Monthly Web Magazine Feb. 2016

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トピックス
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■■■■■ 電子出版『地域おこし10の成功戦略』 瀧山幸伸


地域おこしや観光はライフワークの一部で、Japan Geographicの活動成果を活かして一冊の本にまとめました。
街並の紹介本よりも専門的な内容ですが、Japan Geographicの内容がお好きな方にもお役に立てると思います。
多くの方に簡単に購読いただけるよう、格安に設定し、手軽な購入方法を採用しました。


■■■■■ 動画のプレビューチャンネル 瀧山幸伸

こちらに索引を作りました。
動画は、Japan Geographicの目的(教育、千年後へのアーカイブスなど)に沿って撮影編集されていますので、娯楽目的には全く適していません。
しかし、その土地の生の姿を知りたい、歴史や文化を学びたいというような目的には適っています。
文章や写真では伝わらない動きや音を忠実に、可能な限り高性能で高品質の動画を提供していますから、BGMは臨場感を損なうので原則として入っていませんし、ナレーションやテロップは該当ページを見れば理解できますので入っていません。
現在アップしている動画はほとんどが4Kです。

新規にアップした動画の簡単な紹介をします。

秋田県秋田市 秋田竿灯 昨年の東北夏祭りの取材です。1時間近くありますが、カットを極小にしてほぼ最初から最後まで収録しています。観客席からの視点だけでなく、演者の視点でも撮影しました。
岩手県盛岡市 さんさ踊り 竿灯と同様、最初から最後まで1時間近くです。
秋田県大仙市 大曲花火大会 全編は長いので、ハイライトの「大会提供花火」6分ほどをUPしました。
福島県二本松市 木幡の幡祭り 日本三大旗祭の一つです。写真家は終盤の旗を持って神社の階段を駆けあがるシーンを狙いますが、男子の成人儀礼を伴う行事が記録を講じるべき重要無形民俗文化財に指定されていますので、その儀式も記録しました。
埼玉県長瀞町長瀞川下り 舟の舳先に乗せてもらいましたのでスリルがあります。全行程UPしています。天然記念物の河岸地形が興味深いです。
福井県高浜町 日引の棚田 美しい漁村の背後に広がる棚田です。刈り入れ時で、ヒガンバナが印象的です。
徳島県徳島市 阿波国分寺 名勝です。重森三玲が再発見した枯山水庭園の傑作です。
徳島県美波町の海岸風景 ウミガメが産卵に訪れる浜は天然記念物ですが、近くの海岸はどこも素朴で美しいです。
香川県琴平町旧金比羅大芝居 重要文化財です。芝居小屋で歌舞伎が開催される、動態保存の典型例です。係りの方の解説を全て収録し、席による見え方の違いもわかるように撮影しました。
香川県丸亀市 本島 史跡と伝統的建造物群保存地区です。街並の本でも紹介した塩飽水軍の本拠となった島で、古い町並みが残っています。咸臨丸の乗組員の多くがこの島出身です。町歩き風に路地を撮影しました。ネコ多いです。
愛媛県久万高原町 古岩屋 史跡です。絶壁にある窟屋に納められた不動明王ほか、パワーを感じる神秘的な場所です。
高知県安芸市 伊尾木洞 天然記念物のシダが石灰岩地形の洞窟の内側にびっしり。ちょっと怖いです。
高知県香南市 絵金蔵 浮世絵の絵師、金蔵が活躍した赤岡にある、土蔵を利用したミュージアムです。
高知県土佐市 五色ノ浜 天然記念物の岩、横浪メランジュがある美しい浜です。
大分県杵築市市街 街並発見の本の表紙を飾った伝統的建造物群保存地区の城下町で、坂歩きが楽しい街並です。多くの偉人を輩出しており、重光葵も当地です。見どころと現地での解説を1時間にまとめました。
鹿児島県 霧島市 嘉例川駅 明治の駅舎が登録文化財となって現役で残っています。駅舎撮影に立ち寄ったら特急はやとの風がやってきました。


