Monthly Web Magazine Dec. 2015
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トピックス
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■■■■■ 木幡の幡祭り 瀧山幸伸
木幡(こはた)の幡祭りは、毎年12月の第一日曜日に福島県二本松市の木幡地区で行われる祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
この行事は、平成6年12月13日に「木幡の幡祭り」として記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されていますので、1回目の調査記録を2009年に行いました。
ところが音声収録と儀式の流れの動画記録が完璧ではなかったため、今回は4kの動画と8kの静止画で一連の儀式の流れを再収録しました。宮司様、総大将様、皆さんありがとうございました。
■■■■■ ルイ・カレ邸 野崎順次
パリ在住の知人(日本人)がルイ・カレ邸の写真を送ってくれた。アルヴァ・アアルトがルイ・カレのために設計した住宅でフランスにある唯一のアアルト建築である。
アルヴァ・アアルト(1898 - 1976)はフィンランド人、20世紀を代表する世界的な建築家・都市計画家で、家具、食器など日用品のデザインも手掛けた。その肖像画はフィンランド紙幣や切手にも使われたほどである。ルイ・カレ(1897‐1977)はフランス人で、弁護士、ギャラリスト、現代美術コレクターであった。1955年、それまで一面識もなかったがカレの設計依頼の手紙がアアルトに届き、翌年打ち合わせのために会って意気投合し、1956年に着工、1959年に竣工した。
ルイ・カレ邸は近年やっと公開され、フランスを訪れる建築愛好家にとって、ル・コルビュジェのサボイ邸に並ぶ見学スポットであるらしい。パリの西約50㎞で、住所と住宅平面図は次のとおり。
Maison Louis Carré, 2 chemin du Saint-Sacrement, 78490 Bazoches-sur-Guyonne
(多摩美術大学環境デザイン学科平山研究室ウェブサイト、北欧建築ゼミ アアルトより)
Google Mapで見てみると、上記の平面図は上が南である。すなわち、アプローチは北側で、サウナ付き寝室は南に面している。
ゆったりとした広い敷地の中に優雅に横たわり、背景にとけ込んだような、片流れ屋根の住宅である。ルイ・カレ氏はル・コルビュジェと同じ建物に住んでいたが、コンクリート建築を好まないので、アアルトに設計を依頼したそうだ。建物だけでなく、家具調度、照明器具、建築金物などすべてがアアルトのデザインによる。
玄関からダイニング。ダイニングの広い壁にもコレクションの絵がかけられていたので、照明が壁にもあたるようになっている。
リビングへ
ルイ・カレの書斎
その外
外部のプールと外灯
アアルトの本国、フィンランドのヘルシンキには彼が設計したカフェ・アアルトがあり、日本映画「かもめ食堂」のロケに使われたそうだ。身内がDVDを持っていたので見ることができた。映画の中では背景として実に何気なかったが、テーブル、いす、ペンダントライトなどすべてがアアルトのデザインである。その何気なさがアアルトの上品さであろう。
参考資料
多摩美術大学環境デザイン学科平山研究室ウェブサイト、北欧建築ゼミ アアルト
ウィキペディア「アルヴァ・ア−ルト」
■■■■■ 紅葉に心駆られて 大野木康夫
今年の京都の紅葉は、天候不順でばらつきがあったようですが、後半にはいい色づきとなったところもあり、まあまあ楽しめたと思います。
キャンペーンやインターネットの効果で年々増える人波ですが、12月に入ると人が急に少なくなるのは、大半のツアーが11月に設定されているからでしょうか。
