Monthly Web Magazine Apr. 2015

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トピックス

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■■■■■ 最近の訪問地 瀧山幸伸

3月から4月にかけて訪問した土地の話題です。

■■ 桜いろいろ

桜は、毎年「もうおなかいっぱい」というほど巡り、全国桜リストも充実してきました。それでも飽きないもので、今年もあちこち出かけました。

桜はまちおこしにもなりますし、地元の人の誇り、心の支えでもあります。

夜の桜で有名な下呂の苗代桜は絶好の日和で、夕暮のマジックアワー、群青色の空を背景に浮かび上がるさまは極楽のような姿でした。

近くを走る高山線と桜も郷愁を誘います。

苗代桜

高山本線と

南信州にはたくさんの桜があります。高遠の夜桜も無風の池に映った姿が幻想的でした。

駒ヶ根市の吉瀬の桜は立体的で見栄えがします。

中川町で出会った桜はどれも素晴らしいものでした。西丸尾のしだれ桜、桜とともに生きることの幸せを感じます。

谷村家の桜は、茅葺民家と南アルプスがぼうっと浮かび上がる姿。こんな所が日本に残っていたのですね。

■■ タウトの遺産

熱海の旧日向別邸地下室は、日本に残る唯一のブルーノ・タウト作品です。

見学は予約制の少人数、撮影禁止と、気軽にという訳にはいきませんが、都市計画家でもあるタウトの世界観や芸術性を肌で感じることができます。

『日本美の再発見』やタウトの日記は今でも新鮮です。『タウトが撮ったニッポン』(酒井道夫・沢良子)は大学出版会がびっくりするほど売れたそうです。私たち通信員の相談役のような存在の酒井道夫先生と沢良子先生にタウトのことをいろいろ教えていただきました。

比較文化、特に外国人の視点ということでは、タウトの東日本紀行やイザベラ・バードの『日本奥地紀行』、アーネスト・サトウが監修した『明治日本旅行案内』などは大変興味深く、それぞれの紀行作品も特集でまとめる予定です。

紀行文学といえば芭蕉の奥の細道が挙げられますが、万葉から源氏、伊勢物語、太平記など、古典文学の舞台を巡る分野別索引も作る予定です。

中山道など、街道単位でまとめるのも意味がありますが、それだけでは日本の文化を学ぶには不足だと思っていますので。

旧日向別邸 一階からの風景

■■ 伊豆のジオパーク

ジオパークが流行りつつあります。消費型観光では飽き足りなくなり、学習型旅行者が増えたということでしょうか。

伊豆の南から西海岸にもいろいろあります。伊豆西海岸、特に堂ケ島の天窓洞は有名ですが、田牛の竜宮窟はお手軽に自然のダイナミズムを体感できるおすすめスポットです。

伊豆西海岸(南伊豆町)

堂ケ島

田牛


■■■■■ 南山王祭の「ホイノボリ」 中山辰夫

滋賀県日野町大窪の日枝神社春祭り「南山王祭」が4月4日に行われ、伝統の「ホイノボリ」が境内を彩り、満開の桜と華やかさを競いました。

ホイノボリは、日野町域の七つの神社の春祭りに奉納される特徴的な作りものです。先陣を切る日枝神社のホイノボリが春を告げます。

祭りが行われた日野町は、滋賀県の南東、琵琶湖の東南部、鈴鹿山系の西麓に位置する人口約22,000人の町です。

鎌倉時代から安土桃山時代にかけての400年は蒲生一族の城下町で、蒲生定秀が天文年間(1532〜54)初頭に町割りをし、鞍や鉄砲の製造を中心とした商業のまちづくりをしたところに現在の日野の原点があります。

蒲生氏郷が日野から松阪、会津へ転封となって一時衰退しました(松阪に同行した三井家が三井財閥の元祖です)。が、江戸時代に入り、近江商人の一角・日野商人を輩出し、日野椀や薬の行商をして全国へ進出、以後は商人の町として発展しました。この日野商人の財力が日野の文化形成に大きく寄与しました。