■■■■■ 法隆寺中門の撮影にちなんで〜国による建造物の保護のことなど 大野木康夫

法隆寺中門の本格修理開始前に撮影に行きました。



法隆寺中門は、明治30(1897)年12月28日、「古社寺保存法」(社寺所有の有形文化財が対象)に基づく「特別保護建造物」に初めて指定された42棟のうちの一つです。
「古社寺保存法」は、社寺が所有する宝物を「国宝」に指定して散逸を防ぐことに重きを置いたもので、当初の法案には建造物の保護が含まれておらず、国会の審議の過程で含まれたようです。
なお、「国宝」は祭祀に使用するもの(御神宝や御本尊など)を除いて、官立・公立の博物館に出陳することを義務付けられていました。
海龍王寺元興寺の五重小塔が帝国奈良博物館(現・奈良国立博物館)に並んで展示されていたのはこのためかと思います。
古建築の保存が加わった背景には、伊東忠太等の尽力があったようで、彼らの業績として、近代の文化財建造物の設計だけではなく、こういったことも認識する必要があると思います。

「特別保護建造物」は、昭和4(1929)年7月1日、「古社寺保存法」の廃止及び「国宝保存法」の施行に伴い、「国宝」に指定されたものとみなされました。
背景には大恐慌により旧大名家等の什宝や調度などが売り立てにより散逸していったことがありますが、これにより城郭や霊廟など、社寺以外が所有する有形文化財についても保護の対象となりました。

「国宝保存法」に基づき指定された「国宝」は、昭和25(1950)年8月29日、「国宝保存法」等の廃止及び「文化財保護法」の施行に伴い、「重要文化財」に指定されたものとみなされました。
また、「重要文化財」のうち、「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」を「国宝」に指定するとされました。
それまで「国宝保存法」(有形文化財)、「重要美術品等の保存に関する法律」(有形文化財で「国宝」に準ずるもの)、史跡名勝天然記念物保存法の3体系に分かれて保存されていた文化遺産を、総合的に保護する法体系として整備されたのが「文化財保護法」です。(制定の直接のきっかけが法隆寺金堂の火災なのは有名です。)
法隆寺中門は、「重要文化財」へのみなし指定を経て、昭和26(1951)年6月9日、文化財保護法に基づく「国宝」に初めて指定された建造物36棟の一つになり、現在に至っています。
なお、「国宝保存法」により「国宝」に指定され、「文化財保護法」により「重要文化財」にみなし指定となった後、文化財保護法による「国宝」に指定されず「重要文化財」のままのものを「旧国宝」と呼ぶことがあります。
旧法指定の「国宝」は新法下では「重要文化財」となったのであって、新法の「国宝」は違う概念なので、「格下げ」されたわけではないのですが、「宝」という語感が大きく作用しているのでしょう。

ちなみに、明治30年に「特別保護建造物」に指定された42棟は次のとおりです。

北野神社本社(現国宝、指定名称「北野天満宮」)、大報恩寺本堂(千本釈迦堂、現国宝)、六波羅蜜寺本堂(現重要文化財)、念仏寺本堂(愛宕念仏寺本堂、現重要文化財、移転)



豊国神社唐門(現国宝)、蓮華王院本堂(大仏三十三間堂、現国宝)、東福寺山門(現国宝、指定名称「東福寺三門」)、法観寺五重塔(八坂塔、現重要文化財)



清水寺本堂(現国宝)、教王護国寺金堂(現国宝)、教王護国寺五重塔(現国宝)、本願寺飛雲閣(現国宝)



三千院本堂(往生極楽院本堂、現重要文化財)、大徳寺唐門(現国宝、撮影禁止のため画像なし)、鹿苑寺金閣(放火により焼失)、
三宝院殿堂(現国宝及び重要文化財)、醍醐寺五重塔(現国宝)、法界寺本堂(日野薬師堂、現国宝、指定名称「法界寺阿弥陀堂」)



平等院鳳凰堂(現国宝)、男山八幡宮本社(現重要文化財(国宝答申後の指定告示待ち)、指定名称「石清水八幡宮」)、浄瑠璃寺本堂(九体寺本堂、現国宝)、浄瑠璃寺三重塔(九体寺三重塔、現国宝)



