JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  Mar. 2024


■■■■■ Topics by Reporters

■ 録音機材遍歴  瀧山幸伸

2013年1月のウェブマガジンで動画撮影機材の遍歴について書きました。今回は録音機材遍歴について書きます。

Japan Geographicは理念に従ってエンタテインメント目的ではなく教育目的のリアルな臨場感を重視していますので、静止画だけではなく、動画とともに現場の音を記録することが非常に重要です。また、効果音やナレーションやBGMで装飾することは極力避けていますので、録音の乱れには特に気を付けています。映像は乱れても耐えられますが、音質が悪いと視聴に耐えません。

世界トップクラスの影像制作関係者間の情報は全て英語によるもので、毎日複数のサイトをチェックしていますが、彼らが言うには、聴覚は視覚よりも感性に訴える力が強いので影像よりもはるかに重要で、現場では音声担当者がOKを出さない限り次に進まないそうです。私も全く同感です。

Japan Geographicの録音は全てフィールド録音という特殊な環境ですから、スタジオ録音のような整った環境ではなく、風がマイクに当たる騒音、車やバイクの騒音はもちろん、自分が砂利の上を歩く音や呼吸音、カラスや犬の吠える音、グループ観光客の大騒ぎ声やカートを引きずる音などに悪戦苦闘してきました。これらの騒音は録音システムを改善してもあまり効果がありません。 2003年のJapan Geographicのスタート以来2023年末までの20年間、カメラとは異なり録音機材の技術的な進歩はあまりありませんでした。録音機とマイクを数多く購入し、マイクにいたっては自作までしたのですが、満足する状況には到達できていませんでした。しかしながら、あるマイクメーカーとの出会いから光明が見え始めてきました。


■ リハビリ撮影 大野木康夫


長い間まとまった撮影をしていなかったので、勘を取り戻すために2月下旬、3月上旬の2回、滋賀県湖東の重要文化財、県指定有形文化財の建造物を回りました。

2月23日

有川家住宅(彦根市)

主屋(重要文化財)
差し上げで撮影してみました。書院部の複雑な屋根の形状がよくわかる写真になっています。

  

薬医門、大蔵、粉挽蔵(重要文化財)
文庫蔵(重要文化財)は門の外からは撮影できません。
   

長寿院(彦根市)

弁才天堂(重要文化財)、阿弥陀堂(滋賀県指定有形文化財)

差し上げでいい角度で撮影できました。

  

楼門、宝蔵、経蔵(滋賀県指定有形文化財)

   

千代神社(彦根市)

本殿(重要文化財
拝殿右の瑞垣の幅4~5センチメートルの格子から覗けば見えます。持参の機材ではズームができなかったり、差し上げだと角度が狭まったり、レンズの幅の関係で一部しか写らなかったりするので、あまり満足できる撮影ではありませんでした。

   

長久寺(彦根市)

本堂(観音堂、滋賀県指定有形文化財)

 

多賀大社

大鳥居(彦根市、滋賀県指定有形文化財))

 

本社(多賀町)

奥書院(滋賀県指定有形文化財)は2月いっぱい拝観中止だったので、撮影できませんでした。社殿群は昭和初期の神社建築の好例なので、ひょっとしたら今後重要文化財指定になるかもしれません。
ここで雨が降ってきました。

 

胡宮神社(多賀町)

本殿(滋賀県指定有形文化財)
広葉樹が落葉していたのでかろうじて撮影できました。

 

大滝神社(多賀町)

本殿(滋賀県指定有形文化財)
瑞垣内が参拝できるようになっていました。

 

ここで雨が激しくなってきたので、予定を切り上げて帰宅しました。

3月3日

千代神社(彦根市)

レンズ口径が狭い古い機材を持ち出して本殿(重要文化財)の撮影に再度挑みました。なんとか撮影できましたが、左右に格子の影が映ります。また、早朝で朝日が射して撮影しづらい状況だったので画質が今一つになりました。

  

阿自岐神社(豊郷町)

本殿(滋賀県指定有形文化財)

 

庭園(滋賀県指定名勝)

 

甲良神社(甲良町尼子)

権殿(重要文化財)

 

念称寺(甲良町)

本堂(滋賀県指定有形文化財)
元近江八幡市の観音寺本堂を移築したものです。

 

甲良神社(甲良町法養寺)

 

多賀大社(多賀町)

 

奥書院(滋賀県指定有形文化財)
奥書院庭園(国指定名勝)
3月になって庭園拝観が再開されていました。

  

春日神社(東近江市)

神門(滋賀県指定有形文化財)

 