日野町域に伝承される祭りの中で、国や県の無形民俗文化財に指定されているものとして「ホイノボリの祭」・「日野祭」・「火振り祭」、そして「芋競べ祭」があります。いずれもその規模の大きさ、華やかさに特徴があり、日野の人々の経済性と文化性・進取性に支えられ、発展してきたものです。

南山王祭では、地元の人たちが五穀豊穣などを願って「ホイノボリ」と呼ばれる幟(のぼり)22本を奉納します。

この幟は高さ約5mの太竹の頂に幣または榊をたて、頂部より割竹を細く仕上げた長い竹ひごに、白やピンクの薄紙で作った花を飾り付け、48本の竹ひご(ホイ)を円錐状にたらすというもので、幟1本に約2000枚の花がついています。(昔は手染めで色付けしたため色むらが出来てそこにも味があったようです)

ホイはしだれ桜のように垂れ下がり、風に揺られるさまは正に春を告げる風物詩といえます。

二十二ある町内の氏子が約1ケ月前頃から「花作り」を始め、出来た花を48本のホイに付け、順を追って組立を行い、「幟旗」をつけてホイノボリが完成します。

幟は、祭礼の朝、各町内から神社前の広場に運び込まれ、用意された杭に固定され、さらに荒縄三本で三方へ引っ張られます。

午前10時頃には22本すべてが到着し、広場はホイノボリで一杯になります。

11時過ぎからは、町内の人が集まり、ホイノボリの下にシートを敷き、料理を囲んで歓談します。昔は御馳走を持ち寄りましたが今は出来合いの弁当です。

町内の人が神に護られて、春のうららかな日にホイノボリの下で酒を飲み交わす情景は、なごやかそのもので、何十年か前の日本の原風景を見ている感じでした。

前日は雨で、空模様が心配でしたが快晴となり、しかも久方ぶりに桜の満開と重なり、地元の人も幟と桜の色鮮やかな共演に酔いしれる様子でした。

午後二時になると神事が始まる。神事の進行とともに帰り支度が始まり、ホイノボリは夫々の町に帰って行きます。

ホイノボリの起源は定かでないですが、蒲生家が城下町をこの日野につくり、楽市楽座で商工業を自由に取引させた頃にこの風習が自然に起こったとされ、御幣を持ってお宮に参り、天に向かって高く掲げ、それに飾りをつけたことが始まりで、全国的に見ても、日野の幟はとびぬけて大きいようです。

春の花が散る季節、散る花の如く疫病が広がらないことを願い、稲穂が散り不作とならないよう願った伝承が残っている。最近までは垂れ下がるホイを抜き、蛇除けの護符に持ち帰ったともいわれます。ホイを作る業者不足や人口減などで継承には苦労されていますが、地元氏子間の強いつながりが支えの力になっています。