観心寺本堂(現国宝)、東大寺南大門(現国宝)、東大寺法華堂(三月堂、現国宝)、東大寺鐘楼(現国宝)



興福寺北円堂(現国宝)、興福寺三重塔(現国宝)、興福寺五重塔(現国宝)、興福寺東金堂(現国宝)



新薬師寺本堂(現国宝)、唐招提寺金堂(現国宝)、薬師寺三重塔(現国宝、指定名称「薬師寺東塔」)、法輪寺三重塔(落雷により焼失)、法起寺三重塔(現国宝)



法隆寺金堂(現国宝)、法隆寺中門(現国宝)、法隆寺五重塔(現国宝)、法隆寺夢殿(現国宝、指定名称「法隆寺東院夢殿」)



室生寺五重塔(現国宝)、當麻寺東塔(現国宝)、當麻寺西塔(現国宝)、西明寺本堂(現国宝)、金色堂本堂(現国宝、撮影禁止のため画像なし)


■■■■■時代小説・時代劇と坂野家住宅 川村由幸

私は時代小説が好きです。池波正太郎にはじまり、藤沢修平には随分と泪しました。
今は佐伯泰秀に凝っていて、ほぼすべての作品を読破していて新作を常に待っている状態です。
最近の時代小説の良いところは新刊が文庫本だということです。ハードカバーがないのです。
それが文学の価値が低いからとは思いません。読者の立場を優先した結果だと考えています。
当然、テレビの時代劇も良く見ます。最近では「一路」 BSプレミアム 浅田次郎原作が珠玉でした。
もちろん原作も読んでいます。浅田次郎の時代小説もなかなかです。「壬生義士伝」を電車の中で
読んでいて、泪が止まらなくなり往生したことを覚えています。
そんな時代劇を見ていて、よく登場するのが茨城県常総市にある「坂野家住宅」です。
主屋と表門が重要文化財に指定されています。
特にNHKの時代劇は常総市に隣接するつくばみらい市にNHKの時代劇スタジオ「ワープステーション江戸」が
ある関係か良く出てきます。


駕籠を降りてこの表門を潜る映像を幾度も見ていますし、この竹林での殺陣シーンも見慣れたものです。
民放の時代劇は京都で撮影することが多いようで坂野家が出てくることはありません。

ここ、駐車場から坂野家の表門に向かう風情のある坂道で何が撮影されたかお分かりの方はテレビを良く見ている方です。
「桃太郎と浦島太郎に金太郎が金次郎に見える」場所、そうAUのテレビコマーシャルの一場面です。
もちろん、主屋もすばらしい佇まいなのですが、この主屋全体が登場した時代劇は見たことがないように思えます。
 
主屋の中での撮影は数限りなく行われていて、数えるのが無駄なほどです。
内部の展示物にも撮影された数々のドラマ・映画のポスター等があります。
自分が知っている、撮影に出かけたことがあるところがデレビ画面に出てくると思わず興奮するのは私だけでしょうか。
それが自分の好きな時代劇となると益々です。
こうして小さなことにでも心を動かすことが出来る。心を動かすことは老化防止にも役立つそうです。
小さなことにもたくさん感動して、楽しく暮らしましょう。


■■■■■ 辻の鋳物師(いもじし) 中山辰夫

先輩のメンバー・野崎さんが「七十路」を元気にお迎えになり喜んでおります。切り上げ「八十路」になりますと、単独の外出がかなわず、グループとか数人一緒の外出となります。「お誘い」は有難いのですが、場所や撮影時間がままならず、若干ストレスがたまる傾向にあります。
一人では、近場か一日一カ所、余裕をもっての訪問となります。従い、ローカルな情報が多くなりますがお許し願います。

滋賀県の栗東・辻は桃山時代以来、田中、太田、国松、高谷などを姓とする多くの鋳物師集団を輩出した集落で、現在もそのご子孫が定住されています。

鋳物師とは、寺院関係の鋳物(梵鐘、銅鑼、仏像、仏具等々)や鍋や釜、建造物用の金物の鋳造を手がける技術者。卑弥呼の鏡も鋳物製品といえますか?