毎年、紅葉撮影で寺社等を回って痛感するのは、拝観料の負担が大きいことですが、それでも回る意欲が衰えません。
紅葉狩りとはよく言ったもので、晴天の透過光に輝く紅葉に心を狩られているのでしょう。
11月21日
天龍寺早朝拝観
宝厳院はまだ見頃前でした。
一部の赤いところをスポットで撮影
嵐山は今年はいまひとつ
大河内山荘は盛り過ぎ
亀岡大本本部天恩郷
11月22日朝
発色はいまひとつですが人気が高い永観堂
押し寄せる人波
オレンジの紅葉
11月28日
朝一番からたくさんの人でにぎわっていました。
通天橋は満員電車並みです。
色付きは少しばらつきがありましたが、経堂付近はきれいでした。
早朝以外は人が多く、奥の院仮設回廊はガードマンの方が撮影をしないよう呼びかける状態でした。
まあまあの発色ですが少し緑も混ざっています。
晴天でまあまあきれいでした。
それなりに色づいていました。
11月29日
早朝の毘沙門堂
夜明け前から勅使坂はカメラの列ができていました。
7時過ぎのほうが空いていたくらいです。
色付きはよかったです。
12月5日
清水寺、早朝に再チャレンジ
人が少ないのでゆっくり撮影できますが、日が射さないので日陰の紅葉となります。
開門直後のもみじ参道、薬医門を挟んで両側に「撮影線」が設定され、その内側は人がいない状況となっていました。
12月に入って人が少なくなったからかもしれません。
少し早かったですが、晴天できれいでした。
毘沙門堂、晩翠園目的で再訪
ますます色づきが深くなり、いい色になっていました。
奇跡的に勅使坂が無人になったこともあり、幸運だったと思います。
紅葉は毎年色づきが違うので、来年はどうなるのか今から楽しみです。
■■■■■岡崎・南禅寺界隈の庭園群(紅葉めぐり) 中山辰夫
南禅寺周辺の庭園巡りをしました。非公開の個所も多く外から眺めるばかりです。一部季節の異なる分も含みます。
南禅寺は1868(慶応4)年の神仏分離令や続いての社寺上知令などにより、約13万坪あった寺領が約4万坪に縮小し、塔頭も25院が8院になりました
これらの旧境内・塔頭跡地と岡崎には、明治20年代後半から昭和初期にかけて多くの邸宅・別荘が建設され、庭園が作庭されました。これらの庭園を総称して,「南禅寺界隈別荘庭園群」といわれます。
京都市は「岡崎・南禅寺界隈の庭の調査」を行い、境内や邸宅地が60カ所、その当時作庭された庭園が40ケ所残っていると報告しています。
岡崎・並びに南禅寺界隈の庭の位置図・他 (引用:岡崎・南禅寺界隈の庭の調査)
この地域が邸宅化・別荘化したのは、琵琶湖疏水の完成と岡崎一帯を含む周辺土地の工業地化計画の変更と、有力施主と小川治兵衛の存在が挙げられます
庭園の殆どが7代目小川治兵衛(植治)の作庭で、その作風は、「東山を借景とした演出、琵琶湖疏水の水を利用した流れの意匠、明るく開放的な芝生の広場、林間に見え隠れする瀟洒な茶室の佇まい」ともいわれます。
100年余の間、所有者が転変し、使用目的がかわった所も多くあります。個人所有のため非公開先が多くあり、庭園全部を鑑賞することは今後も無理でしょう
訪問先を列挙します。夫々が持つ歴史を知ることも興味深々です。 (注) 以後の文中にある⑦・小川治兵衛は7代目小川治兵衛の略です。
有芳園(非公開 鹿ケ谷下宮ノ町) 第15代住友吉衛門(春翆)の別邸、約3000㎡、作庭者:⑦・小川治兵衛、1919(大正8)年頃完成
春翆は治兵衛の大スポンサーで、住友系の幾多の邸宅・別荘の作庭を命じました。
(財)泉屋博古館(鹿ケ谷下宮ノ町) 住友春翆のコレクション及び住友家の伝来品を展示、1960(昭和35)年設立、作庭:11代小川治兵衛
光雲寺(塔頭・非公開 南禅寺北ノ坊町59) 書院南庭園、池泉回遊式、1927(昭和2)年作庭、⑦・小川治兵衛の晩年の作品