■■■■■ 御土居と桜 〜最近の撮影から〜 大野木康夫

3月末、まだ桜には少し早かったので、史跡を撮影しようと思い立ち、国指定史跡「御土居」9箇所を1日で巡ってみました。

御土居は豊臣秀吉が京都に築いた土塁で、土塁の外側には壕も備わっていたようです。

以降、御土居の内側が洛中、外側は洛外と呼ばれるようになったそうです。

時代とともに消失しますが、痕跡が残る9箇所が史跡として文化財指定されています。

盧山寺御土居は追儺式鬼法楽で有名な門跡寺院盧山寺の墓地に残っています。

残っている土塁は削られたのか、高さも幅もあまりありません。

紫竹御土居は上賀茂神社近く、御薗橋を西に渡ったすぐ南側、加茂川中学北側に残っています。

御土居全体の北東角の部分です。

大宮御土居は玄琢下交差点付近から光悦自動車学校にかけて、原型に一番近い形で残っています。

高さも高く、幅もあり、外側の壕もはっきりしています。

鷹峯2番御土居はしょうざんリゾート付近、紙屋川の崖の上に残っており、おそらく当時から壕はなかったと思われます。

御土居全体の北西角の部分です。

鷹峯3番御土居は2番御土居のすぐ南、鷹峯市営住宅の西側に残っており、公園として整備されています。

上にも上れます。

紫野御土居は西陣の北端、柏野の紙屋川沿いに残っていますが、ほとんどが宅地となっており、土塁が露頭しているところはごくわずかです。

平野御土居は北野天満宮北側に残っており、復元整備されているようです。

北野御土居は現在は天満宮のもみじ苑となっており、公開時期が決まっているので見ることができません。

11月には多くの人でにぎわいます。

西ノ京御土居は地下鉄西大路御池駅のすぐ東に残っており、市兵衛稲荷の境内となっています。

御土居が都市化とともに消失していく様子がよくわかりました。

4月に入って、桜を追いかけました。

京都では、今年は、3月31日前後に満開となった桜が、その後の雨で早く衰え、週末には見ごろ過ぎとなったようで、勤め人には撮影が難しくなりました。

清水寺(4月3日早朝)

醍醐寺平安神宮嵐山(4月4日)

今年は意識して、一本桜を撮影しようと思い、4月5日は土砂降りの中、滋賀・高島市のエドヒガンの古木を撮影しました。

清水の桜

竹生の桜夫婦桜酒波のエドヒガン

酒波寺の行基桜

翌週は、京都のほとんどの桜が見ごろを過ぎていたので、遅咲きの名所を回りました。

海津大崎根尾谷淡墨ザクラ(4月11日)

畑のしだれ桜 (4月12日)

おそらくこれで今年の桜は見納めかと思います。

来年はどう追いかけるか、今から楽しみです。


■■■■■ 里山炭焼き体験塾 in 平等寺 末永邦夫

私が住んでいる筑紫野市は福岡市のベッドタウンとして新しい住民が増えています。

しかし、里山は老齢化により、手入れができず段々と荒れてきています。

このため、里山の整備と炭焼きの伝統を広く住民に知ってもらおうと、市の主催で「里山炭焼き体験塾 in 平等寺」が計画されました。

昨年秋に行われた「体験塾」に参加したので、その時の様子を報告します。


■■■■■ 桜雑感 田中康平

2015年の桜 今年も桜の季節は忙しい。

28か29日が桜満開と予測したが今年は満開のあたりで東京での同期会や同窓会があって東京に遊びに行くことになった。

3月27日に羽田に着いてまずは浜離宮に向かう。そこから隅田川をクルーズして浅草に至り取って返して最初の会合に出席するという計画で出発した。

浜離宮は予想より開花が進まず3分から5分位だがそれなりに美しく汐留の高層ビル群を背景に新鮮な輝きを感じる。

隅田川をさかのぼる。両岸の桜は2分位という状態で満開には大分間がある。しかし十分面白い。

翌28日千鳥ヶ淵から靖国神社、上野と見て回ると、動いてる間に気温が上がってみるみる花開いていく。夕方からの会合が終わった後再び千鳥ヶ淵に行き夜桜を眺めるともう満開近い。

桜でもソメイヨシノをみるなら東京だ。いつのころからか断言するようにそう思っている。東京の桜を見るたびにその確信は強まっている。花のお江戸を絵にかいたように東京の桜は迫力がある。今年もそれを確認した。しかし人が多い。外人が多いのにも驚きを感じる。この時期は東京は明らかに世界的な観光地になっているようだ。東京の桜の多さは明治時代に盛んに植樹されたことに端を発しているようだ。千鳥ヶ淵の桜はイギリス大使館のアーネストサトウの記念植樹が始まりとされている。首都としての風格や思いが込められてきたのだろう。

福岡へ戻ると花散らしの嵐となって福岡の満開は見逃した。それでも近所の南公園や桧原桜を見て回る。桧原桜にはいわれがある。桧原という場所の道路拡張で切られると決まっていた桜を、後二旬ついの開花を許したまえ との桜の命乞いの句を誰かがつぼみ膨らむ桜に結びつけた。これを市長が散歩中にたまたま読み とわに匂わん花の心は との返歌を結び、桜伐採を中止指示した。道は微妙に曲げられ桜は今も咲き続けている との逸話だ。話を知るとなんということもない桜だがつい見に行ってしまう。