この辻集落にある「井口天神社」の鳥居(市指定文化財)は、江戸時代(1694・元禄7)年に造立された、総高533.5cmの鋳銅製の明神型鳥居です。

鳥居の特長は、柱下の亀腹が複弁八葉間弁付きの反花(かえりばな花)であることです。

銅製鳥居の比較的古い例は、室町中期の金峯山寺銅鳥居(かねとりい・国重文・奈良県)、1637(寛永14)年の英彦山神宮(国重要文化財・福岡県)、同じ頃の日光東照宮(国重要文化財・栃木県)、1667(寛永7)年の春日神社青銅鳥居(県指定文化財・三重県桑名市)などに見られますが、鋳銅製の鳥居は全国的に多くないようです。

金峯山寺銅鳥居 英彦山神宮 日光東照宮 春日神社青銅鳥居


井口天神社の鳥居の左右柱の下一区には、田中・・と太田・・の両名が大願主兼鋳物師となり、江戸深川において鋳造したこと、さらに「関東出居氏子中」五十二名を含む総数二百二十九名の寄進交名が刻まれています。

江戸深川から運んで、辻村の鎮守・井口天満宮に奉納されたもので、諸国へ飛躍した辻村鋳物師が故郷に残した一大記念碑といえます。湯釡もおあります。

近江は奈良時代以前から産鉄国として知られ、産鉄・鋳造技術が進んでいました。「続日本書紀」にも708(和銅元)年「近江国をして銅銭を鋳さしむ」と見え、古来の鋳造技術を活かした和銅銭の鋳造が試みられたようで、この銅銭は辻近くの高野郷で行われたと記されています。
が、辻の鋳物師の源流・起源は明らかでありません。

桃山時代、千利休お抱えの釜師であった辻与二郎は辻村出身説が定説です。豊臣秀吉から『天下一』の称号を拝受し、京都三条釜座を代表する鋳物師の一人です。(大西清右衛門美術館の近辺が三条釜座跡でこの地域以外ではつくれなかった)
大西清右衛門美術館〜釜座通り(かまんざ)〜通りにある釜師・高木治郎兵衛宅→たった一人残った釜師


秀吉を祀る豊国神社と辻与二郎作の鉄燈籠(国重要文化財) 宝物館に展示されている。


豊臣家滅亡の端緒となる京都方広寺の大仏鐘鋳造の際、奉行片桐旦元から諸国鋳物師衆を集める命令書がで、辻村からも棟梁として加わったとあります。
片桐旦元書下写〜方広寺大仏鐘(国重要文化財)

この辺りから辻の鋳物師の歴史が見えだします。

栗東には中山道と東海道の二大街道が通り、辻鋳物師もまた、この街道を利用して諸国へでかけ販路を築きました。膳所藩のバックアップもあったようです。
辻の鋳物師の最大の特色は、諸国へ盛んに出職・出店を行った点です。辻には屋敷と妻子を置くという、江戸時代・1640年頃に早くも近江商人の先駆けとなる動きをしていました。
この頃近江国内には八日市金屋村・神崎郡三俣村・高島郡宮野村・愛知郡長村等に鋳物師がおりましたが、辻鋳物師のみが株仲間の支配傘下に入り、他国への出職・出店を展開しました。


江戸時代に出職・出店をした人の中には、明治に入って製薬業や醤油業等に転業した人、いわゆる本来の近江商人と同じ道を選んだ人もいたようです。
今も、関東や愛知などには、辻の鋳物師を祖とし、十数代にわたり家業を継いでいる方が多く残っておられます。
今の辻村には鋳造に携わる人は皆無ですが、集落内は殆どが子孫にあたる方々ばかりです。
鋳物師ばかりでなく、最近は手作りできる鬼瓦の鬼板師の数も半減とか。普段見過ごしている美術・工芸の分野も難問山積みの様です。
ちょっとした情報をきっかけに、過去に訪れた先を思いだして楽しんでおります。にわか仕込みの報告ですみません。
(引用:近江の鋳物師、栗太郡志)

 