京都つる家(料亭・岡崎東天王町) 1928(昭和3)年頃開業、築山林山式、作庭者:加藤熊吉(植熊)、1921(大正12)年頃の作庭
永観堂禅林寺(永観堂町) 今年の紅葉が美しかったのは永観堂だけと多く耳にしました。 枯山水式庭園もある、琵琶湖疏水の水を利用
碧雲荘・清流亭・怡園・流響院が並ぶ一帯は、閑静で独特の風格が感じられる邸宅が並ぶ。左右が碧雲荘と清流亭で、突き当りが怡 園です。
この地域の別荘開発に大きく貢献したのが不動産業者・塚本与三次(近江五個荘商人が祖)です。京都市から水車の権利を買い取って水を確保し、土地開発を進めました。碧雲荘・清流亭・怡 園・流響院の一帯は塚本の所有地で、流響院と清流亭は塚本の邸宅・福地庵を二分し、岩崎小平太と下郷傳平に譲り初めての別荘建築としました。その後、与三次と治兵衛は協力して庭付き高級建売住宅の販売にも着手したようです。野村碧雲荘は与三次、有芳園は治兵衛から買い求めました土地でした。 流響院と清流亭は一郭の中に並び建っています。
碧雲荘(非公開 南禅寺下河原町) 施主:野村徳七(得庵):池泉回遊式、庭園面積約3000坪、作庭:⑦・小川治兵衛・白楊、1917(大正6)年頃着手
怡園(非公開 南禅寺下河原町) 塔頭跡、1928(昭和3)細川護立所有、「怡園 いえん」は喜ぶ・楽しむの意、7代目小川治兵衛、1932(昭和7)年完成
清流亭(非公開 南禅寺下河原町) 現在は㈱京都大松の所有、分割して下郷傳平が購入、作庭は⑦・小川治兵衛・白楊(長男)、1914(大正2)年に完成
流響院(非公開 南禅寺下河原町) 現在は宗教法人・真如苑が所有、分割して三菱の岩崎小弥太が購入、作庭は清流亭と同じ。臨時の特別公開日有
洛翆(非公開 南禅寺草川町) 藤田小太郎の私邸、現在は日本調剤㈱が所有、敷地約1000坪、⑦・小川治兵衛が作庭、2003(平成15)年に11代目が改修
松下真々庵((非公開 南禅寺草川町) 施主:染谷寛治、池泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1913(大正2)年頃、松下幸之助所有、1961(昭和36)年大改修
聴松院(塔頭・非公開 南禅寺草川町) 池泉回遊式、室町後期、作庭:相阿弥、江戸時代頃は湯豆腐店を併設、現在は「奥丹」が隣に出店する
大安苑(料亭 南禅寺草川町) 京割烹店、塔頭・牧護院の隣り、池泉回遊式、作庭⑦・小川治兵衛:
牧護庵(塔頭 非公開 南禅寺福地町)) 1320年塔所として建立、本堂は昭和初期建立、庭園は古典工法により作庭、「わらべ地蔵の庭」と称される
桜鶴苑(料亭 南禅寺草川町) 1913(大正2)年古美術商・山中定次郎購入、池泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1915(大正4)年頃、現在清水家所有
慈心庵(塔頭 南禅寺草川町) 「だるま寺」が通称、1385年頃創建、その後衰退し江戸期に蜂須賀家が再興、庭園は池泉回遊式
順正(湯豆腐店 南禅寺草川町) 1839年(天保10)年創設の順正書院が始まり、作庭は江戸時代、1946(昭和21)年上田堪一郎購入し改修
南禅寺方丈(南禅寺福地町) 現存の建物は桃山時代のもの、庭園は方丈庭園(虎の子渡し)、枯山水、作庭;小堀遠州、1611(慶長16)年
南禅院(塔頭 南禅寺福地町) 建物は1703(元禄13)年に再建、庭園は唯一残された遺産で13世紀後半の造庭、池泉回遊式、作庭者:夢想国師、
天授庵(塔頭・南禅寺福地町) 1340年創建、枯山水と池泉回遊式、作庭者:不明、池泉式は鎌倉末期から南北朝期の特徴を有す、桜・紅葉が見事
南陽院(塔頭・非公開 福地町) 1908(明治41)年創建、枯山水、作庭:⑦・小川治兵衛、1908(明治42)年、毎年臨時特別公開日あり