古木の桜も見てみたいと、筑豊にある虎尾桜という樹齢600年のエドヒガンザクラも見に行った。これは福地山の中腹にあり開花が平地のソメイヨシノより1週間ほど遅れるらしいとのネット情報もあり4月9日に出かけてみた。やっと晴れたのもある。結構きつい登りを30分位登って到達したがかなり散っていて残りは2−3分という感じだ。この桜は30年位前に見つかって弱っていたのを地元の人が中心になって手を尽くした結果樹勢が戻って立派な花をつけるようになったという。そんな思いを知って見るせいか散りながらなお風格がある。

さまざまのことおもひ出す桜かな との芭蕉の句ではないが 桜には見る者の思いが絡まって風景に浸る、そうさせやすい何かを持っているように思えている。

写真は順に 1.浜離宮、2.隅田川、3.千鳥ヶ淵、4.靖国神社、5.池田門、6/7.東京国立博物館、8.上野公園、9.千鳥ヶ淵夜桜、10.福岡-南公園、11.桧原桜、12.四王寺山、13.虎尾桜-福智山山中


■■■■■ 「2014年6月29日長州へ」 野崎順次 

新幹線とJR西日本ジパング倶楽部の割引を駆使して、日帰りで山口県に行った記録である。早朝に倉敷の田舎家を出て、当時はJG未踏の住吉神社拝殿(重文)と本殿(国宝)および龍福寺本堂(重文)を撮影し、ついでに山口の他の文化財も楽しんで、夜には尼崎の自宅に帰るというハードスケジュールをこなした。ただし、その後、住吉神社は既に5月初めに瀧山さんが訪問されているのが分かった。

05:15 児島発 マリンライナー2号

05:45 岡山着 

06:10 岡山発 こだま721号

07:11 広島着

07:37 広島発 さくら451号

08:28 新下関着

駅から住吉神社までは直線距離でほぼ1km、歩いても1.5㎞位だが、タクシーに乗った。8時40分頃から撮影を開始し、9時半には終了した。

大通りに向かった。バス停があり、ちょうど新下関駅に行くバスが来た。

09:47 一の宮バス停から新下関駅へ

10:19 新下関発 こだま738号

10:45 新山口着4

新幹線から山口線に乗り換える。

10:59 新山口発 普通

11:21 山口着

タクシーでまず龍福寺に行った。運転手さんが話し好きで、電気自動車の普及の話を聞いた。大阪人とは異なり、ボケないのでツッコミが入れられず、最後にオチもなかった。大内館跡に着いて参道を進むと龍福寺である。

龍福寺本堂(重文)、八坂神社本殿(重文)、河村写真館(県文)と撮影していった。

私は建築の静止画および動画撮影にこだわっている。だから、シフトレンズ、三脚、レベラー、専用マイクを使うようにしている。この時、カメラのストロボシューにはレベラー(水準器)を付け、カメラと三脚の間にストロボバーを挟んでそのストロボシューにマイクをはめていた。ストロボバーを使うのは初めての試みである。だが、何回か締め直すうちにストロボバーのネジが切れて三脚との接続部がどうしても取れない。これでは三脚が使えない。周囲は住宅地で店らしい店と云えば和菓子屋さんしかなかった。ペンチがありますかと聞くと、ご親切にいろいろ探して貸して下さった。残った接続部はペンチで容易に取れて一安心。お礼に和菓子を一つ買ってその場で食べた。

500メートルくらい北に歩いて西に入ると瑠璃光寺である。ここから比較的狭い地域に文化財建造物が目白押しである。大内文化と長州文化の中心というべきか。

瑠璃光寺五重塔(国宝)、洞春寺山門と観音堂(ともに重文)、旧県庁舎(重文)、旧県会議事堂(重文)、旧山口藩庁門

県庁前よりタクシーで山口駅へ戻った。

予定より早く戻れたので、新山口から新大阪の新幹線予約を早目に切り替えることにした。ところがみどりの窓口の老駅員さんは画面操作に慣れていないし、目も悪そう。老眼鏡だけでは不充分らしく拡大鏡まで取り出して、5分以上かかった。結局、16時48分の新山口行きに乗れず、次の電車まで40分あまりビールを飲んだりそばを食べたりして時間をつぶした。