■■■■■ 出水に旅する 田中康平

1月の終わりにツルを見に出水平野まで出かけたが、せっかくだからと出水の武家屋敷群にも足を延ばした。
9年前に訪れた時は天草から教会でも見ながらとぶらぶらしながらフェリーで渡ってきたせいもあって時間切れでそこまでは回れなかった。リベンジということもある。
武家屋敷群の名は聞くが出水城というのは耳にしない、どうなっているのだろうかと思いつつナビに導かれて目的地に近い駐車場に至る。
の武家屋敷の趣とはだいぶ違って道が広いし真っ直ぐだ。玉垣が道の両側に残っているので恐らく道の幅は当時のままなのだろう。
公開されている竹添邸・税所邸を訪れる。見学は無料でボランティアと思われる方が説明してくれるが、何人もの地元の方が雛人形の飾りつけをし、地元の中学生たちに説明したりもしている。にぎやかだ。
気になった出水城は勿論あって武家屋敷群の直ぐ北側の小山がそれだが、この武家屋敷群が城の一部として機能するように作られているという、ここも城ということになる。
広い道路は馬場として騎馬訓練に使用するためらしい。薩摩の北の守りのかなめの場所であり、秀吉の死後天下が乱れることを見越して整備してきたらしい。そう聞くとこれは本物だ、との気がしてくる。
屋敷の屋内で大弓が打てるようにも工夫してあったり、攻め込まれた時に隠れる場所が用意してあったり、家自体が戦闘を考えて作ってある。
各地に再建された城はどうにも戦闘のイメージの沸かない平和な感じがするものが多いような気がしているが、ここはそうではないようだ。
領主の使った館跡は小学校になっていた。同じような光景を秋月でも見た、秋月では城跡が高校になっていた。
次の時代を担う人をまず育てねばという明治の心が伝わってくるようだ。そしてその熱意は今に引き継がれていることがこの場所でも感じられる。
明治中期には一時ゼロまで落ち込んだツルの渡来も多くの地元の人の熱意で現在の一万羽を越えるまでの渡来地となった。訪問した時も東干拓地の小屋には熱心な地元の方がつめていた。
先の見えない時代だが、ちょっとした旅でも地元の熱いあるいは温かい心に触れるとまだ日本も捨てたものではないと思わさせてくれる、そんなところがいい。

写真は順に 1.出水武家屋敷の広い道路 2.武家屋敷内部 3.今は小学校となっている領主の使った屋敷の門 4.出水のツル



■■■■■ 日光杉並木街道  柴田由紀江

久しぶりに日光杉並木街道を訪れると、よく知っていた筈の地域にバイパス道路が出来ていました。
杉並木街道は観光道であるとともに地元の人々の生活に密着した幹線道路で、毎日多くの車両が通行しています。その交通量の多さゆえに振動や排気ガスなどが並木杉の健全な育成に重大な影響を与えています。そこで県ではバイパスの整備を進めてきており、並木杉の樹勢回復に大きな効果が期待されています。
また、幾つかの大きな杉の幹に名札が掛けられています。日光杉並木オーナー制度が始まってから早20年になるそうですが、現在では400名を越す方々からのご支援を頂いているそうです。
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■■■■■福岡県筑紫野市 古賀 「月形洗蔵幽閉の地」碑 末永邦夫