何有荘(非公開 南禅寺福地町) 現在の所有者は2010(平成22)年からエリクソン氏、現在改修中(2029年完成)、作庭:⑦・小川治兵衛、1917年頃作庭
金地院(塔頭 南禅寺福地町) 施主:崇伝、枯山水「鶴亀の庭」、作庭者:小堀遠州、1631(寛文8)年頃作庭、庭園は東照宮に続く
大寧軒(非公開 南禅寺福地町) 塔頭跡、施主:原弥兵衛が薮内紹智の構想で作庭、1906(大正12)年頃、敷地約470坪
智水庵(非公開 南禅寺福地町) 塔頭跡、個人の所有、池庭と茶庭の組合せ、作庭:⑦・小川治兵衛、小規模庭園、 「菱田邸庭園」ともいわれる
八千代(旅館と料亭 南禅寺福地町) 池泉回遊式、⑦・治兵衛作、八千代の安土桃山時代は御所御用達の魚問屋、後に料理屋に転じ、戦後現地で開業
對龍山荘(非公開 南禅寺福地町) 現・㈱ニトリホールデイングが平成10年より所有、伊集院兼常が1896(明治29)作庭、後に市田弥一郎により1906(明治39)年頃現在の庭形が完成、池泉回遊式、作庭者:⑦・小川治兵衛 治兵衛は伊集院に造園の技法・技術・総合的創造力を習う。国指定名勝
菊水(旅館・料亭 南禅寺福地町) 對龍山荘と向い合う、池泉回遊式、⑦・小川治兵衛、1895(明治28)年頃、円山公園の枝垂れ桜と兄弟の桜がある
白河院(旅館 岡崎法勝寺町) 施主:大丸の下村忠兵衛、築山林泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1919(大正13)年、治兵衛の熟年期の技が光る
平安神宮(岡崎最勝寺町) 池泉回遊式、作庭:⑦・小川治兵衛、1895(明治28)年、その後も改修続く、東神苑は1916(大正5)年に完成
京都市美術館(岡崎円勝寺町) 1909(明治42)年に造営された商品陳列館の庭が前身、小川治兵衛が工事主任、美術館は1933開館、庭は改変している
無鄰菴・瓢亭・ぎんもんどは隣り合っている。三条通から一筋入ると、左が無鄰菴、右がぎんもんど、突き当りが瓢亭で、琵琶湖疏水の水が順に廻ってゆく
都林泉名所図会に描かれている湯豆腐屋「丹後屋」の跡地が無鄰菴で、丹後屋は後に口丹、中丹、奥丹の三店に分かれました。奥丹が聴松院横で開業中
無鄰菴(南禅寺草川町) 施主:山県有朋、池泉回遊式、作庭:小川治兵衛、1896(明治29)年完成、治兵衛35歳、1941(昭和16)年京都市に寄贈された
庭に造詣の深い有朋が、自ら設計・監督し、治兵衛を指導した。治兵衛にとって無鄰菴は、近代庭園造営の祖と言われる原点である
瓢亭本店(料亭 南禅寺草川町) 400年程前茶店としてスタート、1864(元和元)年より料亭にかわり現在に至る。隣は湯豆腐屋「丹後屋」でした
南禅寺ぎんもんど(京料理店 南禅寺草川町) 近江の豪商・小林吟右衛門の別荘、「総合商社・チョーギン」が前身、庭園は池泉回遊式、⑦・治兵衛作庭
ウエスティン都ホテル京都(ホテル 東山区粟田口華頂町)
ホテルの7階に「佳水園庭園」、5階に「葵殿庭園」がある。ホテルは1890(明治23)年開設の保養所・吉水園が前身、1900(明治33)都ホテルとして開業
佳水園庭園 1925(大正14)年の昭和天皇即位大礼に合せ作庭、作庭者:小川白楊(治兵衛の長男)、白楊は翌年43歳で病没、自然の岩盤を利用した
葵殿庭園 1915(大正5)年の大正天皇即位の御大典頃は植栽程度の庭園を回遊式に改修、⑦・治平衛、1933(昭和8)年、治兵衛最後の作品となった。
旧並河家(並河靖之七宝記念館 東山区三条通北裏川白川筋東入ル堀池町) 隣家で親戚の⑦・治兵衛最初の作品、池泉回遊式、1894(明治27年
七宝の制作に要する研磨用の余水を水源とした。琵琶湖疏水の水を個人宅に引きこんだ初で、別荘の先駆となった。
円山公園・日本庭園 1886(明治19)年に総面積9万㎡の公園が設けられ、翌年京都市へ移管され、京都市最初の都市公園となった。