本殿(重要文化財)
行事の準備中で瑞垣内で撮影させてもらいましたが、差し上げ撮影の方がしっくりきます。

  

正明寺(日野町)

本堂(重要文化財)

  

経蔵(滋賀県指定有形文化財)

 

信楽院(日野町)

本堂(滋賀県指定有形文化財)
ひなまつりでコンサート開催中でした。

  

日野町の市街はひな祭りで賑わっていました。

 

馬見岡綿向神社(日野町)

本殿(滋賀県指定有形文化財)
入母屋造の大屋根に千鳥破風、唐破風、唐破風の向拝が付いた珍しい建築様式です。差し上げ撮影で屋根の特徴を表すことができました。

 

差し上げ撮影を多用すると、五十肩(もう六十歳ですが…)が痛んでこれ以上は撮影できなかったので、切り上げて帰りました。

撮影対象の建物を絞ることで、あまり時間をかけずに数を回ることができたと思います。


■ 京田辺市天王地区 野崎順次


大阪、京都、奈良の県境が集まる山麓の急斜面に天王という集落があり、てっぺんに地名の由来となる朱智神社が鎮座し、またちょっとした石造物の宝庫である。ただし、バスの便が非常に悪い。唯一、土日に利用できるのは、行きしがJR京田辺発12:59 – 天王着13:16、帰りは天王発17:18 – JR長尾である。だが、コンビニも食堂もない山間に4時間余も滞在するのはちと長すぎる。というわけで、行きしは少し寄り道してから、近鉄新田辺駅からタクシーを使い、14:00 過ぎに天王に着いた。

バス停から朱智神社本殿まで、約900mで標高差は120mである。

  

バス停の近くに一石多尊石仏群で知られる天王墓地がある。

  

右から
三十三体観音石仏 江戸時代前期 貞享二年 1685年 花崗岩 高さ約157cm
十六体石仏 安土桃山時代 天正十八年 1590年 花崗岩 高さ約115cm
十六体石仏 室町~桃山時代 花崗岩 高さ約112cm

   

墓地の中に進むと、石龕墓というのか、石の祠に石仏や石塔を納めたお墓がある。山陽地方で数回見た記憶があり、いずれ由来を調べてみたい。

   

バス停の四辻に戻り、反対側の急な坂道を上る。痴漢や誘拐に注意との表示があるが、どーかなあ。

        

標高差60m上ってやっと平坦な路になった。ここらは「急傾斜地崩壊危険区域」である。天皇の集落を見下ろし、展望がよい。

    

左の小道は上ると極楽寺である。
重要美術品 九重石塔 室町時代中期 寛正五年 1464年 花崗岩 高さ330cm
阿弥陀三尊種子板碑 鎌倉時代後期 正中二年 1325年 花崗岩 地上高 84cm 

      

戻って、朱智神社の参道を上る。「その主神である迦爾米雷命(かにめいかづちのみこ)を朱智天王と呼び、称え奉ったことから、天王の地名が生まれたと考えられている。迦爾米雷命は神功皇后(じんぐうこうごう)の祖父といわれ、その子孫は息長氏と称していた。(京田辺観光協会ウェブサイト)」
二つの鳥居のあたりが実に厳かな雰囲気である。

    

朱色の鳥居の石段の上は拝殿跡で、右の回り道を行くと、本殿の手前に推定樹齢300年のオガタメノキ(招霊木)がある。

  

今回の最高所に着いた。本殿(京都府登録文化財)は、慶長一七年(1612)の再建で、一間社流造、屋根は檜皮葺である。桃山様式の華麗な彫刻が多くみられる。中には平安後期の牛頭(ごず)天王像(京都府指定文化財)が安置されている。

    



■ 蟇股あちこち 47  中山辰夫

宮城県の最終です。瑞鳳殿、感仙殿、善応殿、瑞鳳寺、円通院、陽徳院そして仙台東照宮です。
70歳で生涯を閉じた伊達政宗公の遺命により二代目藩主忠宗公によって瑞鳳殿が経ケ峯に造営されました。
以降、感仙殿、善応殿が造営され、経ケ峯伊達家墓所に安置されています。
桃山文化の遺風をつたえる江戸初期の豪華絢爛な廟建築として国宝にも指定されましたが、戦災で焼失し、昭和に再建されました。
他に円通院、仙台東照宮などを報告します。

   