地元の歴史を見直そうとする活動の一環で、筑紫野市にある明治維新の遺跡の紹介です。

筑紫野市古賀に「月形洗蔵(せんぞう)幽閉の地」と刻まれた石碑が建っています。
月形洗蔵は筑前勤王党の志士です。藩主・黒田長溥(ながひろ)に尊皇論の立場から述べた建白書を提出したため、捕縛され、この地【御笠郡古賀村佐伯五三郎宅(現・筑紫野市古賀)】に約1年間幽閉されました。
「禁門の変」で敗れた長州藩が匿っていた五卿(三条実朝他)を福岡藩に移すため、幽閉中の月形洗蔵は罪を許され、1865年に五卿を太宰府天満宮の延寿王院(現在の西高辻家邸宅)に迎える働きをします。
五卿がここに滞在中、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬など勤王派の志士が訪ねて来て,維新の相談をします。
福岡藩は犬鳴山に福岡城の代替の城(犬鳴山別館)を築こうとした事や、五卿の元に集まる志士や筑前勤王党の行動が幕府にとがめられます。
このため、1865年、福岡藩は筑前勤王党の藩士を捕縛拘束し、家老加藤司書以下7名切腹、月形洗蔵以下14名斬首など処罰します【乙丑(いちゅう)の獄】。
福岡藩の筑前勤王党は壊滅します。
月形洗蔵は薩長同盟の基礎となる建白書を作り、その後、坂本龍馬が実行へ移したと云われています。
また、戯曲の主人公の月形半平太は、月形洗蔵と武市半平太(土佐勤王党)をモデルにしたと云われています。
明治になって、月形洗蔵は贈正四位とされ名誉を回復します。



■■■■■ 郵便ポスト かまちまさこ

夫の転勤に伴って知らない土地で暮らすことも多い。近所を探検していたら、懐かしいものがあった。
昔の郵便ポストである。幼少のころは当たり前にあったが、いつごろか、かわいいフォルムは郵便局の窓口に置いてある貯金箱ぐらいしか見なくなった。
ところが、山口県山口市には現役の旧式のポストがあったのだ。
よく見るとちゃんと取集もされている。撮影した日は西日本では大雪の後だったので、近くに雪も残っている。
郵便ポストに限らず、昔はあったよねーと思うことが、歴史の長さからしたら私の短い人生年月の中でもある。
あーこんな時は昔の写真があればいいのにね、というようなニュースもよくある。
今日は備前焼の狛犬が心無いものに盗まれているというニュースをやっていた。もう作る人が居ないらしい。
返ってきて欲しいものだが、写真でも残っていたら、もしかしたら作れる人がいるかもしれない。
今まではこんな写真撮ってどうするの?と思いつつ写真を撮っていたが、これが何かの役に立つかもしれないという思いに変心するとともに、撮り方にも気をつけて行こうと思う。

山口県山口市の郵便ポスト



■■■■■比叡山延暦寺で捻挫した話  野崎順次

冬になると一度は雪景色の写真が撮りたくなる。仕事を持つ身だから、土日でないと出かけられない。それで1月24日(日)に比叡山延暦寺に出かけて残雪を楽しんでいたら、こけて捻挫した。40年に一度と云われた大寒波到来時である。

それまでの経過がある。本来、横浜の娘宅で孫と遊んでいた筈なのである。20日(水)から東京出張だった。ところがこの日は全国的に雪が降った。鹿児島でも、福岡でも。新大阪発午前8時16分の新幹線に乗ったが、京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県の沿線は全て真っ白で、予定していた多治見での打ち合わせはキャンセルさせてもらった。名古屋あたりから快晴になり、富士山頂の雪煙が見えた。

   

結局、1時間遅れで東京に着いた。東京の積雪はほとんど残っていなかったが、非常に寒い。いつも通り、金曜日の晩に娘宅に泊まった。24日(日)までいるつもりだ。土曜日の午前中に外に出て7歳の孫とミニバスケットボールをパスしたりドリブルしていたら、突然、寒気がしてきた。倦怠感もある。1週間前には長男と家内が続けさまにインフルエンザa型にかかった矢先である。大事をとって大阪に戻ることにした。できるだけ気を張っていたら楽になってきて、発熱することもなく、無事に帰宅した。いつもの二日酔いかも知れぬ。

というわけで、大寒波到来の24日(日)の朝は自宅で迎えた。快調である。雪景色を撮影したいので久しぶりに比叡山延暦寺に行くことにした。装備は、最もヘビーデューティな登山用ダウンパーカー、春秋用登山ズボンにタイツ二重、軽登山靴である。京都側のバスやケーブルは3月初めまで運休しているので、冬の公的交通機関としては琵琶湖側の坂本ケーブルしかない。琵琶湖の眺望が素晴らしかった。

  