その後、武田五一の園池計画に沿って拡張と整備が行われ、1912(大正元)年に⑦・治平衛により池泉回遊庭園が造庭され現在の形となった。
≪引用資料は「岡崎・南禅寺界隈の庭の調査」、他≫
高校時代は父の転勤の関係で関西で過ごしていた。50年くらい前のことになる。受験勉強につかれた時、一人で京都を巡ることがあった。そんな記憶が体のどこかに残っていて、時々京都が気になるような感じがする。こんな訳もあって今年の秋は紅葉の京都を巡ってみたくなった、京都の紅葉は高校の頃学校から1−2回バスで授業の一環のような形で見に行った記憶があるが、それ以来かもしれない。
仙洞御所の参観が12月1日の午前分で当選したのでそれを軸に2泊3日ででかけた。
今年の紅葉は暖かい日が続きまだ青葉も残るところもあったり赤くならずに落葉してしまったり今一つの感がなくもないが、それそのものが自然の営みの結果でもあり移ろい行く様が面白くもある。久しぶりの京都の紅葉はそれぞれに心に残るものがあった。
以下訪れたところを順に
平等院:まだ青葉が目立ったが建物が派手なので丁度いい塩梅のようにも感じられる。鳳凰堂の中を初めて見た。
東寺(ライトアップ):20年ぶりのライトアップという。五重塔もライトアップされスケールが大きい。混んでなくて落ち着いてみられたのがいい。
東福寺:朝一番に通天橋を訪れた。通天紅葉(トウカエデ)は大分散っていたがイロハモミジの赤の海のような景観は迫力がある。重森三玲の手による方丈の庭も面白い。
仙洞御所:紅葉を全面に押し出した感じのする庭園がちょうどいい時期に当たった。押し付けるようなところのないそれでいてその量と奥行を感じさせる紅葉が心地よい。
京都御所:建物にかかるもみじや御内庭の紅葉の風情が歴史を感じさせてちょっといい。
嵐山:もう大分葉が落ちていて色がさえない。暑さ負けの感じがする。
天龍寺:回遊できる庭園の紅葉は赤と黄色がバランスよく交じり合いなかなかいい。
宝嚴院(ライトアップ):圧倒されるような量を感じる。光の遊びも面白いが写真にとるとちょっとどぎつくなる。
北野天満宮:本殿後ろのイチョウの朝日に輝くさまもなかなかで、もみじ苑の紅葉も自生しているような自然な感じがあって好ましい。
金閣寺:修学旅行でとても混んでいたが丁度いいくらいのもみじが庭をうまく彩っている。
龍安寺:石庭の後ろにほのかに見える紅葉が緩やかに季節を伝えるようでちょっといい。西源院湯豆腐で一休み。
等持院:混雑はなく落ち着いて見頃の紅葉を眺められた。
京都タワー:あんなにある紅葉はここからは僅かしか見えない。京都はやはり庭の紅葉だと実感する。(写真は清水寺遠望)。
どこもそれなりに感じるところがある。山の紅葉とは違った人の巧みの技がちりばめられているようでそこらあたりが様々に面白い、しかし疲れる、体力が要る。また来れるだろうか。
カメラを持って都心のあちこちをぶらっと散歩。
ウェブマガジンのネタに詰まったときの格好のテーマになりそうです。
そんなわけで今回は仕事場の隣、東京タワー界隈を散歩してみました。
東日本大震災の後、しばらく先端が曲がっていた東京タワーも今は完全に修復され真っ直ぐに青空に突き刺さっています。
東京タワーはいくらか高台に建てられており、ここから増上寺へは坂を下って行く感じになります。
増上寺には正面の三解脱門からでなく、本殿の横から境内に入ります。
本殿を右にみて進むと徳川将軍家墓所の緑青のふきだした威厳のある門があります。
今は特別拝観を実施しているようます。
この墓所の手前奥に風車と一緒に 地蔵尊が無数に並んでます。水子供養でしょうか。
数の多さにいささか圧倒されてしまいますね。
増上寺で、本殿と東京タワーのツーショットは押さえなければいけない定番です。
重要文化財の三解脱門をくぐり、日比谷通りをこえるとレンガ造りのおしゃれなビルが目に入ります。
クレッセントというフレンチのお店、私には敷居が高そうですが。
三解脱門を出て、右に行きます。
