまり、男と女では生まれつき脳の構造が違うのでこんな現象がおこるらしい。
高取城跡は三大山城の一つで、城好きにはたまらなく魅力的なようである。
残っている石垣にはなぜかロマンを感じるらしく、急な城跡を足早に登って行く連れ合いの、私にとっては無意味な探求心に、頭の中は妄想でぐるぐるする。
石垣は落ちてくるのか?無数に落ちてる瓦は当時の城のものか? 今日は赤ワインか白ワイン? 雑念がよぎる・・・・・カメラどころではないのだ。
天守閣や櫓などがあればそれなりに楽しめるのだが、石垣では物足りない。
話は戻るが、地図が読め、空間認識能力が高い男子は城跡の山と石垣で往時をしのび歴史を堪能できて萌え〜となれるが、直感で物事を判断する女子は苦役を恨み城への憎しみすら感じるのである。
この苦役は高取の街並み散策へと続き、しまいには「マラソン足」というかっこいい内膝痛まで引き起こしている。痛みと怒りはまだ癒えていない。
女性ホルモンが薄らいだせいか地図は読めるようにはなったが、まだまだ方向音痴は治らない。
おばちゃんが城跡を懐かしむようになったら、そして連れ合いが人の話を聞くようになったら、いよいよお迎えの時かもしれない。
■■■■■■■■■■■■■■■■■
Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
■■■■■■■■■■■■■■■■■