ここから東塔地域に徒歩10分である。気温はマイナス2℃くらいか。道路は5cmから10cmの雪が筋状にあり、残りは凍結している。靴を真上から降ろすように、また、靴底の接触面積が最大になるように慎重に歩いた。人の歩かない平地の積雪は20cmくらい、窪みは30cm〜40cmくらいで楽しく歩ける程度である。ただし、石段の多くは通行禁止になっていた。
快晴のもと、根本中堂、文殊楼、大講堂、戒壇院と回った。

     

戒壇院から大講堂の石段下に行く緩い登り坂で突然スッテンコロリンとこけた。左手にカメラ付きの三脚を持っていたので、とっさに守ろうとしたが、シフトレンズが凍結雪面に当たった。同時に右足くるぶし外側をひどく路面に打ちつけたようであった。その時はカメラのことばかり気になってたし、アドレナリンが分泌されて痛みを感じなかった。14時15分頃であった。レンズは少し緩んだようだが、取りあえず、実用上は問題なさそうだ。少しほっとして、阿弥陀堂、東塔へ向かった。

  

くるぶしの外側が非常に痛くなってきた。その時は、捻挫ではなく、打ち身だと思っていた。歩けるから、骨折やひびの恐れはないはずである。それから、1時間ばかり撮影してから、16時のケーブルカーで山を下りた。18時30分頃に帰宅、くるぶし回りにボルタレンゲル(経皮鎮痛消炎剤)をたっぷり塗って寝た。

翌日、非常に痛い。近くに有名な整形外科があるので行けばよいが、いつも混んでいるので、気が進まない。何とか歩けるので、会社に行った。

翌々日、近くの整骨院で見て貰った。くるぶしの回りをいろいろ押して、そこは痛いとか、痛くないとか言っていたら、結局、捻挫と判明した。腫れている。「3週間くらいかかりまっせ。」と云われた。こけた時にすぐ冷やせばよかった(そういえば、周囲は雪だらけだったのに)。腫れると直るのが遅くなるそうだ。薬局で売っている棒状靴下タイプのサポーターはあまり効果がないとのことで、お薦めのテーピングタイプを買った。税込み1,188円である。靴下の上から巻き付けるだけで、支持効果がよい。

   

3日間くらい不自由な歩き方であったが、ボルタレンゲルが良かったのか、サポーターが良かったのか、順調に直って行った。捻挫してから、ちょうど1週間後の1月31日(日)、再び、比叡山延暦寺に出かけ、西塔地域を撮影できた。雪はほとんど融けていた。スマホに着いている万歩計によれば、この日の歩数は2万余、登った階数は23階相当だった。


■■■■■看板考「National」 ゆはらきみこ



所在地:愛知県名古屋市西区那古野1-13-1 【円頓寺(えんとんじ)商店街 内】
撮影日:2016年1月26日

映画館は遠くの町に一つしかなく、娯楽といえば運動場に大きな幕が張られて、そこに写された映画を村人老若男女がゴザを持ち寄って座ってみるというそんな昭和の半ばのこと。
愛知県飛保の曼陀羅寺の末寺である「安楽寺」が村の中にあって、村の会合はほとんどそこで行われていた。
子ども会で紙芝居の催しがあるという日の夜、10歳の私と8歳の弟は手をしっかりと握り合って、闇夜のまさに漆黒と言える中、小石がゴロゴロする細い道を吊り下げ取っ手のついた角ばった電灯で足元を照らしながら寺に急いだ。
空には天の川、少しの怖さと暗闇を縫って吹いてくる風に畑の匂いを感じながら、足元の少し先を照らす懐中電灯の輪の中で次々と石の影をまたがせて先に急ぐ……10歳前の子ども二人だけで夜道を懐中電灯で歩かせるなど、今では考えられないが、当時の子どもは大人の都合に応じて子ども扱いされたり大人扱いされたり、どこの家もこんな感じだったので、お寺の集会所に集まった子どもたちは手に手に懐中電灯を持っていた。
父の懐中電灯は自転車から取り外すことが出来るもので、 かすかな記憶に基づいて、今回の看板の記事を書く前に松下電器(現パナソニック)の社史をのぞいて見ると、似たような絵が見つかった。
(図は社史より引用)