まず、目に付くのが黒門、あっちこっち移築された由緒ある門です。その先に進むと旧台徳院霊廟惣門があります。これも重要文化財で徳川二代秀忠の廟の門です。
残念ながら、第二次大戦 1945年5月の東京大空襲でほとんどの建造物が焼け、この門だけが残ったようです。
実は、三解脱門を出て反対の左に行くと地下鉄御成門駅手前に有章院霊廟二天門があります。
徳川七代家継の廟の門で重要文化財、これも大半の建造物が東京大空襲で焼失しています。
今の修繕工事中でネットに覆われ、見学が難しい状況です。
東京は戦争で多くの文化財を失っています。悲しい出来事です。
さぁ、元の道を戻って仕事場に帰りましょう。
雰囲気の良い、塀に沿って三解脱門へ、火頭窓・火灯窓・花頭窓といろいろな呼び名があるようですが三解脱門の両袖にあるカトウマドです。なぜ古い建造物の造形はこんなにも美しいのでしょう。
また、三解脱門をくぐり、増上寺の境内をぬけます。
そして、東京タワーに向かって坂を登って今回の東京散歩はお終いです。
次にネタに詰まった時は、どこを散歩しましょうか?
読者の皆様の中にリクエストがございましたら、お知らせください。お待ちしております。
■■■■■看板考「猫おことわり」 ゆはらきみこ
所在地:群馬県安中市
中山道宿歩きの途中の神社の賽銭口に掲げられていた看板です。
『賽銭口 注)猫お断り』とあります。
どういう意味でしょうか。
例えば猫に宛てたものなら、
■安中市の猫は字が読める!と間接的に自慢している?
■猫はわがままで望みが多くとても全ては叶えられないので、猫がお賽銭を投げてお祈りするのはお断りしている?
例えば人間様に宛てたものなら、
■捨て猫救助で有名な神社の(想像です)経営方針に変更があった?
■野良猫に秋刀魚を取られてばかりいる人が、秋刀魚を食べる間だけ入れに来る?
■ねずみ年の神主さん、ねずみ年のその奥様、ねずみ年の子どもたちと、神社全員で猫を恐れている?
■賽銭がないのでお願い事に来た人が、生きた猫を奉納したことがあった?
と、いろいろと想像をしてニンマリとしてしまった看板でした。
きっと近隣のいたずらっ子たちが、猫を入れてしまう対策なのでしょうね。
しかし深読みすれば、とさらに私は立ちつくします。
神仏場所に掛かる看板なので奥深く考えれば、猫に小判の諺があるように、ありがたいものを見せても効果や反応が無いことから、神社にお参りをしてもお願いばかりをする人は、神様の心理や道理がわからないのでお断り、という気持ちをやんわりと告げている優しい神官の心持、ということも有りえるのでしょうか。
神社やお寺さんで拝む時にいろいろお願いしたくなりますが、私は「いろいろ守ってくださってありがとう」、ということにしてお願いの諸々は控えています。
全知全能の神様なら都合を考えながら、叱咤激励や愛のムチを私におあたえくださるでしょうから、例えば苦しいことが与えられたら、多少もがきますが、良きことに繋がるその道の途中……そう考えることにしています。
今年も終わりますね。どなた様も良き来年となりますように。お祈り申し上げます。
■■■■■ おばちゃんカメラマンが行く 事務局
山方芋煮会
おばちゃんの笑顔とおそろいの帽子
おばちゃん度120%
写欲<食欲
よ〜く見るとなぜか芋に歯形が・・・・・
年賀状の季節
明けましておめでとう
立派な尻顔でしたが、ボツになりました。
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Japan Geographic Web Magazine
https://JAPAN GEOGRAPHIC/
Editor Yuki Takiyama
yuki at .jp (Replace at to @)
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