17:30 山口発

17:52 新山口着

17:59 新山口発 こだま751号

18:46 広島着

18:56 広島発 さくら564号

20:26 新大阪着

長い一日であった。


■■■■■ 奈良と高野山 川村由幸

三月の20日過ぎに奈良と高野山を廻ってきました。桜の季節の混雑を嫌い、訪問時期を早めたのですが、今冬最後の寒波来週で寒さとの戦いとなってしまいました。

それでもまず最初におどろいたのが、東大寺参道の鹿と外国からの観光客の多さでした。

霙が降ったほどに冷え込んでいるにもかかわらず、大勢の人出なのです。ただそれも大仏殿までで、それより奥に進むと静けさを取り戻します。

建造物もほとんどが国宝か重文で見ごたえ充分なのですが、やはり東大寺ミュージアムで見た仏像の数々に最も感動しました。撮影ができないことは覚悟していたとは言え、残念な思いで一杯になりました。

続いて興福寺へ、興福寺は山門が失われていて、いきなり国宝の五重塔と東金堂が目に飛び込んできます。

興福寺は今中金堂の再建工事中で北円堂にも近づけません。それでも国宝館では阿修羅を筆頭に国宝の仏像を鑑賞してきました。南円堂のしたにある三重塔を見逃したのは事前学習不足で情けないことでした。