社史を抜粋すると、
1918:松下電機器具製作所創立
1925:ナショナル商標登録
1937:○に稲光を上下に入れたロゴ「ナショ文字」採用
1959:ロゴ「ナショ文字」の背後にナショナルのNが太文字で大きく入る
1966:英文表記ロゴ採用「NATIONAL」
1973:ロゴ改訂「National」
となっていたので、私と弟が夜道を照らしたランプは、やはりこれだったかもしれないと懐かしく見入ってしまった。
ちなみにこのランプを売るためにいろいろなネーミングを考えていた松下幸之助氏は、インターナショナルという言葉を見つけて、国際的という意味では大きすぎるので、国民的という意味でナショナルにしてランプを「ナショナルランプ」と命名したとあった。
「ナショナルランプ」は1927年に初めてナショナルの商標を使って売った商品であり、爆発的ヒットで一ヶ月に3万個も売れたとあり、父の許にもあった可能性が大だと思えた。

さて、「National」と書かれたシャッター看板ですが、以前訪ねた名古屋駅近くの円頓寺商店街を再び訪ねて見つけました。
先回訪問時よりも閉まっている店舗が多く、商店街が生き残る難しさをヒシヒシと感じて歩きましたが、閉まっているからこそ見えた看板もあるようで、看板好きとしては嬉しくなりました。
かなり派手にいろいろなロゴが書き散らされている角地の商店がありました。
Nationalとありますので社史に照らし合わせますと1973年以降に書かれたものということでしょうか。
Nationalのiの字はシャッターの柱の上にありえないような長さのIで表されていて、松下幸之助さんが御存命であれば、刷毛を持って書き換えにいらしたのではなかろうか、と妄想しました。
この商店はビクター犬のニッパーの看板も、SONYもYAMAHAも掲げられていますし、音楽教室も経営の項目だったようで、手広い商いが成り立ち、良くも悪くも人々が勢いよく生きていた時代が想像されるシャッター看板だと思います。


■■■■■ オバカメ (おばちゃんカメラマンが行く) 瀧山Bカメ

■おばけが出たぞ〜〜〜@高知市ひろめ市場 

ひろめ市場とおばけときたら、還暦過ぎた方たちは懐かしいと思われる方もいらっしゃるでしょう。
「さらしクジラ」でなるほど〜そうだそうだと記憶がよみがえるはず。
小さいころは夏はさらしクジラ、冬は鯨汁、給食では竜田揚げが定番でした。
鯨汁の皮(黒いところ)を歯の間に挟んでピアノ・・・・・結構受けました。
最近では鯨を食す文化はあまり受け入れられないようですが、高知では健在でした。寿司、ベーコン、たたき、刺身と見事に調達することができます。
日本人ほど鯨を大切にし、髭からしっぽの先まで利用する国民がいるでしょうか?利用法は語れば長くなるので省略しますが、鯨墓、供養塔など、いただいた命に対してこれほど感謝する国民がいるでしょうか?
ひろめ市場ではいろんなお店から好きなものを買いそろえ、お酒も好きなものを持ち込んでいただくことができます。
シャリシャリのおばけクジラは「怨めしや〜〜〜」ではなく「忘れないでね」と言ってるように思われました。自然の恵みに感謝です。

ひろめ市場とおばけ
 

山口県長門市青海島の鯨墓


長崎県平戸市の鯨供養塔
 


■日本一利用者平均年齢の高いマクドナルド?@巣鴨地蔵通り

4の日の市のせいもあり、巣鴨地蔵通りはごった返し。何でもありだ。
最近閑古鳥のマックもここでは空席待ちの椅子ですら待ち状態。
覗いただけだが、声のボリュームも高そうだ。
横文字メニューだけでなく高齢者にやさしいメニューも将来的に必要になるのか?
認知症検査のような長名の「北海道産ほくほくポテトとチェダーチーズに焦がし醤油風味の特製オニオンソースが効いたジューシービーフバーガー」390円はここではいくつ売れるだろうか?





 
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Japan Geographic Web Magazine
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Editor Yuki Takiyama
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