■ 早咲きの桜と 田中康平

毎年この時期になると桜の開花が気になるが今年は暖冬のようで気温の推移の見通しから温度変換日数法を使って計算すると福岡のソメイヨシノ開花も去年より3日位早まり3月15日頃との予想となった。勿論ソメイヨシノばかりが桜ではなく早咲きの桜はいくつもある。河津桜(オオシマザクラ+カンヒザクラの自然交配)が有名ではあるが自分としては九州へ戻ってきて初めてお目にかかった初御世桜(ハツミヨザクラ)(啓翁桜+カンヒザクラの交配種)がちょっと気に入っている。河津桜の方は近くの公園にも植えられていて今年は2月15日頃満開になっていた。初御世桜はこれより少し遅く、このあたりでまとまってみられる那珂川市山田ではこれまではおよそ3月初め頃に満開が見られていた。少し油断していたら今年は2月下旬に満開になっているという情報がネットで流れていたのに3月になってやっと気づいた、やはり開花が早まったようだ。気が付くのが遅かったが、まだ見れるだろうと3月3日にともかく見に行った。花に振り回される感じが春らしい。
神功皇后が造ったといわれる古代水路ー裂田の溝(さくたのうなで)に近い現地に着くと今年も敷地内には立ち入れず柵の外から見るだけだ、確かに盛りは過ぎているが花吹雪というようではなくまだ十分美しい。ソメイヨシノよりちょっと花が小ぶりなのが清楚でいい。裏手にも少し植えられていたはずと脇の道を登り始めると左手の茂みからバサッと鳥が飛び立って右手上方の木の枝にとまる、顔を半分こちらに向けているが猛禽のようだ、トビでもないしチョウゲンボウやハヤブサでもない、何だっけと写真をとりあえず撮って戻って調べるとハイタカと判明する。里山の鳥だ。花といい鳥といい流れてきた時間といい、なんだか気分がいい。やはり春は桜だ。

写真は順に 1:福岡市内、近くの公園の河津桜(2月15日)、2、3:那珂川市山田の初御世桜(3月3日)、4:同地にてハイタカ

    


■ 山本邸  川村由幸

柴又帝釈天の裏に山本邸はあります。
山本邸の庭は、米国の雑誌「The Journal of Japanese Gardening」の日本庭園ランキングで2021年から連続して第3位に選ばれています。第1位は島根の足立美術館、第2位が桂離宮ですから、そのレベルの高さがご理解いただけると思います。

   


私も帝釈天には幾度も撮影に出かけていましたが、山本邸での撮影は今回が初めてでした。帝釈天を通り抜けて、左に進むと山本邸に突き当ります。1930年代前半は現状の近代和風建築と純和風庭園が完成していたようです。
庭の面積は足立美術館等と比較するとこじんまりとしています。

   

それでも十分に手入れの行き届いた素晴らしい日本庭園です。今回、真冬の撮影で緑が鮮やかというわけではありませんが、ゆっくりと鑑賞したいと思わせる静けさと落ち着きのある庭です。季節を変えて再訪したいと強く感じました。

   

建物内部は一部喫茶コーナーになっています。部屋ごとに貸室も営業しています。葛飾区の所有となっているためか、見学料はなんと\100です。これだけのお庭がこの料金、とても得をした気分になりました。
帰りは帝釈天の内部は見学せず、参道の船橋屋でくず餅を買って家内のお土産にしました。


■「都電」 柚原君子

平成14年12月に大江戸線が開通して、歓喜!感謝感激だった。青山・六本木にも、銀座に近い勝鬨や、築地や門前仲町の下町にも、新宿都庁へも行かれる。大江戸線は各路線にジョイントしているから便利で、としばらくの間は本当に嬉しかった。しばらくの間は。その後、大江戸線清澄白河の駅に半蔵門線が隅田川を越えてやってきてくっついた。で、どうなったかと言うと、比較対照をすることができるようになってしまって……その結果、やっぱり大江戸線はかなりの深部を走っている地下鉄なんだということがわかった。そして怖さを覚えたのである。そのあまりにもの深度に。

大江戸線の中で一番深い駅は六本木。この駅は二層式で、内回りのほうが下になっていて地面の下42.3mに存在する。標準的なビルの11階にあたる。次に深いのは新宿駅で36.6m。一番浅いのが清澄白河駅の14.7mだから、六本木駅は清澄白河駅の深さの3倍も下の方にあるということになる。
大江戸線改札に向かうためのエスカレーターを降りていく。切符売り場、改札にたどり着くために、どんどん降りていく。するとだんだん怖くなる。都営は徹底した合理化を図っているから、駅員さんの数も極端に少ない。ホームで何かを聞こうとしても誰もいない。災害の際は誰がどのように何人で誘導してくれるのだろうか。電気は自家発電に切り替わり、改札に直接誘導できるルートがどの駅にもあると広報室の説明だが、普段利用するホームに明確な説明はない。線路がどのようになっているのかを把握できるシステムは整えられてあるそうだが、線路から直接地上に出られるような非常階段は確保されていない。あったとしても一番深度の六本木近くでは、ビル11階分を昇って行くことになるのだ。
神戸淡路大震災クラスの地震にも耐えられる強固な造りであるそうだが、大江戸線は一番新しい地下鉄だから、深くを掘って敷設するしかないから、大江戸線よりは上の方にある既に設置されている地下鉄線が柔軟であれば、まずそれが崩れるから、救助はそれを取り除いた後に大江戸線の番になる。一体、暗闇の中にどれだけいたら救出隊がくるのだろうか。大江戸線は怖いよね。深いから。この頃ちらほらとそんな話を聞く。