関西在住の方は、このような文化財をいつでも見ることができるのが、とても羨ましく思えます。

奈良市内は乗合バスでの移動を考えていましたが、寒さに負け、薬師寺への移動はタクシーです。

薬師寺も今、東塔が工事中で見ることができず、朱色の建物ばかりでシャッターを押す気も起きず、薬師如来に深々と礼をして唐招提寺に向かいました。

唐招提寺の金堂は姿が良いお堂です。惚れ惚れします。

ここも建造物のほとんどが国宝か重文、たくさんの文化財に囲まれているだけで満ち足りた気持ちになります。

金堂内の仏像もゆっくりと拝観でき、奈良時代の制作技術の高さに驚かされて時の過ぎるのを忘れるほどでした。

どの寺も境内が広大で歩いて回っただけで疲れ果てました。初日はここまでです。

翌日は宇陀市の室生寺からスタート。今日からはレンタカーを利用しての移動です。

金堂に安置されている仏像の特別拝観中で平安の釈迦如来はじめ鎌倉の十二神将をまじかで拝観できました。

これを東京で見ようとしたら、長蛇の列に並び拝観料も何倍も支払う必要があるでしょう。

新幹線で出かけてきた甲斐があるというものです。

悔いが残るのは、いささか体調不良で奥の院に行けなかったのです。次の機会があるのかどうか、無理をしても行っておくべきであったと帰ってからも後悔しています。

次は回廊で名高い長谷寺です。

花の寺としても有名ですが、桜は蕾が大きく膨らんでいましたが、開花までは行っていませんでした。

回廊の石段を一段づつ老骨に鞭打って、息を切らせて上がりました。

ここでお寺とは少し離れて石の遺跡を見て回りました。酒船石遺跡と蘇我馬子の墓とではないかと言われている石舞台古墳です。酒船石の造形はなんとも不思議なものです。

石舞台古墳に使用されている巨大な石を7世紀にどうやって動かしたのでしょう。合計2,300トン、最大77トンもの巨石を。

ともに飛鳥時代の石の遺跡、古代ロマンというか現代人には理解しがたいものが奈良には多く存在します。

ドルメンなら、秋田大湯のストーンサークルを見学していますが、奈良の遺跡はもっと大きな権力を感じる遺跡でした。

最後に訪れたのが今年開創1200年を迎える高野山です。金剛峯寺は訪れましたが、他の見どころは

たくさん落としているようです。

奥の院へ続く道を歩きましたが、あれは墓地を歩き回っているのですね。考えてみるといささか不気味な行為です。

他人様の墓地を歩き回るのですから普段は絶対にしない行動でしょう。

金剛峯寺は開創1200年の記念行事の準備が進められていて、作業員が大勢立ち働いていました。

庭の京都、仏像の奈良と言われているわけで、私も今回多くの仏像に出会って感動をいただきました。

そんな中、仏像の画像が1枚も無いというのはなんとも淋しいと思います。

もちろん、撮影できないのですから無いのが同然ですが、東大寺ミュージアムでいただいたパンフレットをスキャンした画像を載せておきます。

また、奈良にでかけましょう。


■■■■■ 看板考「エバポン」 ゆはらきみこ

 所在地:東京都葛飾区高砂にて(2015年3月撮影)

本日の看板は「エバポン」です。今はもう誰も住んでいない古い家の脇に捨て置かれていました。大正製薬で売られていたトイレの一滴消臭剤。現在では販売されていません。

当時お手洗いのことを『ご不浄』と言っていた時代、ボットンお便所という別名であった頃の消臭剤です。エバポンは小さな瓶に入っていて、用を足したあと数滴を垂らすだけで、透明な潮風が清涼感満載で吹きぬけるような感じでした。

「イッテキショウシュウエキ〜♪」というCMもありましたし、当時はどこのご不浄にも球体のナフタリンなどがぶら下げてありましたね。子どもが触れるような所に下げてありました。エバポンが垂らされてもご不浄の強烈な臭いは完全に払拭されず、ウッと息を止めてご不浄から出てくるのが常でした。私が小さい頃はご不浄は臭いのが当たり前で、特に変だとは思いませんでした。

エバポンは無くなりました。ご不浄という言葉も多分死語にちかいでしょうね。

……ついでながら、無くなったり記憶から薄れたりして行くものを少し羅列してみます。テレビのチャンネルは、昔は回すものでした。ツマミをね。私は今でも時々チャンネル回してもいい?と娘に訊いてしまうことがあります。娘や孫たちは当然にしてチャンネルは「替える」です。押すものと回すもの。電話もその手の変化ですね。

リンスは昔はお湯に溶かして頭に回しかけていました。ぬらした歯ブラシを歯磨き粉の缶の中に突っ込んで歯ブラシについてきた粉で歯を磨いていました。家族一同じいちゃんもばあちゃんも、もちろん同じ缶。親父臭、加齢臭、核家族なんて言葉はまだ発明されていませんでした。

鉄筆でガリ版切ったものを印刷機に丁寧にかけて、インクを入れて回転させてわら半紙で問題集を作っていた。数学の先生がイケメンだったので、女学校の全員がお手伝いを望みました。学級委員だった私はその権利でイケメン先生のガリ版のお手伝いをしました。もちろんイケメンという言葉もまだ出現していなかった。

缶ジュースには猫の爪の様な形のものが必ずついていて、それでプシュッと開けて飲むのでしたが、うまく飲めない場合は反対側にもプシュッと空けて、空気の循環でたやすく飲めるようにしました。

中学時代は、女子は家庭科、男子は技術と別々の教室に分かれて勉強。駅の改札口では切符にパンチを入れてもらって通過していました。パンチで指を切られる人もいなかったけど、だからと言って通勤客が滞ることも無く、改札のおじさんはまるでパンチ職人のようでした。

1ドルは360円。ちなみに電電公社は神社ではないですよ。中学生向けの雑誌には文通欄が有って、住所も名前も駄々漏れであっけらかんと載っていました。電話帳も卒業名簿も情報はすべてオープン。卒業名簿などはこれでもかという位に続き柄や就職先まで掲載されていましたっけ。……いいんだか悪いんだか、普通免許をもらうと原付も自動二輪もついてきたコトモアリマシタ。

朽ちた家の脇で鉄サビの浮いた「エバポン」看板。捨て置かれた看板にちょっと昭和の臭いがしましたので、ついでならが廃れた昭和に思いを馳せてみた今回でした。……あっ!字を間違えました。昭和の臭い、ではなく昭和の匂い、でした。

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Japan Geographic Web Magazine

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Editor Yuki Takiyama

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