昔は都内全域をちんちん電車が縦横に走っていた。
日本初の路面電車は明治28年に京都で誕生している。東京には明治36年、新橋~品川間が開通。大正8年には三田、青山、新宿、本所、大塚、巣鴨、三ノ輪、有楽橋、早稲田、広尾と車庫ごとに10系統に分けられていた。大正12年、関東大震災で都電は打撃を受け、代替輸送として市バスが登場してくる。昭和前期には営業所ごとの系統になり全部で35系統、一日の乗客数139万人を数えた。昭和30年代半ばまでが都電の最盛期で41系統まで増えた。しかしこの時代から経済高度成長期に突入して自動車数が飛躍的に増え、都電の状況は段々に厳しくなっていく。昭和38年には営団地下鉄丸の内線の開業に伴って都電の杉並線が廃止された。道路では車が益々幅をきかせ、都電は交通渋滞の悪玉のように扱われて、とうとう昭和47年には早稲田⇔三ノ輪間の荒川線を残してすべて廃止されるに至った。

私は23系統の都電が走っていた地域で青春時代を過ごした。敷設レールに春の光が反射していたことや、ちんちんと鳴らされる紐が車内を走っていたことや、車道に落ちそうなくらいの人があふれている線路の脇、つまり道路の真ん中にあるコンクリートの台の停留所で、アメリカのケネディ大統領が暗殺された驚きを友人たちと語った記憶などがある。
都電が廃止される6年前、高校一年生になっていた私は中学時代に好きだった男の子と通学が一緒だった。この頃の高校生は全体まだまだ純情で、辞書でキスなどの文字を調べて、その想像に胸を膨らませているような(私のことだが)、どの子も他愛ないものだったように思う。都電の通学時間帯はいつも満員だった。その日、おはよう!やあ!と挨拶を交わした後、人に押されて寄せられて、私は男の子の胸に抱かれる形になってしまった。男の子の胸のほのかな温かさ、男臭さ、私は息苦しさに絶えられずに、男の子には「ここからは地下鉄で行く」、と告げて浅草駅で逃げるように降りた。
いつもだったら押し出されるように降りてくる乗客の数が今日に限って少なく、変だなぁとは思ったが、私は都電に並行している地下鉄の入り口を目指した。地下鉄の昇降口の先のシャッターは閉まっっていた。『ストのため運行中止』と書いた紙切れがあった。戻るに戻れない。男の子を乗せた都電は信号が青にならずに、きっとまだそこにいる。私は格好をつけて普通に歩いて階段を降りて脇の壁にもたれた。
男の子の胸に押しやられた時とは違う恥ずかしさがあった。これだけでも失敗なのに数年後に思い出して再び赤面した。高校一年だった私は当時から背が高く165cmはあった。階段を数段下りただけではまだおかっぱ頭が隠れていず、私は都電が行ってしまうまでおかっぱ頭のてっぺんを都電のみんなに見せたまま、もたれていたのだった。多分。

目算のしようのない深度の闇の中を走る地下鉄。じっくり考えれば実に怖い乗り物だと思う。私はよほどのことが無い限り地下鉄には乗らない。まして大江戸線には乗らない。改札にたどり着くまで、深く深くなっていく階段を行くだけで気分が悪くなる。だから地上を走る電車かバスを利用する。
私的には都電が復活してくれたらいいなぁと思う。車を邪魔する都電だが、産業ルートには関係のない車に税金をうんとうんと高くかけて、それで都電や都バスを無料にして、乗用車などなくても無料で移動できる都内になれば、マイカーの必要はなくなる。
ついでながら、昔のような純情な女子高校生も復活してくれたらいいなぁと思っている。電車の中での化粧や着替え、ぺったんこ座りや、大股開き、チアガールのような短いスカート、稼ぎもないのにヴィトンを持って……そんな女子高校生は要らない。

 


酒井英樹




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